69年前、全員キリスト教徒の爆撃機乗組員が、“ファットマン”、プルトニウム原爆を、日本の長崎に投下し、何万人もの無辜の一般市民を瞬時に殲滅させたが、彼等の中でも、不釣り合いなほど多数は、日本人のキリスト教徒で、更に無数の人々が、永久に残る負傷、あるいは致命傷を負った。
1945年、アメリカは、世界最大のキリスト教国(つまり、諸々の教会が、山上の垂訓として教えられているイエスの倫理を、圧倒的に、心から教えたり、忠実に守ったりしそこねている国を、キリスト教と呼べるとすればだが)だった。
午前11:02に、浦上天主堂上空で原爆が爆発するまで、長崎は、日本最大のキリスト教都市だった。浦上天主堂は、東アジア最大のキリスト教大聖堂だった。
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午前11:02、木曜朝ミサのさなか、何百人もの長崎キリスト教徒はゆだり、蒸発し、炭化し、天主堂上空500メートルで爆発した、焼けつく放射能の火の玉へと消えた。間もなくきのこ雲から降った黒い雨が、長崎の神道信者、仏教徒やキリスト教徒の入り交じった多数の亡骸を包んだに違いない。長崎の黒い雨の神学的な含意は、あらゆる宗派の神学者達の心をひるませるに違いない。
長崎キリスト教信者の死者数
大半の長崎のキリスト教徒は、爆破から生き残れなかった。ゆるしの告解に出席していた全員を含め、6,000人が即死した。12,000人の教会員のうち、8,500人が原爆の結果として亡くなった。他の多くの人々も重い病状になった。
三つの女子修道院と、キリスト教女学校が、黒煙となって消滅するか、炭の塊と化した。何万人もの非戦闘員の神道信者や仏教徒日本人も即死し、更に多くの人々が、致命傷を負ったり、治療もできないほど負傷したりした。犠牲者の子孫の中には致命的なプルトニウムや、原爆が生み出した他の放射性同位元素によって引き起こされた、継代悪性腫瘍や、免疫不全のために亡くなりつつある方々もいる。
ここで、本記事の重要点の一つをあげよう。日本の帝国主義政権が、200年間にわたる迫害でできなかったことを(日本キリスト教の破壊)、アメリカのキリスト教徒は、9秒でなし遂げたのだ。
第二次世界大戦以来の数十年間で、キリスト教が、ゆっくりと復興した今でも、日本人教会信者数は、総人口のわずか1%というものでしかなく、キリスト教礼拝への平均出席者は、わずか30人と報じられている。戦争末期における長崎の絶滅が、一時は活気に満ちていた教会を、損なってしまったことは確実だ。
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ジョージ・ザベルカ神父は、第509混成部隊(首尾よく原子爆弾を標的に送り込むことが唯一の任務である、アメリカ合州国空軍の1500人の兵士集団)のカトリック従軍司祭だった。ザベルカは、現代の教会が戦争について教えてくれることと、初期の平和主義的な教会が殺人という暴力について教えていたこととの間の矛盾を最終的に認めるに至った数少ないキリスト教指導者の一人だ。
ザベルカが従軍牧師を解雇されてから数十年後、彼は結局、組織的な大量虐殺、つまり現代の戦争を、宗教的に正当化することで、自分も教会も深刻な倫理的、神学的過ちを犯したという結論をだした。彼は結局、自ら述べているとおり、所属する国家の敵は、新約聖書の価値体系によれば、神の敵ではなく、むしろ神に愛されている神の子の仲間であり、それゆえ、神の信者達によって殺されるべきではないことを理解するようになった。
ザベルカ神父が標準的な暴力に寛容なキリスト教から転向したことで、ミシガン州デトロイトの聖職者会議も180度転換した。マーチン・ルーサー・キング同様に、福音非暴力という真実に誠心誠意力を注ぐことを固く決めた彼は、余生を、軍国主義、人種差別や経済的搾取等の暴力を含む、あらゆる形の暴力への反対をはっきり発言することに捧げることにした。ザベルカは、爆撃50周年に、長崎訪問まで行い、自らがおこなった犯罪上の役割を、涙ながらに、懺悔し、許しを請うた。
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