意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

10/15(日)更新 『天国に入り損なう人たち(3)』 - 山上の説教を読み解く

2017年10月15日 17時08分46秒 | 山上の説教の考察

 ・・・・これは、『天国に入り損なう人たち(2)』からの続きです・・・・


天国に入り損なう人たち(3)

 

 

ところで、必ず天国に入れると自分では思い込んでいたのに、結果的に、天国に入り損なってしまう人たちは 『あなたがたを全く知らない。・・・』」(マタイ福音書7章23節)と主にはっきりと言われる・・・と、山上の説教の中では描かれています。一体、なぜでしょうか? 

 

キリスト教を長年にわたって信じて、教会にも在籍し、礼拝にも積極的に参加し、定期的に献金もささげ、主イエスのため、天の父なる神のため、善行もなし、祈りもささげ、聖書もそれなりに読んできた彼ら"忠実なキリスト教信者たち"のことを主イエスも父なる神も何も知らないはずはない·····なのに、なぜ「あなたがたを全く知らない」と言われるのでしょうか?

 

父なる神も、神の御子イエスも全てのことを知り尽くしておられるはずなのに、どうして“知らんぷり”をされるのでしょうか? 常識的に考えると、とても不思議な感じがし、違和感すら覚える方も多いのではないでしょうか? このことに関して、私たちはどのように理解したらよいのでしょうか? 聖書を学んでいくと、しばしばこのように、一見、矛盾に思えるような聖句に出会うことがあります。

 

今回は、この点について さらに突っ込んで考察してみたいと想います。


主イエスが「あなたがたを全く知らない」と言われる場合、これを裏を返して観ると、『天国に入り損なう人たち』自身が主イエスのことも、父なる神のこともよく知っていると単に思い込んでいただけであり、実際には知らなかったということでもあります。つまり、主イエスも父なる神も、『天国に入り損なう人たち』に知られていなかった、誤解されていた、曲解されていた・・・、ということ。


個人的な聖書の学びを通して、また、教会での説教などを通しても、神の御子イエスや父なる神のことを学ぶ機会、知る機会がしばしばあったはずなのに、神が本当はどのようなお方なのかが、実は、彼らには知られてはいなかったというわけです。


何故なのでしょうか? まだ腑に落ちないのではないかと思います。


実は、ヒントになる聖句があるのです。


それは、次に引用する使徒パウロの言葉です。


人が神を愛するなら、その人は神に知られている。」(コリント第1の手紙8章3節)


つまり、「あなたがたを全く知らない」と言われる『天国に入り損なう人たち』というのは、『神に知られていない人たち』のこと、すなわち、『神を愛していない人たち』である····と観ることもできるのです。でも、彼ら自身は “わたしは、これまで神を愛してきた”と思い込んでいるかも知れませんが。


ところで、使徒ヨハネはこのようにも記しています。


現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」(ヨハネ第1の手紙4章20節)


これから、『天国に入り損なう人たち』というのは、「現に見ている兄弟を愛さない者」である······とも言えます。


では、現に見ている人を“愛する”とは、どういうことなのでしょうか? ここから、本格的な聖書の探究が始まるのです。


愛するとは、どういうことなのかについて知るヒントは、実に、イエスの山上の説教の中にある·····と、私は観ています。


そのヒントというのは、'マタイによる福音書5章43節~48節'です。


ここでイエスは、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」天の父なる神の愛について触れています。


つまり、この山上の説教の中でイエスが指し示しておられる'神の愛'というのは、『寛容の愛』のことだったのです。悪い者と良い者と分け隔てしないという寛容の愛、言い換えれば、『'さばかない'という寛容の愛』のことを言っていたのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。人を善悪という基準でさばくことなく、人をあるがまま認めて受け入れていくという大きな包容力 · 受容性というのが、イエスが語っている愛の中身というか核心部分なのです。


   「愛は寛容であり、····」(コリント人への第一の手紙13章4節)


そして、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」とイエスが言われる時、それは 天の父が『'さばかない'という寛容の愛において』完全であられるように、あなたがたも『'さばかない'という寛容の愛において』完全な者となりなさい····という意味なのです。


'あらゆる点において、天の父なる神と全く同じように完璧な存在になれ'という風に、イエスが私たちに命じているわけではないのです。

 

そして、天の父なる神が持っておられるこの『寛容の愛』という点において完全になるということは、私たちに十分に可能なのです。そのためには、イエスが命じられたように、'さばく'ということをやめさえすればいいのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。私たちのマインドにおいて、'さばく'という思考プロセスを停止した上で、ただあるがまま観て察していく、観照していく、捉えていく、認めていく、受けとめていく······これが、重要な'鍵'となります


'さばく'という頭の思考パターンに馴染んでしまった私たちが、'さばかない'という新たな思考回路を切り開いていく、シフトしていく、そのコツを学んでいくというのが、ある意味、『信心の訓練』において最も重要な部分と言えるかも知れません。


さらに、山上の説教の中でイエスは、「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」(マタイによる福音書6章14節~15節)ということも語っておられます。

 

'人をゆるさない'ということは、その人に関する『過去の情報』に囚われ、こだわり、固執し、根にもって、その『過去』というフィルターを通して その人の『今』を観て 'さばいている'ことを意味します。


逆に、'人をゆるす'ということは、その人の『過去の情報』に囚われることなく、こだわることもなく、固執することもなく、根に持つこともなく、つまり、『過去』というものを切り離した上で、『今、この瞬間』に存在しているその人をあるがまま認めていく、受容していくということ。すなわち、人をゆるすとは、『過去』というフィルターを通して  その人を観てあ~だ、こ~だと思い込んだり、決めつけたりしないこと········言い換えると、'さばかない'という寛容の愛そのものに基づいた行為であることがわかります。


このように、人をゆるすということ、言い換えれば、'人をさばかない'ということが、天の父なる神に通じる道であり、神の国へのゲートを大きく開いていくことにもなるのです。


'私はクリスチャンだから天国に救われる'とか、'私はキリスト教の信仰を持っているから天国に救われる'とか、あるいは、'私は、長年にわたって、キリスト教信者としての実績も積んできたから天国に救われるはずだ'というふうには、単純には言えないわけです(マタイによる福音書7章21節~23節を参照)。


信仰という目が開かれていること、信仰という目が澄んでいること、信仰という目ではっきりと見えていることが、実はとても重要なのです(マタイによる福音書6章22節~23節、同7章5節を参照)。そのために必要不可欠なことが、'さばく'というマインドプロセスを停止するという具体的なノウハウ、秘伝をイエスは山上の説教の中で説いたというわけです(マタイによる福音書7章1節を参照)。


イエスは「わたしは、道である」と言われました。天の父なる神へと通じる道、天にある神の御国へと通じる道、永遠の命に至る道。そして、イエスが命じた「さばくな」を実践している人は、この道をすでに歩いているのです。


この「さばくな」ということが、イエスの山上の説教の中で説かれている重要かつ核心的な真理であり、メッセージなのです。また、様々な聖書の教えを解く鍵となっていくのです。


山上の説教でイエスが説いた『さばくな』という教えを聖書研究の中心に据えて聖書全体を解き明かしていこうとする私のユニークなスタンスというのは、従来のキリスト教とは、観る視点が随分と異なっているので、これを『イエス-道』(=Jesus,the Way)と私は名付けたわけです。


日本には、柔道、剣道、合気道などのような武道、あるいは、茶道、書道、華道·····究めるべき様々な『道』というものがあります。私は、従来のキリスト教という『宗教』をこのような『道』のレベルまで昇格させ、『イエス-道』なるものがあってもいいのではないか····と想っているのです。'伝統的なキリスト教的な視点'から聖書の世界を観ることから卒業、あるいは、脱却して、'イエス自身の視点'からもう一度聖書を捉え直していくということが、今の時代、必要なのであり、とても重要なのではないでしょうか?


そして、特に'山上の説教'の中でイエスが説いた'人として生きていく道'-----'さばかない'という生き方-----を自分が日々生きる道として実践していく。これこそが『岩の上に家を建てる賢い人の生き方』であり、何ものにも流されることなく、翻弄されることなく、着実なる人生、確実なる人生をこの世で送ることが可能となるのではないでしょうか?(マタイによる福音書7章24節~25節を参照)

(9月24日 日曜日、10月9日 月曜日、10月15日 日曜日 更新) 


   次のブログ放蕩息子の譬』は、“イエス-道”の視点から光を当てて、観ていきます。


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