喜多圭介のブログ

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鋭角的表現(13)

2007-02-16 07:58:02 | 表現・描写・形象
井伏鱒二著『黒い雨』。被爆を静かに語る代表作。冒頭の段落からこの作品のドラマが読者に予告されている。これも巧い書き出しだ。



この数年来、小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じて来た。数年来でなくて、今後とも云い知れぬ負担を感じなければならないような気持であった。二重にも三重にも負目を引受けているようなものである。理由は、矢須子の縁が遠いという簡単なような事情だが、戦争末期、矢須子は女子徴用で広島市の第二中学校奉仕隊の炊事部に勤務していたという噂を立てられて、広島から四十何里東方の小畠村の人たちは、矢須子が原爆病患者だと云っている。患者であることを重松夫妻が秘し隠していると云っている。だから縁遠い。近所へ縁談の聞き合せに来る人も、この噂を聞いては一も二もなく逃げ腰になって話を切りあげてしまう。

広島の第二中学校奉仕隊は、あの八月六日の朝、新大橋西詰かどこか広島市中心部の或る橋の上で訓辞を受けているとき被爆した。その瞬間、生徒たちは全身に火傷をしたが、引率教官は生徒一同に「海ゆかば……」の歌をピアニシモで合唱させ、歌い終ったところで「解散」を命じ、教官は率先して折から満潮の川に身を投げた。生徒一同もそれを見習った。たった一人、辛くも逃げ帰った生徒からその事実が伝わった。やがてその生徒も亡くなったと云う。

これは小畠村出身の報国挺身隊員が広島から逃げ帰って伝えた話だと思われる。けれども矢須子が広島の第二中学校の奉仕隊の炊事部に勤務していたというのは事実無根である。よしんば炊事部に勤めていたとしても、「海ゆかば……」を歌った現場に炊事部の女子が出かけている筈はない。矢須子は広島市外古市町の日本繊維株式会社古市工場に勤務して、富士田工場長の伝達係と受付係に任ぜられていた。日本繊維株式会社と第二中学とは何のつながりもないのである。

宮本輝著『錦繍』。宮本輝作品はなんといっても『泥の河』『螢川』、『道頓堀川』と『焚火の終わり』がよかった。書簡体の小説はつい心情ばかりを書いて描写を忘れがちになるが、小説は描写だと強調する宮本だけに描写を挿入することを忘れてはいない。

前略

蔵王のダリア園から、ドッコ沼へ登るゴンドラ・リフトの中で、まさかあなたと再会するなんて、本当に想像すら出来ないことでした。私は驚きのあまり、ドッコ沼の降り口に辿り着くまでの二十分間、言葉を忘れてしまったような状態になったくらいでございます。

あなたに、こうしてお手紙を差し上げるなんて、思い返してみれば、それこそ十二、三年振りのことになりましょうか。もう二度と、あなたとはお目にかかることはないと思っておりましたのに、はからずもあのような形で再会し、すっかりお変わりになってしまったお顔立ちやら目の光やらを拝見して、私は迷いに迷い、考えに考え抜いて、とうとう思いつくすべての方法を講じて、あなたの御住所を調べ、このような手紙を投函することになってしまいました。私の我儘を、こらえ性のない相変わらずな性格をどうかお笑い下さい。

あの日、私は急に思い立って、上野駅からつばさ三号に乗りました。子供に、蔵王の山頂から星を見せてやりたいと思ったからでした。(息子は清高という名で、八歳になりました)リフトの中で、たぶんお気づきになったことでしょうが、清高は生まれつきの障害児で、下半身が不自由であるだけでなく、同じ八歳の子供と比べると二、三歳知能が遅れていますが、どういうわけか星を見るのが好きで、空気の澄んだ晴れた夜には、香櫨園の家の中庭に出て、何時間でも飽きずに夜空を眺めているほどです。父の青山のマンションに二泊して、あす西宮の香櫨園に帰るという晩、何気なく一冊の雑誌を手に取りますと、蔵王の山頂から撮影したという夜空の写真が目に入りました。あっと息を呑むほどの満天の星で、私は生まれてこのかた殆ど遠出などしたことのない清高に、何とか実際にこの星を見せてやれないものかと思ってしまったのです。

父はことし七十歳になりましたが、まだ矍鑠と毎日会社に顔を出し、そのうえ、月の半分は東京支社で指揮を取るため、あなたも御存知の、あの青山のマンションで東京住まいをつづけています。ただ、十年前と比べると、髪はすっかり白くなり、幾分猫背にもなったように感じますが、香櫨園での生活と青山でのマンション住まいをちょうど半分ずつの割合で元気にこなしています。とが十月の初め頃だったでしょうか、会社からのお迎えの車が来て、マンションの前の石段を降りる際、踏み外して足首をひどく捩ってしまいました。ほんの少しですが骨にひびが入り、内出血もひどくて、まったく歩けない状態で、そのため私は清高をつれて慌てて新幹線で駈けつけました。動けないとなると途端に癇癪を起こして、お手伝いの育子さんの世話の焼き方が気に入らなくなり、電話で私を呼びつけたのです。【後略】