新. _ 植 物 紀 ・ s e e d .

復活、新植物紀!!

トサエンセ

2019-10-13 02:01:10 | 日記
キバナノセッコクである。

野生ランとしてはかなり魅力的だが、葉芸品としては劣る。

まず、木姿がだらしがない。葉間が空きすぎだ。

南洲達磨という個体が典型だ。キバナノセッコクにしては葉間が詰まって端正な趣きだが、普通のセッコクからしたら、なんの取り柄もない姿である。

それを長生蘭として、まつりあげるのはバカらしい。

古典園芸ってなんだ?という話である。

古典は常に時代に合わせて変化し続けなくてはならない。でなければ、継承されていく価値がない。しかし、それは、芸の話である。

種を越えた形態変異を芸として認めるのか?

たとえば、パプアニューギニアの微細なバルブをもったデンドロを超チャボと評価するのか?あるいはスペシオサムを巨大個体と認めるのか?

古典園芸には、まず典型的な標準種の姿がある。そこからいかに変化しているかが芸である。つまり、型があるということだ。

トサエンセを長生蘭として認めるならば、海外のデンドロビウム属一群が全て対象となる。

となるとおびただしい葉芸品が手ぐすねひいて待っている。

洋ラン業者たちが、忌み嫌ってきた葉芸品。今まで廃棄処分されてきたものが脚光を浴びる。

もう、何が何やら分からなくなる。結局、モニフォルメ以外は長生蘭と認めない方が良い。

モニフォルメの基準種を基本の型として、後は時代ごとに芸を進化させれば良い。

つべこべいわずとも、いずれは、そうなる。

トサエンセにせよ、洋種デンドロにせよ、従来の長生蘭ほどら素晴らしい芸を示すものは存在しない。

…と思いきや、あるんだなぁ。長生蘭を凌駕するような個体が。

もともと、人の背丈ほどもある原種だから、バルブも肉厚である。この原種、数年前には、世界らん展で大賞に輝いたこともある。その肉厚な矢が透ける様子は圧巻。

葉の枚数も長生蘭より、ずいぶん多い。ただ、気難しく、小作りになってしまう。

誰がみても美しい植物は後世まで残り、いずれ古典となる。

キバナノセッコクは時代の波に耐えない。分かる人には分かる、程度の植物だ。

なんかこう、少しずつズレている。あるべきものがあるべき姿で存在していない。古典園芸を守るためには、亜流や傍流をつくる向きをせき止め、正当な流れを興すべきだ。

若いころ、ずっと野生ラン図鑑を眺めていた。あのころの輝きを取り戻すべきなのだ。自然に対する畏敬の念、私利私欲からの離脱。


奄美フーランを富貴蘭と認めるべきではない。色素、低温耐性からして亜種レベルの変異種である。

当然、韓国の交配春蘭もおかしい。あれはあれで一つの分野だが、あそこまで行ったら、シンビジュームとして扱うべきだ。あたかも自然種のような扱いである。


1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (m.)
2020-06-03 19:29:28
グダグダと…。
最近は型を理解できる人がさらに少なくなった。
青い富貴蘭を指して、真砂系白牡丹だという。元はしっかりと芸を表していた木だそうだ。

たとえば、唐九郎の窯から割れた器の破片を拾ってきて、唐九郎と言えるだろうか…?話は簡単である。

真砂系白牡丹には真砂系白牡丹の型があり、長生蘭には長生蘭の型がある。キバナノセッコクにも、標準種はあるだろうが、それを型とよべるのか…ということだ。銘ということ、芸のあり方、そこに1本の筋道が通っているべきである。まぁ、説明しても分かるまい。これはセンスの問題だから。
返信する

コメントを投稿