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気になっていた「あわれみ」と「いつくしみ」の違いの明晰なる説明

2015-09-08 | 教理
 日本語訳についてですが、日本では「いつくしみの聖年」と訳されましたが、ここでは「あわれみの聖年」と訳しました。何故なら、

(1)カトリック教会の公式の祈祷文である「公教会祈祷文」の訳には Miserere nobis!, Have mercy on us! が「我らを憐れみ給え」と訳されているのであって、「私たちをいつくしみ下さい」とはなっていないから。

(2)元来ラテン語の misericordia は、miseria (あわれさ、悲惨さ、みじめさ)を心する(cordia)ことであり、「あわれ」という言葉が入っている「あわれみ」が misericordia に合っているから。

(3)天主が、罪を犯し続ける被造物であるそれ自体で目も当てられないような匙を投げ出したくなるような私たち人間を、憐れに思って下さるのが天主の misericordia であり、天主は私たちを可愛いからではなく、惨めであるが故に悲惨であり無惨であるが故に、憐れんで下さる。正に日本語の「あわれみ」の対象はと、あわれであり、みじめであり、悲惨で目も当てられないようなものであるから。日本語で「あわれむ」とは、(「かわいい」「いとおしい」と思うよりは)「あわれ」に思い、そのみじめさやあわれさから引き出そうとすることだから。この「あわれみ」の概念には、罪という忌み憎むものがあるにもかかわらず、その否定的なものが存在するが故に、それが原因となって「憐れみ」の情が生じ、その悲惨な状況から救い出そうとする、という意味があるから。 たとえば「同病相憐れむ」とは、同じ苦しみ・病気・苦悩・艱難を持つ人々は、互いの辛さがわかるので同情し、助け合う、という意味。

(4)しかし日本語で「いつくしみ」とは、年下の可愛い子供や可愛らしい動物や植物などをかわいがって、いとおしく思い、愛情を注いで、大切に思うことであり、「いつくしみ」の対象は、客観的にも愛するに値するようなものだから。「いつくしみ」の概念には、その対象に否定的なものが無く、かえって愛するに値する肯定的なもの故にそれを「いつくしむ」という意味だから。

 現代では、「いのちをいつくしむ」とか「人生をいつくしむ」「文化をいつくしむ」「くらしをいつくしむ」「自然をいつくしむ」「自分をいつくしむ」「富士山をいつくしむ」「道路をいつくしむ」「春分の日 自然をたたえ、生物をいつくしむ」(祝日法第2条)、「わが町をいつくしむ」「家をいつくしむ」「海の恵みをいつくしむ」「猫をいたわりいつくしむ」などと使われているから。

という以上の理由からです。

 「あわれみ」が、対象の悲惨な憐れな否定的な状況を認めてそれから救い出そうとする、すなわち「あわれむ」ことであり、他方で「いつくしみ」が、対象を肯定的に愛すべき善であると認めてそれをそのまま大切にしようとする、すなわち「いつくしむ」ことである、という私たちの理解が正しいなら、マラディアガ枢機卿の講話を分析したフェレー司教様の言うように、新しい「あわれみ」の概念が、罪を否定せずそのまま容認するゆがめられた「あわれみ」であって、まさに日本語の「いつくしみ」の概念がそのまま当てはまると言うことが理解できます。
http://www.immaculata.jp/mag2015/manila432.html


「いつくしみ深き」カトリック聖歌672番 ←プロテスタント曲につき削除すべし
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%97%E3%81%BF%E6%B7%B1%E3%81%8D

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