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聖遺物の聖書的根拠

2016-01-24 | 聖遺物
聖遺物の本質と、聖遺物崇敬の聖書的根拠

 「聖遺物」はラテン語「レリクイア」(単数主格 RELIQUIA)を日本語に訳したものです。「レリクイア」はラテン語の動詞「レリンクオー」(RELINQUO 「後に残す」)から派生した語で、「後に残された物」が原義ですが、カトリック教会では聖人の遺体や遺体の一部、衣や所有物など聖人が所持していた物品、及びそれらに触れさせたものを「レリクイア」(聖遺物)と呼んでいます。

【恩寵の通路である聖遺物】
 聖遺物は、あるいは聖人の身体であることにより、あるいは聖人の身体との接触によって、神の恩寵の通路となる特別な状態を獲得した物品であると考えられています。聖遺物が発揮する力の源は神であって、聖遺物自体はあくまでも神の恩寵の通り道に過ぎません。神が聖遺物の力をいわば励起するのであって、聖遺物自体が魔力を有するのではありません。したがって聖遺物はフェティッシュ(fétiche フランス語で「呪物」「物神」の意)ではありません。
 聖遺物は崇敬(尊重 veneration)の対象ですが、聖人崇敬の場合と同じく、礼拝 (adoration, worship) の対象ではありません。執り成し手である聖人や聖遺物は、神の恩寵の通り道に過ぎず、恩寵の源泉ではありません。科学者の観察がレンズや鏡筒を通して対象に向かうのと同様に、カトリック信徒の礼拝は聖人や聖遺物を通して神にのみ向かうのです。(註1)

【聖遺物崇敬の聖書的根拠】
 聖遺物への崇敬が西ヨーロッパに広まるに当たって、キリスト教以前の習俗が大きな促進力となったのは、誰もが認める歴史的事実です。しかしながら「聖遺物が神の恩寵を媒介する」という考え方は、キリスト教と異教の習合によって発生したものではなく、ユダヤ=キリスト教本来の思想であって、その根拠を聖書自体に求めることができます。以下では、旧約聖書及び新約聖書の記録から、預言者の遺物(遺体)、キリストの衣、使徒の持ち物が神の恩寵を媒介した事例を確かめます。

・エリシャの墓に投げ込まれた死者が、奇跡により復活した例 -- 「列王記」下 13章 14節から 21節

 旧約聖書「列王記」下 13章には、偉大な預言者エリシャの骨に触れて、死者が生き返った出来事が記録されています。「列王記」下 13章 14節から 21節を、新共同訳により引用いたします。

 エリシャが死の病を患っていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュが下って来て訪れ、彼の面前で、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と泣いた。エリシャが王に、「弓と矢を取りなさい」と言うので、王は弓と矢を取った。エリシャがイスラエルの王に、「弓を手にしなさい」と言うので、彼が弓を手にすると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、「東側の窓を開けなさい」と言った。王が開けると、エリシャは言った。「矢を射なさい。」王が矢を射ると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを撃ち、滅ぼし尽くす。」またエリシャは、「矢を持って来なさい」と言った。王が持って来ると、エリシャはイスラエルの王に、「地面を射なさい」と言った。王は三度地を射てやめた。神の人は怒って王に言った。「五度、六度と射るべきであった。そうすればあなたはアラムを撃って、滅ぼし尽くしたであろう。だが今となっては、三度しかアラムを撃ち破ることができない。」エリシャは死んで葬られた。
 その後、モアブの部隊が毎年この地に侵入して来た。人々がある人を葬ろうとしていたとき、その部隊を見たので、彼をエリシャの墓に投げ込んで立ち去った。その人はエリシャの骨に触れると生き返り、自分の足で立ち上がった。

 この記事において、復活した死者はエリシャの墓に投げ込まれました。エリシャは丁重に葬られていたはずですから、投げ込まれた人はエリシャの骨に直接触れたのではなく、土を介していわば間接的に触れたのですが、それでも預言者の遺体に近づいたことにより、遺体に宿る神の力が働いて、生き返っています。トゥールのサン・マルタンをはじめ、ヨーロッパの聖堂は聖人の墓所から発達し、聖人の遺体に近づくことで病気平癒等の恩寵が得られると考えた多くの巡礼者を集めましたが、「列王記」下 13章にはこれと全く同じ考え方が表れています。


・イエスの衣に触れた女が、奇跡的に治癒した例 -- 「マルコによる福音書」 5章 25節から 34節他

 新約聖書「マタイによる福音書」 9章 18節から 26節、「マルコによる福音書」 5章 25節から 34節、「ルカによる福音書」 8章 40節から 56節には、十二年間に亙って病気を患う女が、イエスの衣に触れて瞬時に癒された出来事が記録されています。「マルコによる福音書」の該当箇所を、新共同訳により引用いたします。

 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

 女は病を癒してくださるようにイエスに堂々と依頼せず、こっそりとその服に触れたのですが、これは群衆に排斥されるのを恐れたためです。「レビ記」 15章によると、男は精液の漏出により、女は経血の漏出により、宗教的に汚(けが)れると書かれてあり、穢れているとみなされる期間や清めの式について定められています。「レビ記」 15章 25節には次の記述があります。

 もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。(新共同訳)

 イエスの時代は言うまでもなく旧約聖書の時代であったので、「レビ記」の規定ゆえに、女は恐れおののき、震えながら進み出てひれ伏しました。イエスは女が申し出るまで誰が服に触れたのかお分かりにならなかったわけですから、他の多くの場合のようにこの女を癒そうと考えて奇跡を起こされたのではなく、女が信仰を以てイエスの衣に触れたことにより、神の力が女に働いたのです。


・パウロが身に着けていた物に触れた病者が奇跡的に治癒した例 -- 「使徒言行録」 19章 11, 12節

 新約聖書「使徒言行録」は、使徒パウロの働きを記録する際に、パウロの持ち物が使徒の身体から離れた所において神の恩寵を媒介し、奇跡を起こしたと明言しています。「使徒言行録」 19章 11, 12節を新共同訳により引用いたします。

 神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった。


 なお「使徒言行録」 5章 15節には、ペトロに接近した人に神の恩寵が注がれ、奇跡的治癒が起こったことが記録されています。

 人々は病人を大通りに運び出し、担架や床に寝かせた。ペトロが通りかかるとき、せめてその影だけでも病人のだれかにかかるようにした。

 これは物に触れた例ではありませんが、病人たちがペトロの体に直接接触していない点で、「エリヤの墓」の奇跡との間に共通点が認められます。また癒す側の人物が病者を意識的に治療していない点では、「イエスの衣」や「パウロの持ち物」に触れて癒された例とも共通しています。

 以上の例から、聖遺物が神の恩寵を媒介するという考え方は、キリスト教に侵入した異教起源の夾雑物ではなく、ユダヤ=キリスト教本来のものであることがはっきりと分かります。合理的説明ができない奇跡を一切認めず、聖人や聖遺物を通して神の恩寵が働く可能性を排除する「理性的」信仰、自由主義神学の姿勢は、活きて働く神を信仰する宗教の浅薄化であり、ユダヤ=キリスト教が本来あるべき姿とは別物であると断じざるを得ません。

http://antiquesanastasia.com/religion/references/reliques/essentiel_des_reliques_et_leur_fondement_biblique/general_info.html

聖遺物すなわち聖人の身体や持ち物が神の恩寵を媒介すると考えるのは、別稿で論じたとおり、ユダヤ=キリスト教に本来備わった思想です。しかしながら聖遺物への崇敬が西ヨーロッパにおいて効率的に広まったのは、携帯用のものをはじめとする個人向けの聖遺物が、ゲルマン人がもともと身に着けていた多神教の護符を駆逐しつつ、護符に取って代わり、ヨーロッパ人の宗教生活において護符と同様の働きを担うようになったためであると考えられます。
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護符を兼ねる首飾りが姿を消すことは決して無かった。教会はこれほど根深い迷信を根絶することはできないと悟り、せめて悪影響を軽減することを願って、護符の首飾りを教会の益に変えた。すなわち聖人の墓所で集められた塵を入れた小さな容器、ときには遺物を、首から提げて持ち歩くのが習わしになったのである。この首飾りは相変わらず護符と同じ力を有していたが、いまや首飾りが発する力は神に由来するのであって、もはや悪魔のものではなくなった。

http://antiquesanastasia.com/religion/references/reliques/diffusion_des_reliquaires_portatifs/general_info.html

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