喜多圭介のブログ

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鋭角的表現(9)

2007-02-08 08:55:44 | 表現・描写・形象
結局、私の文体の特徴は何か。文体は変革されるものであるから規定はしたくない。が、志賀文体を土台にしつつも谷崎、大江文体の影響も受けており、妙に癖のある文体になったのではないかと想像している。この時期に井上靖の作品なども多読していた。『憂愁平野』、『しろばんば』は愛読書だった。以下は『あすなろ物語』の冒頭から四段目以降である。

その日、鮎太が学校から帰って来ると、屋敷と小川で境して、屋敷より一段高くなっている田圃の畔道を両肘を張るようにして、ハーモニカを吹いて歩いている一人の少女の姿が眼に入った。少女と言っても鮎太よりずっと年長である。

村では見掛けない娘であった。薄ら寒い春の風におかっぱの髪を背後に飛ばせ、背後で大きく結んでいる黄色い兵児帯の色が、鮎太の眼には印象的であった。

鮎太も畔道を歩いて来たが、その自分とはずっと年長の少女と正面からぶつかるのを避けて、畔道の途中から小川を越えて、土蔵の横手の屋敷内へと飛び降りた。

屋敷内へ飛び降りると、地面が低くなっているため、鮎太の視野から少女の姿は消えた。鮎太は教科書の入っている風呂敷包みを地面へ置くと、傍の柿の木に攀じ登ってみた。少女は相変らずハーモニカを吹きながら段々畠の畔道を歩いていた。

鮎太がその少女を見守っているうちに、彼女は次第にこちらに近寄って来たが、柿の木に登っている鮎太の姿を眼に留めると、視点を据えたような見入り方で、じいっと鮎太の方を見た。その黒い大きい眼が鮎太を驚かせた。一体この少女は何者だろうかと思った。

もしかしたら、冴子かも知れない、鮎太はふとそう思った。

ほかにこの時期に多読していた作家としては遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介であるが、ここでは吉行の名作『砂の上の植物群』の冒頭を挙げておく。見事な書き出しである。こういう文章は句読点を押さえながら朗読してみると良さが解る。と同時に小説創作を志している方々は自作を朗読してみると、いろいろと拙さが解るのではないか。



港の傍に、水に沿って細長い形に拡がっている公園がある。その公園の鉄製ベンチに腰をおろして、海を眺めている男があった。ベンチの横の地面に、矩形のトランクが置いてある。藍色に塗られてあるが金属製で、いかにも堅固にみえる。

夕暮すこし前の時刻で、太陽は光を弱め、光は白く澱んでいた。

その男は、一日の仕事に疲労した躯を、ベンチの上に載せている。電車に乗り、歩き、あるいはバスに乗り、その日一日よく動いた。靴の具合が悪くなり、足が痛い。最後に訪れた店がこの公園の近くで、その店で用事を済せると、男は公園にやってきた。男は、化粧品のセールスを仕事にしている。

彼の前にある海は、拡げた両手で抱え取れるくらいの大きさである。右手には、埠頭が大きく水に喰い込んで、海の拡がりを劃っている。埠頭の上には、四階建の倉庫があった。彼のトランクのような固い矩形の建物である。白いコンクリートの側面には、錆朱色に塗られた沢山の鉄の扉が、一定の間隔を置いて並んでいる。

左手には、長い桟橋がみえる。横腹をみせた貨物船が、二本の指でつまみ取れるほど小さく眼に入ってくる。貨物船は幾隻も並んで碇泊しているので、白い靄の中に重なり合った帆柱やクレーンが、工場地帯の煙突のようにみえる。

眼の前の海を、右から左までゆっくり眺め渡した彼は、視線を中央に戻した。そこには小さな貨物船が舫ってあり、正常な船の上側を匙ですくい取ったような形をしていた。そのすぐ傍に、さらに二まわりほど小さい貨物船があって、それは後肢をもぎ取られて地面に腹這っているバッタに似た形をしている。

彼は、その二隻の船を、しばらくのあいだ眺めていた。
「いま何かを思い出しかかっている」

それが何か、という答をすでに彼は意識の底で知っていた。しかし二隻の船の輪郭が眼の中で霞んでゆき、その替りに心に浮び上ってきたものがしだいに輪郭を整えてゆくのを、彼は待った。