二人のピアニストに思う

gooニュース、注目のトピックスで「フジ子ヘミングがNHK斬り」を見て自分でもブログを作り、発言したくなった。

Y君の遠州旅行

2007-04-07 13:11:07 | 旅行
Y君に付いては何度か紹介しているように、自身のブログを限定公開扱いにしているので、時折、惜しい話が一般に紹介されないのは残念である。
Y君は、今月の4/1~4/2に掛けて地元の老人会のグループ旅行に参加して三保に行き、羽衣の松を見た。
幼少時から彼の父君の謡曲で承知していた羽衣伝説の松が、そして三保の松原が、想像していた以上に立派なのを見て感動したそうである。

Y君は、4/2にはグループ旅行を中途で脱落して、浜松に向かった。  旧友のH君と会うためである。
隠居して出掛ける機会も少なくなった現在、他の用件で近くまで来た序でに、旧友に会いたくなるのは自然の事である。  しかし、彼には他にも目論見があった。
それは、彼の細君とH夫人とは、今迄についぞ会う機会がないままに、過ぎて居たので、この機会に初対面の場を作りたかったこと、及び有名な浜松の楽器博物館を細君が見たがっているので夢を叶えてやろうとしたことである。
今年は4/1~4/3の日ごろは丁度桜が満開で、旅行の道中でも、その素晴らしさを満喫出来たのは幸運であった。

しかし一方で、この日頃は遠州地方は黄砂に覆われた。
4/2には地元の人達も、未だ嘗てこのような酷い黄砂に覆われた遠州地方を見たことが無い、と驚いていたそうだ。
折角浜松名物のアクトシテイ・ホテルが、Y君にタワーの40階の海側の部屋を用意してくれたのに、遠州灘はおろか、街中さえも灰色に霞んでしまって、展望できない有様であったというのは、残念であった。

 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

Y君夫妻はこの日、念願の楽器博物館を訪れた。
あれだけの内容の品々を揃えるのには、膨大な資金と、途轍もない努力と、透徹した見識が無ければ、出来る事でない。
Y君らはテレビ番組「ピアノピア」で映し出されていた鍵盤楽器を含めた、それらの展示物の素晴らしさに満足し、そのほかに、来館者に対する博物館スタッフの気働き、人間性に大層感激していた。

彼の満足感は、それだけでない。
今から40年も前に、Y君が初めてウイーンを訪れて、国立オペラ劇場に向かう電車に乗っていたら、途中で、今の今迄台所で働いていました、といった感じのスタイルで乗り込んできた若いご婦人が、Y君の隣に立って、
「私、これからオペラを見に行くんだ」
と嬉しそうな顔で語り掛けるので、驚いた。
「ウイーンと東京との街の空気の相違を痛感した」、とその時、私はY君に聞かされたのを憶えている。

ところが、今回Y君夫妻が楽器博物館から出てホテルに向かって歩いていると、信号待ちで歩道に隣り合って立った見知らぬ男性が
「楽器博物館に行ってきたの?。 俺も先日行った」
と語りかけてきたので、驚いたそうである。
東京では、先ず有り得ない事態である。

更に、その後で、地下道で側壁に張られた音楽会のポスターを、立ち止まって見ていると、若い美人のお嬢様が
「あそこにビラが有りまよ」
と声を掛けて教えてくれた。
これも、東京では絶対に有り得ないことである。
このことで、Y君は40年前のウイーンの電車内の出来事を、思い出したそうである。

私は、都市には都市の、国には国の空気というものがあって、文化とか人情とか、伝統に依って培われたものであるように思う。
それらは、例えばオペラ劇場とか、楽器博物館と言うような箱物を作れば生じるものでなく、それなりの空気が育った地域で箱物を作ると、本物が出来上がるように感じられてならない。


そしてウイーンには、また浜松にも、それがあるように思えてくる。
例えば、米国では見知らぬ人同士が何かの弾みで視線が合うと、ニコリと微笑む事が多いが、日本ではこうした場合、大抵は睨み返される、とは、よく謂われる。
彼の住む東京との、その様な空気の差を感じて、Y君も嬉しかったのだと思う。

その意味で、『株転がしで金だけは有る、といった人種だけが高価なチケットを買って行くオペラハウス』、
を作っても日本の文化はレベルアップしない。 ウイーンのオペラ劇場の天井桟敷のチケットの安値さはどうだろう。
『所持品の宝石を見せびらかす目的で劇場に行く人種』には、理解出来ないことだろうが。

『違いの分らない人間』、というものは、度し難い。
その事の一つの象徴が赤坂迎賓館である。 あのようにみっともないものを作って、海外の最高指導者達を迎え入れる、という発想が情けない。
パリのベルサイユや、ウイーンのシェーンブルン宮殿のまねをした心算かもしれないが、一度でも赤坂離宮の内部を見た人は、あのベニヤ板で造った舞台装置みたいな建物を造った人間の、心根の卑しさに呆れ返るであろう。


幕末から明治初期に来日した多くの外国人は、日本人の持つ伝統的な美意識に驚嘆し、高く評価した。
ここ百年間で、それが殆ど壊滅したのは、嘆かわしい。

 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

Y君夫妻は翌日、4/3にH夫妻と会った。
その日は良く晴れたので、H氏の運転で行った細江の国民宿舎から、奥浜名湖も、都田川も、浜名湖を渡る東名大橋も、寝釈迦山も明瞭に眺める事ができた。
ここで初対面の両家夫人を含めて、全く初対面とは思えぬ気持の交流を持てた。

Y君もH氏も同郷の出身であるだけでなく、決して豊かとは言えない家庭で生まれ育ちながら、辛抱強く、愛情豊かな両親と、稀に見る優れた教育者である教師、のお陰で、一人前の社会人になった事が、共通している。
二人とも、現業の技術屋として働いて過ごした事、も共通している。

個人の所有物として大豪邸を持つような事はなかったが、日本の経済的成功には、夫々の職場でそれなりの貢献をした、という自負もあるであろう。
それはまた、彼等を育て上げた両親や恩師、に対する恩返しのような気持、に繋がるのかもしれない。

私は楽器博物館の素晴らしさを聞くと、その素晴らしさの何千分の一かは、
『H氏の功績で浜松の街が豊かになったこと』
、が寄与したもの、と思っている。  更に思うと、
H氏を育て上げた彼の両親や恩師の汗と涙が、あの博物館の基礎に埋没している、と考える。

貧農の家計で子供を当時の義務教育の小学校以上に上げる事等考えられなかったH君の家を、彼の資質を惜しんだ教師が訪れて中学校への進学を説得したことを、後に彼の母親は、「あの時ほど辛かったことは無かった」と言ったという。
半世紀前の、その教師や母親の努力が、この楽器博物館の存在に寄与した。

『何とかファンドという手品遣い』や、『怪しげな政治家の息子だか、弟だか』、には豪邸を齎す一方で、この様な物つくりの実務で社会に貢献した人物には大した富の分配も勲章も与えない、現在の日本社会の有り様は、正しくないと思う。
尤も、H氏自身は、そのようなことには無頓着で居るのであろう。 しかし、恩恵を受けた社会の側が、この様なことで良いとは思えない。

Y君の生まれ育った町の貧しさも、概して豊かでないあの付近の地域でも、特に酷いものである。
然し、以前に書いた高裁判事T氏も、Y君と同じ町の出身である。
何かの折に、Y君の母君が枚方という地名の読み方に惑っていた時に、T氏の父君が、「紙を数える時に一枚、二枚、と言うのでなく、ひとひら、ふたひら、と数えるでしょう。 このように、枚という文字をヒラという読み方も出来るのです」、と教えていたのを、Y君は記憶している、という。

子供の頃、こういう人間環境の中で、Y君らは育った。
そのY君の母も若い時に、若山牧水から短歌修行のために上京を勧められた経緯がある。
また1945年の8月12日頃には既に、日本が米国に降伏する交渉が纏まりかけている事を、この町の何人かは知っていた。


そのように、人口僅か数百人の、あの貧村には、思い掛けない文化が存在したのであった。
以前にも書いているが、世田谷区・江東区のゴミ戦争を鎮めたのは、都知事でも総理大臣でもなく、T氏であった。
H氏や、T氏の生きざまを見ると、
天爵と人爵とは全く別物だと思うのである。


H氏はY君夫妻を、方広寺にも案内した{方広寺、参照}。
Y君自身は学会の委員会で幹事をしていて、その学会の研究会を浜松で開催した時に、委員会メンバーと一緒に浜名湖北辺のこの辺りを見学旅行したことがあるが、方広寺には立ち寄っていない。
今回案内されて、Y君は此処に半僧坊の本拠が在るのを知って驚いた、という。

というのは、彼の生まれ育った、その貧村にも半僧坊が居て、子供の時から、「ハンソボさん」、といって親しんでいたが、それがどの様な存在であるかは全く知らなかった。 
それだけでなく、郷里を離れてからは、数十年間の人生で唯の一度も「半僧坊」という単語にすら接した事が無かった。
思いがけぬ場所で、その言葉に再会したのであった。

Y君にも、T氏にも、夫々当人は自覚しない内に、幼い日の「ハンソボさん」の影響が、人格形成に預っていたかも知れない。

 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★


この寺の扁額が山岡鉄舟の揮毫によるものであること、また、与謝野晶子が此処を訪れているとのY君の話も、私には驚きである 。
交通機関が便利になった今日でも、私の行ってないこの様な土地に、当時の不便な交通事情の中でこの人達が訪れているとは、昔の人達は元気であったなあ、と感心するからである。

此処に、纏まりのない、お節介な話を幾つか紹介した目的は、人間関係というものはこういうものか、と改めて感じさせられる話が多かったからである。
心の通じ合いとは、付き合いの時間の長短でないこと、町の文化的な空気は、その町を構成する人達の心情に依って造られること、そして教育というものが社会を形作って行く根源に確固として存在すること、などを、雑多な話の中で改めて感じたからである。

最新の画像もっと見る

10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ハコモノ行政の害毒 (変人キャズ)
2007-04-08 03:58:02
この記事の書かれた日付の毎日新聞の夕刊に、ピアニスト・中村紘子さんの「都知事選に望む」という記事が載っています。
アスファルトでハコモノばかり作ることが、如何に文化を破壊するか、の指摘で、この記事に盛られている主張と全く同じことが書かれているのをお知らせします。
返信する
ご無沙汰しております (東郷 幹夫)
2007-04-09 19:06:32
ご無沙汰しております。
お元気なご様子で何よりとお喜び申し上げます。
大変示唆に富んだお話を拝読し、教えられるものがありました。浜松の楽器博物館へは一度訪ねてみたいと思います。実は家内も静岡県の出で、昔から、ピアノには深い縁がありますので。
返信する
東郷様へ (二人のピアニスト)
2007-04-09 20:49:16
長い間、放ったらかしておいたブログに久々に記事を書いたら、途端に見て頂いて恐縮し、感激しました。
実は、昨年末に、この話を書くぞ、と心に決めたテーマが、何度下書きしても気に入った形に纏まらないものだから、ブログの更新がストップしていました。
Y君の遠州旅行の話が刺激的だったので、番外の心算で入れましたが、即日読んで下さる人が居たとは驚きです。
返信する
友情 (H.T.)
2007-04-09 22:03:51
浜松でのご経験や友情、出会いといったものをひしひしと感じさせてくれる。
最近の殺伐とした社会情勢の中で、このような潤いのある話題は、真摯な生き方をしている者同士にとって、共通的に理解出来る話題ではないでしょうか。
返信する
有難う御座いました。 (モナミ)
2007-04-13 16:56:06
長い文章を一息に拝読させて頂きました。
感動したり肯いたりしながら、、ブログを通して二人のピアニスト様と素晴らしいお友達のエッセイを読ませて頂く事は私の心の大きな糧になっています。

若い頃からの好いお友達との友情を長く続けておられる皆様は素敵ですね。羨ましくも思います。
返信する
モナミ様に (二人のピアニスト)
2007-04-13 19:14:48
モナミ様のお書きになっているように、我々の年配のブロガーが少ないのは、寂しいですね。
H氏のブログは読み応えが在りますよ。
返信する
ありがとうございます。 (散策)
2007-04-14 15:41:57
トラックバックありがとうございました。びっくり致しました。記事を拝見し、何ですか、ほっと致しました。
返信する
TB、コメント有難うございます。 (東郷 幹夫)
2007-04-15 19:36:28
二人のピアニスト様
TBとコメントをいただき、有難うございました。「都市や国にはそれぞれの文化、人情、伝統等によって培われた空気というものがある」とのご意見に感動しました。その「空気」を大切にし、さらにそれを守り、育て上げて行くことが、後を継ぐ者の役割りだと思います。
薀蓄の深い記事に敬服いたしました。
返信する
明後日出航ですね (モナミ)
2007-04-25 08:25:01
いよいよ明後日出発ですね。
にっぽん丸出航の18:00には家でディナーならぬサパーの準備の手を止めて、岸壁を離れて行く船上のプロムナードデッキでボンボヤージュ・セレモニーに参加なさっている楽しげなご夫妻のお姿を想像して手を振りましょうか。
お元気で楽しい旅を、、行ってらっしゃ~~い。
返信する
有難う御座います (二人のピアニスト)
2007-04-25 12:21:02
紙上でのお見送り、有難う御座います。
マジョルカ島(2006/3/20)、他の記事にも書き散らしているように、100日間も掛けて世界一周クルーズに出掛けていた時には、行程の半ばを過ぎると、後・40日しかない、後・30日しかない・・、と残り日数の少ない事が非常に残念に感じました。
それに較べると、今回の日本一周なんてトータルで10日以下なのだから、本当に短いものです。
しかし、出発に当って、短いなあ、とは思わないのが、可笑しなところです。
次回は御一緒いたしましょう。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。