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朝日記171218 Amazon書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の絵

2017-12-18 19:21:29 | 絵画と哲学

 

 

 朝日記171218  Amazon書評投稿「J.ガウアンロック著公開討議と社会的知性」と今日の絵

 

きょうは、ガウアンロックというアメリカの社会哲学者の書評です。 

Amazon Bookreviewに投稿掲載されたものです。

今日の絵は、(Foxie,Santa's friend)と(Busy Santa,now)の二つです。

徒然こと  ガウアンロック 社会的知性を考える本

J.ガウアンロック著(小泉 仰監訳) 公開討議と社会的知性 ミルとデューイ(御茶ノ水書房)https://www.amazon.co.jp/gp/product/427501569X/ref=oh_aui_detailpage_o00_s00?ie=UTF8&psc=1

 5つ星のうち4.0ガウアンロック 社会的知性への展開を考える本である

投稿者あらいやすまさ2017123

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掲載された書評

きょうは社会的知性ということに触れます。 ガウアンロック著 公開討議と社会的知性 のブックレビューとして

J.
ガウアンロック著(小泉 仰監訳) 公開討議と社会的知性 ミルとデューイ(御茶ノ水書房)
John Gouinlock; Excellence in Public Discourse ~John Stuart Smith,Jaon Dewey,and Scial Intelligence.
 1986
 このひとの名前は、たまたまネットで moralityrationalityについてしらべていたときに知った。(記事名は’Instrumental ratinality and Value rationality’であった)

J.
ガウアンロックは、手段的(もしくは道具的)合理性(Instrumental ratinality )の理論の指導的哲学者であるという。かれの理論は社会道徳性の考えにつよいつながりを持っている。 かれは、人びとは各自の徳の意識に沿って行動する合理性を発現すべきであるという。特に、かれは、人びとが問題案件への最終的にして非争論的な決着のレベル以前に議論をとどめ置く状態で、己の行動を律するの道義的な弁術を開始することを提唱する。 考えてみれば、これまで、科学や技術からの問いかけからの受け入れについては、しばしば「概念の晒しconcept disposition)」が行われてきた。これと同様に、社会的案件についてもある期間、その合理的な結論を醸成させるために晒されるべきであると説く。しかし、これを成立させるためには、最終的にして決裂のレベルまでに至らぬ抑制が条件であるとする。 この考えのながれは、現在アングロ・アメリカン系の主流であるInstrumental Rationality(手段的もしくは道具的合理性哲学 ) と呼ばれている哲学のものである。 J.ロールズ、R. ノジック、J.ガウアンロック、A.セン等によって代表されている。
この本の構成概要は以下である;
第一章 序論
第二章 ミルー社会的所産としての知識と道徳的評価
第三章 古典的自由主義の欠陥
第四章 ミルの教育哲学
第五章 社会的知性
第六章 ミルとデューイの挑戦
(本著の意味するもの);
 社会道徳(morality)が、時代的な中心命題となって久しい。とくに、19世紀の英国で、成熟した民主主義にあって、権力の中心が政府や権威機関にあるのではなく、それが実は与論であり、メディアで代表されるということを彼らは気づいている。
 Joh Sturt Mill(ミル)は、その「自由論」で、社会的な合意形成とその道徳について、その社会のコミュニケーションによって柔軟に形成されることを洞察して、そこから形成される知性のあるべきことと、その基礎的仕組みとを提唱している。
  この流れは、米国のプラグマティズムのデューイの哲学に継がれ発展していくが、それをこの著ではわかりやすく解説している。この著の中心は、なんといっても第五章の社会的知性であろう。
 「社会的知性」は、成熟した民主主義社会と、価値多様化への社会的合意についての知性(功利、権利と義務、徳と悪徳)を意味している。
著者は述べる;社会的合意について、 事態の解決に先が見えないときは、無理せずにdisposition(寝かすとか晒す)という概念を提唱する。 ある状況に遭遇したとき、人びとはコミュニケーションによって意見の相違について学習し、理解し、変化し、成長するということを説く。
 公開討論などはその一つの例であるが、ここでの野蛮さ、低劣さについても承知の上で、ここでのレベルを如何に引きあげうるか、リーゾナブルな方向へ収束しうることは可能であるのかを論じる。著者は、ミルやデューイのこれまでの思想的な流れを評価し、成熟した民主主義の社会で、そのような知性(社会的知性)が育ちうるかを述べる。
(レヴューアとしての所感として)
  個人的な経験だるが、英国人の知人たちが、彼らがひとが集まったときに議論の方向について、しばしば優れたリーダーシップの発揮していた状況にふと思い起こす。 これは英語の世界だからだと単純に着せられない高い素養を感じたものであった。
そういう社会的素養の教育(学校教育も)についてもこの著を通じて、あらためて思いを致す。直接的に表現として使ったかどうかは別に、’If I were you ...' つまり、もしも私があなたの状況にあったら、という道徳観moralityであろう。
 人間は、基本的に誤るものであり、弱い存在であるというミルの哲学であり、自分が考えたからということを以ってそれに固執するのではなく、意見が異なる状況でも、それを相手の立場に自分を置いて考え、ますは肯定的に議論する。その過程で、相手を蔑んだり、罵倒するような感情暴発に至らないそういう社会的文化のありかたとして理解した。 筆者の畏友のひとりが以前に、個人の社会生活が孤立した「無縁社会」と表現した現今の都市生活社会で、これをどう考えていくか、ネットでの交流がこのような「社会的知性」を育て得るか、等々そういう思いをこの著により、考えることに強く啓発を受けたといえる。
この本は、原著は1986年の出版であるが、和訳への監訳者の小泉 仰氏は、1988年ケンブリッジ大学にて、原著をみつけ、強い共感を覚え、同門の有志たちと翻訳に取り組んだたことを記している。翻訳出版が1994年である。 ネット社会が急速に展開を開始したころの出版ではあった。
社会的情報交流(コミュニケーション)は、それまでの新聞紙面、やTVなどを中心にしたメディアから、SNN等のネットへの急激な展開の時機に入った年代の出版ではあるが問題の本質の方向をただしくとらえているといえよう。  「公開討論」という語のもつ時間的な意味論的な変化もあり、あゝあれかと見がちであるが、かれが提唱する「社会的知性」は、公開討論の卓越性のための基礎になるという意味で、時代的な本質的視点をもち、なお新鮮である。
以上

 (Foxie,Santa's friend)

(Busy Santa,now)

 


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