Yassie Araiのメッセージ

ときどきの自分のエッセイを載せます

朝日記210505  「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の絵

2021-05-05 12:43:54 | 絵画と哲学
朝日記210505  Amazon書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の絵
 
 
今日の絵は二つです。
Mrs.May in thinks
At Clinic
 
 徒然こと二つです。題して「言説の晒し」(Disposition of discourse)です。
徒然こと1「言説の晒し」(Disposition of discourse)ということ
徒然こと2 朝日記210505  Amazon書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」から
 
 
徒然こと1 「言説の晒し」(Disposition of discourse)ということ
「言説の晒し」(Disposition of discourse)が中心の話題です。
 2017年12月19日の朝日記に米国の哲学者 J.ガウアンロックの公開討議と社会的知性についてのこの言説をご紹介しました。 国論を二分するような主張があって、感情的な対立がそのまま、膠着状態にあるときに、それから、やがては抜け出すための、なお理性的であり、かつ建設的な合意形成に至るための知恵を見出すことが、世界で模索されています。
私は、社会学者ではないので、仔細には誤りがるかもしれませんが以下、それを含み置きとしてお読みください。
 
ジョン・スチュアート・ミルが、「社会的知性」というかれの概念のなかで、人間の思考には誤謬を含むということと人間は弱い存在であるということを前提に、社会として論議を尽くし、合意結論に至る方法を論じています。社会でのその主体は世論であること。しかし、世論は往々にて暴言、暴走をし、思わぬ方向に社会を向かわしめてしまうこと。ときに、その社会の知性が本来的に意味ある知恵として取り込まれた結果になっているのか怪しくなっているような状態に陥ちてしまう。 岡目からからみれば、その過ちが顕わなのに、何の有効的手段も見いだせず、ひたすら力学的な進行過程に陥落してしまう。彼はその著「自由論」のなかで危惧を憂慮します。
彼の時代(19世紀末)に政治権力の中心は、すでに議会や政府などにあるのではなく、新聞などメディアを核とした世論側にあることを彼は認識しておりました。その前提のもとで、彼はあえて「公開討論」による課題合意形成の自由論を論じたのでした。
ミルの社会論は、その後、デューイなど米国のプラグマティズムのながれのながかで、ノージックやA. セン そしてここで取り上げる J.ガウアンロックに引き引き継がれます。ここでは、大陸の伝統である歴史主義とは異なり、該問題対象に向かっての科学的専門分野から、動的な課題取り組み(Consequentialism)が主流であるとおもいます。
彼J.ガウアンロックの考え方は、異なる主張の選択結論の社会的決着のためには、急がずに、それを開示して、時間を取ること、これを「晒し」(Disposition)として提言します。 熱しやすく冷めやすくて、忘れやすい我ら日本の民族性からいうと問題放棄、思考放棄になる危険性がありますが、原語のDispositionの意には、軍隊教練や配備のような、いついかなる時も対応しうる現実感覚のもとにおくことに、社会の意識共有の求心を求められるものとしての概念です。
たとえば、「不正選挙」が、一方では あり得ないとし、他でではあったと主張する問題で、いまもアメリカ国論は二分しています。 裁判制度は法的な有効性の観点からの判断であり、形式的にはこれで 決着がついたことになります。しかし、双方の心情は、根底で納得していない状態であるとおもいます。未来に向かって相互亀裂は深まります。 これを(「不正選挙」はなかった)ではなく、((「不正選挙」はあった)「非存在性オブジェクト」としてとりあげるとしたらどうなるであろうか。つまり科学的検証対象とする。対象化して社会全体がそれに対して臨床知的な取り組むこと、つまり「晒し」(disposition)の共有化としたらどうかという提案です。これが彼 J.ガウアンロックの提案となると思います。 ミルのいう、デューイのいう建設的な社会知性への道筋の延長として見ようとするものです。 
話は変わりますが、希代の経営学者 P.F. ドラッガーが死してひさしく、すでに世人の脳裏からは遠くなっています。私議で恐縮ですが、この連休を身の回りの資料の整理をこころして、時間をとり、健気に“終活”の整理をしていています。その最中にドラッガーの著「ネクスト・リーダー」が目に入り、本屋の立ち読みなんだとこの場をきめこみ、手に取りました。彼はその著の終わりで日本のネクストを論じていました。おもしろいのは、日本は戦後の経済危機を問題の解決を「末置きして」、幸運にも、みずからへの好結果へと維持し、発展してきたが、そういう遣り方もあるのだと好意的評価をします。かれのこの筆は世紀末の例の世界金融危機のころで、日本がこれをうまく乗り切れるかどうかを、危惧をしています。 さて、これまでの歴史的経過のなかで、これを日本での「晒し」であったと簡単に、楽観的に決め込んででしまう、問題の本質を過去のものとして見過ごすか、忘れてしまうか、そういう意識の逃げを自分のなかに、ふと見る想いをしたのでした。それであえてここにメモしました。
そういえば、憲法審議は、これまで共有の場での思考放棄で、与党・野党とも然ることことながら、メディアが気取る社会世論でも完全空白状態であったことを認めざるを得ないのではないかとおもいます。上の「非存在オブジェクト」つまり、存在しないものを存在すると仮定してテーブルにのせてみる。そういう「晒し」(disposition)としての共有を、わが国民喫緊の課題として、その巨大な「晒し」体浮上に現実感覚をもって、受け入れることを願うものであります。 「賢い日本よ、ふたたび」としておきます。
 
 
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徒然こと2  朝日記210505  Amazon書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」から

 ガウアンロックというアメリカの社会哲学者の書評です。 Amazon Bookreviewに投稿掲載されたものです。

 

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J.ガウアンロック著(小泉 仰監訳) 公開討議と社会的知性 ミルとデューイ(御茶ノ水書房)https://www.amazon.co.jp/gp/product/427501569X/ref=oh_aui_detailpage_o00_s00?ie=UTF8&psc=1

 5つ星のうち4.0ガウアンロック 社会的知性への展開を考える本である

投稿者あらいやすまさ2017年12月3

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掲載された書評

きょうは社会的知性ということに触れます。 ガウアンロック著 公開討議と社会的知性 のブックレビューとして

J.
ガウアンロック著(小泉 仰監訳) 公開討議と社会的知性 ミルとデューイ(御茶ノ水書房)
John Gouinlock; Excellence in Public Discourse ~John Stuart Smith,Jaon Dewey,and Scial Intelligence.
 1986
 このひとの名前は、たまたまネットで moralityとrationalityについてしらべていたときに知った。(記事名は’Instrumental ratinality and Value rationality’であった)

J.
ガウアンロックは、手段的(もしくは道具的)合理性(Instrumental ratinality )の理論の指導的哲学者であるという。かれの理論は社会道徳性の考えにつよいつながりを持っている。 かれは、人びとは各自の徳の意識に沿って行動する合理性を発現すべきであるという。特に、かれは、人びとが問題案件への最終的にして非争論的な決着のレベル以前に議論をとどめ置く状態で、己の行動を律するの道義的な弁術を開始することを提唱する。 考えてみれば、これまで、科学や技術からの問いかけからの受け入れについては、しばしば「概念の’晒し’(concept disposition)」が行われてきた。これと同様に、社会的案件についてもある期間、その合理的な結論を醸成させるために’晒される’べきであると説く。しかし、これを成立させるためには、最終的にして決裂のレベルまでに至らぬ抑制が条件であるとする。 この考えのながれは、現在アングロ・アメリカン系の主流であるInstrumental Rationality(手段的もしくは道具的合理性哲学 ) と呼ばれている哲学のものである。 J.ロールズ、R. ノジック、J.ガウアンロック、A.セン等によって代表されている。
この本の構成概要は以下である;
第一章 序論
第二章 ミルー社会的所産としての知識と道徳的評価
第三章 古典的自由主義の欠陥
第四章 ミルの教育哲学
第五章 社会的知性
第六章 ミルとデューイの挑戦
(本著の意味するもの);
 社会道徳(morality)が、時代的な中心命題となって久しい。とくに、19世紀の英国で、成熟した民主主義にあって、権力の中心が政府や権威機関にあるのではなく、それが実は与論であり、メディアで代表されるということを彼らは気づいている。
 Joh Sturt Mill(ミル)は、その「自由論」で、社会的な合意形成とその道徳について、その社会のコミュニケーションによって柔軟に形成されることを洞察して、そこから形成される知性のあるべきことと、その基礎的仕組みとを提唱している。
  この流れは、米国のプラグマティズムのデューイの哲学に継がれ発展していくが、それをこの著ではわかりやすく解説している。この著の中心は、なんといっても第五章の社会的知性であろう。
 「社会的知性」は、成熟した民主主義社会と、価値多様化への社会的合意についての知性(功利、権利と義務、徳と悪徳)を意味している。
著者は述べる;社会的合意について、 事態の解決に先が見えないときは、無理せずにdisposition(寝かすとか晒す)という概念を提唱する。 ある状況に遭遇したとき、人びとはコミュニケーションによって意見の相違について学習し、理解し、変化し、成長するということを説く。
 公開討論などはその一つの例であるが、ここでの野蛮さ、低劣さについても承知の上で、ここでのレベルを如何に引きあげうるか、リーゾナブルな方向へ収束しうることは可能であるのかを論じる。著者は、ミルやデューイのこれまでの思想的な流れを評価し、成熟した民主主義の社会で、そのような知性(社会的知性)が育ちうるかを述べる。
(レヴューアとしての所感として)
  個人的な経験だるが、英国人の知人たちが、彼らがひとが集まったときに議論の方向について、しばしば優れたリーダーシップの発揮していた状況にふと思い起こす。 これは英語の世界だからだと単純に着せられない高い素養を感じたものであった。
そういう社会的素養の教育(学校教育も)についてもこの著を通じて、あらためて思いを致す。直接的に表現として使ったかどうかは別に、’If I were you ...' つまり、もしも私があなたの状況にあったら、という道徳観moralityであろう。
 人間は、基本的に誤るものであり、弱い存在であるというミルの哲学であり、自分が考えたからということを以ってそれに固執するのではなく、意見が異なる状況でも、それを相手の立場に自分を置いて考え、ますは肯定的に議論する。その過程で、相手を蔑んだり、罵倒するような感情暴発に至らないそういう社会的文化のありかたとして理解した。 筆者の畏友のひとりが以前に、個人の社会生活が孤立した「無縁社会」と表現した現今の都市生活社会で、これをどう考えていくか、ネットでの交流がこのような「社会的知性」を育て得るか、等々そういう思いをこの著により、考えることに強く啓発を受けたといえる。
この本は、原著は1986年の出版であるが、和訳への監訳者の小泉 仰氏は、1988年ケンブリッジ大学にて、原著をみつけ、強い共感を覚え、同門の有志たちと翻訳に取り組んだたことを記している。翻訳出版が1994年である。 ネット社会が急速に展開を開始したころの出版ではあった。
社会的情報交流(コミュニケーション)は、それまでの新聞紙面、やTVなどを中心にしたメディアから、SNN等のネットへの急激な展開の時機に入った年代の出版ではあるが問題の本質の方向をただしくとらえているといえよう。  「公開討論」という語のもつ時間的な意味論的な変化もあり、あゝあれかと見がちであるが、かれが提唱する「社会的知性」は、公開討論の卓越性のための基礎になるという意味で、時代的な本質的視点をもち、なお新鮮である。
以上

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これは下記の朝日記2017/12/18からの再掲載である;

 朝日記171218  Amazon書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の絵;

朝日記171218 Amazon書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の絵

2017-12-18 19:21:29 | 絵画と哲学
 
~~~Reader's comments;|~~~
「牧畜社会で育った考え方である」 (敬愛する論客YHさんから)
2021-05-06 06:16:28
敬愛する論客YHさんからのコメントです;
総合知学会 荒井康全先生
1)「西洋の文明や哲学」は「牧畜社会で育った考え方である」と痛感しています。「牧畜社会」では、「牧畜は請負仕事である」ので、常に「牧畜者として、請負仕事の対象である家畜
  を支配の対象と考える」ことから「社会の成立に係る思索」→「社会の構成:支配と従属の関係に関する思索」=「社会学&政治思想」が発達したのではと感じます。
  「人を牧する者」→「政治家」若しくは「宗教家」が生まれたのではと思います。
2)私が育った「田の草取りの稲作社会」では「集団作業」はあっても「個人の作業は少い」ので、「『独立の自我』 は生存の基本としては発達していません」でした。
「田の草取りの稲作社会」では「個人の自我意識が弱く」→「政治社会学」や「民主主義思想」は育たなかったし、これからも育たなと思います。「稲作社会」は「西洋の民主主義社会」
  にはなり得ないと思います。それでも「人間社会としての幸せはある」と思います。(素人の雑感でお耳を汚しましたことお詫びします。)
総合知学会 吉澤 均 拝
2021/5/6
 
「晒し」を米中対立を頭に入れながら (わが敬愛する論敵KMさんから)
2021-05-08 00:14:03
荒井様
興味ある情報をありがとうございました。
J.ガウアンロックの主張も彼に至るミルからの”進化”も
勉強になります。
「晒し」を米中対立を頭に入れながら拝読しました。
両国国民の社会的知性とは・・・・・?

                  神出瑞穗

 
ラジオ体操での盟友であるOMさんから (Yasumasa Arai)
2021-05-09 08:17:59
荒井様
このような形而上学的議論にはあまりなじみがありませんが、コロナ騒ぎで目に見える形ではっきり気づいたことがあります。日本の国際的地位、あるいは国力、がいつの間にか二流国以下に成り下がっていたことです。さらに言えば、もともと一流国ではなかったのかもしれない、と。
原因はいろいろあろうかと思いますが、自分で考え、問題を解決する力を育てる教育をしてこなかったツケがここにきて一挙にあふれ出てきたため、とは考えられないでしょうか。真偽入れ混じった大量の情報から取捨選択して正しい判断を下し、弱者を温かく包み込む情感を持つ人間を育てることより、施政者に都合の良い人間を育てることに重点を置いてきた教育が社会的知性の劣化を招いたと思うのです。異論を排除し、うそを平気でつく政治家、そういう政治家を批判もなく選ぶ選挙民。
でも、日本社会の底流には、ひっそりと、しかし脈々と 伝統的知性が流れ続けていることを私たちは知っています。それに栄養を与え、再び大きく育て上げて、社会の主流にすることさえできれば、日本はわれわれ国民が心から誇りうる国になる、そんな気がしています。
大坪眞子

 
敬愛する大先輩森下さんから (Unknown)
2021-05-09 08:24:16
荒井 康全殿
 貴殿より毎回メールを頂戴し、感謝して居ります。
当方、貴殿の論説は殆ど理解出来ませんが、
全部読んでは居ります。
 今後も宜しくお願い申し上げます。
                  森下  拝

 
Unknown (小松昭英さんより)
2021-05-09 08:29:00
荒井康全さん
荒井さんの気持ち、少し分かるような気がしてます。
応援しています。
小松昭英 拝
 
敬愛する塚谷さんからのコメント (Yasumasa Arai)
2021-05-09 08:40:11
荒井さん、
正直、荒井さんの知性には、ついていけません。文学部出身者の、私には、ついていけません!!!難しすぎますよ!でも、理解しようとしてます(笑)よ。
絵や、色遣いには、惹かれてます!これに懲りずに、末永くお付き合いお願いします!!塚谷


 
太極拳中村百里子先生からのコメント (Yasumasa Arai)
2021-05-12 20:45:03
2021/5/12
荒井 康全様へ
こんにちは‼
いつも大変お世話になっております。
拝読、拝聴後にコメントにてか普通に返信するかで迷っていて
期を逸してしまい、遅くなりまして申し訳ございません。
ありがとうございます!

連休中も普通にソーシャルディスタンスに気を付けつつ出かけておりました。
支部の総会や大会などを控えており・・・
でも、緊急事態宣言延長となりましたので、またまた大変です。

そんな中、荒井画伯のアーカイブスメモリーの歌と絵画
次から次へと楽しませていただいております。
市役所の1Fホールで行われたのも、今年も無理でしょうかね。

今週の「ゆりなみ」太極拳教室は、行えるとご連絡をいただきました。
皆様にお会いできるのを楽しみにしております。

☆~中村百里子~☆
At clinic
 
Mrs.May in thinks
 
 

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「牧畜社会で育った考え方である」 (敬愛する論客YHさんから)
2021-05-06 06:16:28
敬愛する論客YHさんからのコメントです;
総合知学会 荒井康全先生
1)「西洋の文明や哲学」は「牧畜社会で育った考え方である」と痛感しています。「牧畜社会」では、「牧畜は請負仕事である」ので、常に「牧畜者として、請負仕事の対象である家畜
  を支配の対象と考える」ことから「社会の成立に係る思索」→「社会の構成:支配と従属の関係に関する思索」=「社会学&政治思想」が発達したのではと感じます。
  「人を牧する者」→「政治家」若しくは「宗教家」が生まれたのではと思います。
2)私が育った「田の草取りの稲作社会」では「集団作業」はあっても「個人の作業は少い」ので、「『独立の自我』 は生存の基本としては発達していません」でした。
「田の草取りの稲作社会」では「個人の自我意識が弱く」→「政治社会学」や「民主主義思想」は育たなかったし、これからも育たなと思います。「稲作社会」は「西洋の民主主義社会」
  にはなり得ないと思います。それでも「人間社会としての幸せはある」と思います。(素人の雑感でお耳を汚しましたことお詫びします。)
総合知学会 吉澤 均 拝
2021/5/6
「晒し」を米中対立を頭に入れながら (わが敬愛する論敵KMさんから)
2021-05-08 00:14:03
荒井様

興味ある情報をありがとうございました。
J.ガウアンロックの主張も彼に至るミルからの”進化”も
勉強になります。
「晒し」を米中対立を頭に入れながら拝読しました。
両国国民の社会的知性とは・・・・・?

                  神出瑞穗

ラジオ体操での盟友であるOMさんから (Yasumasa Arai)
2021-05-09 08:17:59
荒井様

このような形而上学的議論にはあまりなじみがありませんが、コロナ騒ぎで目に見える形ではっきり気づいたことがあります。日本の国際的地位、あるいは国力、がいつの間にか二流国以下に成り下がっていたことです。さらに言えば、もともと一流国ではなかったのかもしれない、と。

原因はいろいろあろうかと思いますが、自分で考え、問題を解決する力を育てる教育をしてこなかったツケがここにきて一挙にあふれ出てきたため、とは考えられないでしょうか。真偽入れ混じった大量の情報から取捨選択して正しい判断を下し、弱者を温かく包み込む情感を持つ人間を育てることより、施政者に都合の良い人間を育てることに重点を置いてきた教育が社会的知性の劣化を招いたと思うのです。異論を排除し、うそを平気でつく政治家、そういう政治家を批判もなく選ぶ選挙民。

でも、日本社会の底流には、ひっそりと、しかし脈々と 伝統的知性が流れ続けていることを私たちは知っています。それに栄養を与え、再び大きく育て上げて、社会の主流にすることさえできれば、日本はわれわれ国民が心から誇りうる国になる、そんな気がしています。

大坪眞子

敬愛する大先輩森下さんから (Unknown)
2021-05-09 08:24:16
荒井 康全殿
 貴殿より毎回メールを頂戴し、感謝して居ります。
当方、貴殿の論説は殆ど理解出来ませんが、
全部読んでは居ります。
 今後も宜しくお願い申し上げます。
                  森下  拝

Unknown (小松昭英さんより)
2021-05-09 08:29:00
荒井康全さん
荒井さんの気持ち、少し分かるような気がしてます。
応援しています。

小松昭英 拝
敬愛する塚谷さんからのコメント (Yasumasa Arai)
2021-05-09 08:40:11
荒井さん、
正直、荒井さんの知性には、ついていけません。文学部出身者の、私には、ついていけません!!!難しすぎますよ!でも、理解しようとしてます(笑)よ。
絵や、色遣いには、惹かれてます!これに懲りずに、末永くお付き合いお願いします!!塚谷


太極拳中村百里子先生からのコメント (Yasumasa Arai)
2021-05-12 20:45:03
2021/5/12
荒井 康全様へ
こんにちは‼
いつも大変お世話になっております。
拝読、拝聴後にコメントにてか普通に返信するかで迷っていて
期を逸してしまい、遅くなりまして申し訳ございません。
ありがとうございます!

連休中も普通にソーシャルディスタンスに気を付けつつ出かけておりました。
支部の総会や大会などを控えており・・・
でも、緊急事態宣言延長となりましたので、またまた大変です。

そんな中、荒井画伯のアーカイブスメモリーの歌と絵画
次から次へと楽しませていただいております。
市役所の1Fホールで行われたのも、今年も無理でしょうかね。

今週の「ゆりなみ」太極拳教室は、行えるとご連絡をいただきました。
皆様にお会いできるのを楽しみにしております。

☆~中村百里子~☆

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