私は教職のことと子どもらの世話で頭がいっぱいだったから、そんな信隆さんに特別不満があったわけではない。子どもらが平穏に育ってくれていたら、それで何よりだった。だから女の歓びという言葉などその頃は思い浮かべたこともなかった。 この言葉に焦燥を覚えるようになったのは、三年前、孝夫さんに京都を案内して貰ってからだった。あのときも私は孝夫さんに何かを期待してこころをときめかしている部分があった。しかし聡実が付いていたのでその思いを膨らませることはできなかったし、孝夫さんも私に魅力を感じている風でもなかった。亡くなった従弟の妻や子のために案内してくれている様子しか覗えなかった。京都のあとでも電話を貰ったのは二度だけで間遠くなっていた。 しかし私はあのときから孝夫さんの面影をよく頭で追い掛けていることがあった。車で走っているとき、宍道湖の湖面をちらっと眺めたりすると孝夫さんが現れた。城の公園の桜や紅葉を聡実と連れだって眺めているときもそうだった。聡実も思い出すのか、 「お母さん、京都の紅葉を観に行きたい」と言った。 「いまは無理よ。井口さんとこ、奥さんが入院してるから」 「舞妓さんの踊り見物もお預けだ」 「聡実が大学に入ったら機会があるわよ」 「あっまた勉強に結びつける」 佳恵も聡実も井口孝夫抜きの京都は考えていなかった。 孝夫さんは義典さんの仏前を詣るためだけにM市に来るのだろうか。そのあと日御碕を観て、T温泉で二日間を過ごす……そのことのためだけなんだろうか。温泉だったにM市にも宍道湖湖畔にあるのに、急いでM市を離れたそうにしている。私では頼りにならないのだろうか。少しは私のために時間を割いてくれてもいいのではないか。三年前は奥さんがおられたけど、その奥さんは一年半前に亡くなっている。 三年前にも感じたことだが、孝夫さんは大きな孤独、空洞といったものを子どもの頃から胸に抱えて生きて来られたのではないか。もちろん奥さんが亡くなったことも孤独を深める一因だが、そのこと以前からもっと大きな孤独のなかで生きて来られた、私は孝夫さんの穏やかな風貌にそれを見るのだ。 その孤独を私が少しでも埋めてあげることはできないのだろうか。私は男とか女とかいうことについては、これまで考えてみたことがなかったが、京都の旅行以来、瀬戸内晴美の『妻と女の間』や渡辺淳一の『うたかた』、『花埋め』、『キッス キッス キッス』などを読んできた。もともと小説を読むのは好きであったが、信隆さんとの結婚以来、教職に関係ある本以外は、私には縁遠い内容と思って読まなくなっていたが、孝夫さんに逢ってから、またも読むようになっていた。若い頃は考えることもなかった男と女の関係の奥深さに、眼を開かれる思いだった。 いまの私は、女としては孤独を抱えている。孤独を抱えた男女が一夜だけ、だれか忘れたが女性の歌手が、一生一度の竹の花、と歌っていたように、竹の花を咲かせるのは罪なことだろうか。竹の花は不吉な花と言われているが、その花を咲かせたあと、女として滅びても悔いはない。どのみちあと数年でそれが来るのだから。 孝夫さんはこんな私を受け容れてくれるだろうか。 ★オバマ氏当選歓迎!★ 喜多圭介のオフィシャルブログ ★読者の皆様に感謝★ ★日々の読者! goo 131名 ameba 212名(gooは3週間の amebaは7日間の平均) ★日々の閲覧! goo 396 ameba 409(内26はケータイ) ★ameba小説部門 最高位 86/4849(11月1日) 連載中は執筆に専念するためコメントは【完】のところ以外では許可しておりません、あしからず。 ★この作品を読まれた方は『花の下にて春死なん――大山心中』も読まれています。 喜多圭介の女性に読まれる小説 ★以下もクリック! AMAZON 現代小説創作教室 連載予定の長編『花の下にて春死なん――大山心中』(原稿800枚)を縦組み編集中。こちらの読者の皆様にはこれで一足お先に読むことができます(あちこちで同じ事を書いてますが)。十二章あるうちの三章まで(原稿90枚)。文字の拡大は画面上の+をクリックしてください。しおり付。 あらゆる創作技法を駆使してます。なお私のこれまでの作品では禁じ手としてましたポルノグラフィ手法もワンシーンありますので、一部の女性読者に不快な思いを抱かせるかもしれませんが、ご了解願います。 『花の下にて春死なん――大山心中』 |
孝夫が覚えている大仏の顔は青銅色であったが、これはどうしたことなのだろう。汚れを落としたあとから燻し銀の色が表出したのか、それとも燻し銀に彩色したのか、あるいはこれから金色に仕上げていく過程なのか。しかし燻し銀の大仏は、新世紀の未来を何か象徴しているように思え、孝夫に違和感はなかった。コンピューターグラフィクの画像を眺めているようで、西暦二千年にふさわしい大仏だった。人間の苦悩が多様であるのだから、多様に彩色された仏が在るのもいいのではないかと孝夫は思った。 中学、高校生の頃は足繁く通った奈良であるが、奈良に来ることはあっても大仏を拝顔するのは久し振りのことだった。小・中学生の頃はただ大きいな、という感想しかなかったが、高校生の頃からは大仏の貌について考察するようになった。なんと不気味な、親しみの薄い眼差しの仏なのか、これで本当に人間の苦悩、悲しみを救ってくれるのか、という疑念であった。この疑念はその後、何度か訪れて眺めても変わらなかった。こんな仏のどこがありがたいのか。 二十数年振りに改めて大仏を間近にして思うことは、高校生の頃からの考えとさほど変わらなかった。しかし非情な視線を中空に放って、群がる人間たちを冷視している、大仏の慈悲とは、この非情な冷視のことではないか、二十代を過ぎてから気にかかっていたことに、孝夫はなんとなく解答を得た。大仏は善男善女が鵜呑みに有り難がるようなものではないのでないか、いや大勢の人は大仏の慈悲について何か勘違いをしているのではないか。 そうだ、非情な冷視なのだ、この冷視の元で人間は生死しているのだ、それだけのことなのだ。特別な救済があるわけではない、大仏も自分も孤独なのだ。 この非情な冷視の元に自分が存在することを信じて、生きられるだけ生きてみよう、その挙げ句に絶壁の果てに辿り着くのであれば、そのときはそのときで我が身をあるべき方法で処して行けばいい。孝夫は大仏を見上げて納得すると、大仏殿の中には入らず、踵(きびす)を返して回廊の出口に向かった。 あの老人は今頃、回廊内の片隅で三脚を据えているのだろう、と思い出して周辺の大勢の人の影を見回したが見つからなかった。あの老人はあの老人なりの孤独をああやって過ごしているのだろうか。 * 子供らと一緒に年越し蕎麦を食べたあと、佳恵はキッチンのテーブルの椅子に一人つくねんと腰掛けて、近くの寺から聞こえてくる除夜の鐘を聞いていた。二人の子どもらは居間でテレビを観ながらはしゃいでいた。兄の高明が戻ってきたので、聡実も嬉しそうだった。 佳恵は紅茶を飲みながら、孝夫が電話の最後で話したことが気になっていた。孝夫は二日三日はM市内のホテルに泊まって、四日に日御碕に出掛けるとその夜と五日はT温泉に泊まって、翌日徳島に帰ると言った。 なぜお義父さんのところに泊まらないのか。二階屋で部屋は幾つも空いているし客用の布団だってある。私のところでも居間に布団を敷けば充分なのに、どうして遠慮するのか。やはり小野一族への強いこだわりが、口には出さないが、孝夫さんにはあるような気がする、と佳恵は思った。お義父さんと芳信さんとの確執だけが原因でない。私の知らないことを孝夫さんは知っているのだ。それだからお義父さんや芳信さんとは一線を画しておきたいのだ。 それなら私や私の子供らはどうなんだろうか。やはり一線を画したお付き合いなのだろうか。いや三年前の京都のことを思えば、そんな風には思えない。なんのこだわりもなく私と聡実に付き合ってくださっていた印象がいまも記憶に残っているから。 お義父さんのお話では子どもの頃に芳信さんに虐待されていたということだが、三年前の孝夫さんの風貌にはひどい虐待を受けていたという面影はどこにも見られなかった。いつも眼差しが微笑んでいて、春の風のような温もりのある穏やかさが感じられた。それは信隆さんや義典さんに見られないものだった。 信隆さんや義典さんは一見明るそうに振る舞っていたが、二人とも何かの折には眉根を寄せて難しい顔をしがちだった。何事も意に介しない風のお義父さんにもそんなところがある。三人ともこころのどこかに鬱積したものがあるように受け取れた。そして三人とも日本酒の大酒飲みだった。 信隆さんは私と結婚した当時はビールを一本二人で空ける程度だったが、五年目頃からは日本酒の一人酒をするようになり、酒量も毎晩三合以上だった。そして亡くなる二年前からは焼酎だった。私もビール、日本酒は少しお付き合いしたが、信隆さんは呑むほどに自分のこころの世界に閉じ籠もって、一人沈鬱に何かを考える風だったから、話し掛けても上の空の応答で、私も話をする張り合いがなく、面白くなかった。警察は難しい仕事のところだから仕事のことが呑んでいても念頭にあったのだろう。あるいはお義父さんやお義母さんのことを考えていたのかもしれない。 お義母さんはM市にいる義典さんとは親しくされたが、信隆さんのところに電話を掛けてくることは滅多になかった。電話を掛けてくるのはお義父さんか義典さんだったし、信隆さんはほとんど義典さんと話していた。電話を聞いたあとはたいてい気むずかしい顔になり、焼酎を呑む量も増え、あとは高いびきで眠ってしまった。 ★オバマ氏当選歓迎!★ 喜多圭介のオフィシャルブログ ★読者の皆様に感謝★ ★日々の読者! goo 131名 ameba 212名(gooは3週間の amebaは7日間の平均) ★日々の閲覧! goo 396 ameba 409(内26はケータイ) ★ameba小説部門 最高位 86/4849(11月1日) 連載中は執筆に専念するためコメントは【完】のところ以外では許可しておりません、あしからず。 ★この作品を読まれた方は『花の下にて春死なん――大山心中』も読まれています。 喜多圭介の女性に読まれる小説 ★以下もクリック! AMAZON 現代小説創作教室 連載予定の長編『花の下にて春死なん――大山心中』(原稿800枚)を縦組み編集中。こちらの読者の皆様にはこれで一足お先に読むことができます(あちこちで同じ事を書いてますが)。十二章あるうちの三章まで(原稿90枚)。文字の拡大は画面上の+をクリックしてください。しおり付。 あらゆる創作技法を駆使してます。なお私のこれまでの作品では禁じ手としてましたポルノグラフィ手法もワンシーンありますので、一部の女性読者に不快な思いを抱かせるかもしれませんが、ご了解願います。 『花の下にて春死なん――大山心中』 |
「あと二十分ほどあります。私は蕎麦を食べておこうか。あなたは?」 「ぼくも食べておこうかな」 「それじゃ中に入りますか。空いている席があります」 老人は立っている人の肩をかき分けて、蛍光灯の明るく灯った店内に入った。 老人は空席の一つに座ると、傍らに担いでいたカメラ類を下ろし、あーと大きな溜息を吐き、 「来て良かった。歳とると何事をするにも弾みがいるのです」 老人は眼鏡の奥で優しく笑った。 孝夫もつられて笑った。 「いやね、妻が亡くなって二年ほどはぼんやりとしていました。息子が見かねたのか、公民館でなんか受講してきたらと言うもので、ちょうど写真同好会がありまして、それに参加してからこうやってカメラを運び始めましたよ」 「そうですか。しかし歳をとられても、そうやってすることをお持ちなのは羨ましい」 「秋の文化の日には公民館で写真展が催され、これでも一等を二回受賞しているのですよ。そんなことが励みになってね。展示されている受賞作を眺めながら、死んだ妻に、どうだ、よく撮れているだろう、なんて呟いているのです。妻が生きている頃の私は美的センスのない無芸大食でしたから、今頃になって妻を見返しているのです。妻は短歌を若い頃からやっていました」 「仲の良かったご夫婦ですね」 「いや、喧嘩らしい喧嘩はしなかったですが、私が芸術系のことには関心ないものだから、妻には物足りなかったでしょ。商売柄古書の目利きは出来るほうでしたが、これは芸術には関係ないです」 ネギと蒲鉾二切れの素朴な年越し蕎麦であったが、孝夫は老人の話に温もりを覚えながら食べた。一人で食べる年越し蕎麦でなくてよかった、と胸の底でしみじみと思った。 「それじゃこれで。風邪などひかれないようにして撮影してください」 と言ってから、孝夫は先に腰を上げた。 「ありがとう、あなたもよいお正月を」 老人は柔らかな笑みを浮かべ、頷くように言った。 孝夫は自分もああいう老人のタイプであれば、それなりに平穏な生き方ができるのかもしれないと思いながら、両側に屋台の並ぶ賑やかな通りを南大門に向かった。 あの人は今でも亡くなった奥さんと胸の裡で会話しながら生きているのだろう。 孝夫は南大門でゆっくりと左右の金剛力士像を眺めた。老人はここも撮るだろうな、と想像した。あの老人は確固とした余生の目的を持っているようだが、これからの自分には生きていくどんな目的が見いだせるのだろうか、と思った。とにかく生きていけるところまでは生きて行こう、と呟いた。 南大門を通り抜けた辺りから中門までは、大仏殿参詣の人の列が五列にも六列にもなっていた。大仏殿の金色の鴟尾が二本の光芒の中に美しく浮かび上がっていた。孝夫は人の並んでいる列とは別の前方に進む人の流れに紛れ込んで歩いた。一人で参拝に来ているのだ、何も急ぐことはない。大仏拝顔は並んでいる人の列の後からでよいと思った。列の中には外国人のグループも混じっていた。 前方で大きな焚火の赤い火の粉が空に昇っていた。丸太のままの木材が片側に積まれていて、逞しい体格の男が二人、焚火に一本ずつ放り込んでいた。寒くはなかったが、焚火を囲む人の中に混じった。ちょうど横が鏡池で右手の見通しがよかった。ここからは輪郭すら見えなかったが、若者に人気のある女性シンガーのカウントダウンステージが先の方で催されていて、夜空に広がるライトの元からドラムなどの大音響が弾けていた。 焚火に顔を火照らせ群がっている人の姿を眺めていると、大仏殿の右手のほうで一つ目の除夜の鐘が響いた。もっと大きな音かと想像していたが、小さな響きであった。腕時計を見ると零時きっかりであった。中門が開かれ、並んでいた人の列が前方に動き始めた。 同時にカウントダウンステージのほうから、白い風船が夜空に一斉に上った。会場の若者たちが放ったのだろう。焚火を囲む人の群に感嘆の声がわき起こった。新年を迎えるにふさわしいセレモニーであった。孝夫の視線はずっと無数の白い風船の行方を追った。風船の集まりが光芒の帯に紛れ込むと次々と純白の真珠の小粒に変容し、夜空の彼方に切なく上って行った。実に美しい光景であった。とにかく来て良かった、と孝夫は思った。 二本の光芒の意味がやっと理解できた。大仏殿の金色の鴟尾(しび)をライトアップするために、どこからか放射されているのであろう。大屋根の鴟尾を金色に浮かび上がらせ、光芒の延長に無数の白い風船が高貴な真珠の一粒一粒のように煌(きら) めいていた。巧みな演出であった。 警備員の誘導で人の列は、お互いの体の動きに押し出されるように回廊の内に入った。ここから大仏殿入口までは人の列は崩れ歩きやすくなった。頭上には額縁のような唐破風下の開かれた扉にはめ込まれた、巨大な燻(いぶ)し銀の大仏の顔があった。 ★オバマ氏当選歓迎!★ 喜多圭介のオフィシャルブログ ★読者の皆様に感謝★ ★日々の読者! goo 131名 ameba 212名(gooは3週間の amebaは7日間の平均) ★日々の閲覧! goo 396 ameba 409(内26はケータイ) ★ameba小説部門 最高位 86/4849(11月1日) 連載中は執筆に専念するためコメントは【完】のところ以外では許可しておりません、あしからず。 ★この作品を読まれた方は『花の下にて春死なん――大山心中』も読まれています。 喜多圭介の女性に読まれる小説 ★以下もクリック! AMAZON 現代小説創作教室 連載予定の長編『花の下にて春死なん――大山心中』(原稿800枚)を縦組み編集中。こちらの読者の皆様にはこれで一足お先に読むことができます(あちこちで同じ事を書いてますが)。十二章あるうちの三章まで(原稿90枚)。文字の拡大は画面上の+をクリックしてください。しおり付。 あらゆる創作技法を駆使してます。なお私のこれまでの作品では禁じ手としてましたポルノグラフィ手法もワンシーンありますので、一部の女性読者に不快な思いを抱かせるかもしれませんが、ご了解願います。 『花の下にて春死なん――大山心中』 |
電話を終えると、孝夫は東大寺に出掛ける用意をした。 背広にコートを羽織った孝夫はホテルを出ると、五重塔のある方角に向かってほの暗い夜道を歩いた。十一時を過ぎていたので、ホテルの前の路上は駐車してあった車の動きがにわかに騒がしくなった。大晦日、元旦を奈良で過ごす観光客の車である。一の鳥居近辺まで車を走らせ、そこから東大寺、春日大社への参道を歩く段取りであろう。 三分ほど歩けば十字路に出る。そこを右に折れて十五分ほど歩けば、東大寺に向かう人混みに出会うだろうから、孝夫は道を間違うことはないと思った。十数年振りの奈良であったし、夜道だけに迷わずに東大寺に辿り着けるのかと、やや心配であったが、目先に興福寺の五重塔の黒く浮かぶ、左右に伸びた通りに出ると、近くの暗がりから女子高校生らしい甲高い笑い声がわき起こった。大樹の下で上下スポーツウェアに同じ色の赤いジャンパーを重ね着した五、六人が、円になってしゃがみ込み、談笑していた。 左右に伸びた通りの左手から、次々と手をつないだり体を寄せ合った男女が、囁きながら、あるいは無言で、右の方向に向かってすたすたと歩いていた。この流れが東大寺に向かう人手だなと思い、孝夫は列に加わった。それにしても若者が多いな、と思った。二十歳になるかならない若者の群に混じって、カップルの後ろ姿を眺めながら歩いていると、自分にもこういう時期があったのだと懐かしく、自然と笑みを浮かべていた。 青白い星の鮮明な夜空には、遙か遠くで分岐した二本の太い光芒が不気味に流れていた。光芒の発光元はどこなのか、歩いている人に訊ねてみたいと思ったが、東大寺や春日大社で、新年を迎えようという気持ちを早らせている人群に訊くのは憚(はばか)られ、孝夫は夜空を見上げ一人思案しながら歩いた。コンピューターの二千年問題が西暦二千年へ円滑に移行しないのではないかと、とくに年末から喧(やかま)しかっただけに、孝夫の眼には二本の光芒が不吉に映った。 これからをどう生きていくかの目処は何も立っていなかった。とりあえず自分はいまここで若い者に混じって、緩やかな坂道を、東大寺に向かっている、としか自覚するものはなかった。 大晦日の奈良は寒いだろうと覚悟して徳島を出たのだが、コートの襟を立てるほどでもなく、歩きながら試しに息を吐いても白くならなかった。一の鳥居から北に上る通りは、両側に照明の明るい屋台が並び、人混みが参道いっぱいに広がっていた。 いまの孝夫には屋台の賑わいと明るさが煩(うるさ)く思え、人混みを避けるために、大通りを渡ると薄暗がりの奈良公園内の小道に入った。暗がりには前方に人の姿もなく心細かったが、見当を付けて東大寺の方向に向かって歩いた。木立の間に黒い巨石と見紛(みまが)う格好で鹿の群が蹲っていた。ゆっくりと孝夫の方に近寄ってくるのもいた。夜でも人慣れしているのだろう、近寄ってきても関心がないのか、すぐに離れて行った。 高校生の頃に何度も散策した公園内を、五十歳を越した自分が新年を迎える四十分前に、このような薄暗がりの小道を、一人で歩いていようとは一度も思い描くこともなかった。これが自分の運命だろうと、これから先の死すら覚悟している孝夫は、とくに深刻な心境には陥らなかった。 この小道でいいのだろうか、とあちこちに十字路の小道のある処で、進むべき道を選びながらも、やや不安であった。前方の左手から人影の歩いて来るのが眼に映った。 「東大寺はこの道でいいですか」 向こうから声をかけてきた。肩に三脚付のカメラを担いでいた。 「はっきりとはしないのですが、この前方の道でいいのだと思うのですが」 「観光に来られたのですか」 七十近い老人は、孝夫と同じ道を歩きながら訊ねた。 「そんなところです。久し振りに東大寺の大仏を拝顔しようかと」 「そうですか。私は大仏殿の唐破風下の窓が零時から八時まで開けられるので、そこから外を覗いている大仏を撮そうと、千葉から来ました」 「千葉からですか。お一人で?」 「ええ。七年前から大晦日から三が日は、こうやってあちこちの寺を撮して回っています。店は息子に任せて。正月は休みですが」 「そうですか。写真屋さんですか」 「いや、古書店、古本を扱う。私の跡を息子夫婦がやっていますので、私はこういう暢気なことを」 「そうでしたか。毎年、お寺さんを撮影に」 「寺にかぎってはいません。昨年は下田の海岸べりで初日の出を撮っていました。温泉を兼ねてですよ」 老人は朗らかな笑い声を上げた。それから厚手のハーフコートのポケットに手を差し込んで煙草を取り出すと、ライターで火を点けた。 「失礼ですがお宅はどちらから?」 「徳島からです」 「お一人で?」 「はい、一人で大晦日に家を出たのは今回が初めてですが」 「そうでしょう。大晦日、元旦に家に主がいないと格好になりませんからな。まぁ、私は妻が十二年前に亡くなったものだから、大晦日、三が日を留守していても用事もないものだから、気ままに過ごさせてもらっています。バス通りに出ましたね。向こうが明るい」 「そうですね」 春日大社前のバス停の付近は人で混んでいた。バス会社の勤務員数名が集まっている人たちになにか説明していた。元旦の寺巡り案内のようであった。近くには店先にテントが貼られ、年越し蕎麦と書いた白い看板が立っていた。店内の内外では発砲スチロールの白い丼に蕎麦が盛られ、二十人近い人がうまそうに食っていた。 ★オバマ氏当選歓迎!★ 喜多圭介のオフィシャルブログ ★読者の皆様に感謝★ ★日々の読者! goo 131名 ameba 212名(gooは3週間の amebaは7日間の平均) ★日々の閲覧! goo 396 ameba 409(内26はケータイ) ★ameba小説部門 最高位 86/4849(11月1日) 連載中は執筆に専念するためコメントは【完】のところ以外では許可しておりません、あしからず。 ★この作品を読まれた方は『花の下にて春死なん――大山心中』も読まれています。 喜多圭介の女性に読まれる小説 ★以下もクリック! AMAZON 現代小説創作教室 連載予定の長編『花の下にて春死なん――大山心中』(原稿800枚)を縦組み編集中。こちらの読者の皆様にはこれで一足お先に読むことができます(あちこちで同じ事を書いてますが)。十二章あるうちの三章まで(原稿90枚)。文字の拡大は画面上の+をクリックしてください。しおり付。 あらゆる創作技法を駆使してます。なお私のこれまでの作品では禁じ手としてましたポルノグラフィ手法もワンシーンありますので、一部の女性読者に不快な思いを抱かせるかもしれませんが、ご了解願います。 『花の下にて春死なん――大山心中』 |
この頃孝夫は律子が死んだとは思えなくなっていた。あいつはぼくの胸の中で隠れん坊しているのではないかと錯覚することが多くなった。胸の中の木陰から不意に顔を覗かせて、あなた、と明るい顔で微笑むのであった。胸の中で律子は活き活きと、生きていた頃と変わらない笑顔で、孝夫と遊びたがっていた。悪戯っぽく孝夫の胸の奥底まで覗き込むような律子であった。胸の中で隠れん坊をしている律子がいるかと思うと、同様な強さで思い出の場所、場所で待っている幻覚にも捉えられた。 だが大晦日の前日に京都駅近くのホテルの泊まったものの、結局孝夫は知恩院には詣らなかった。律子はやはり胸の中で隠れん坊をしており、ホテルのベッドに横たわっていると姿を現した。 ――とうとうM市に出掛けることがなかったなぁ。奈良に泊まったあとM市に行って来る。律子はぼくの胸の中から宍道湖を眺めてみるか。 孝夫は自分を元気づけるように呟いた。 そして孝夫は、自分と不遇な死に方をした信隆、義典、健一、三人の従弟たちのことを考えていた。自分とはどこが違うのだろうか。健一はともかくとして信隆は警察大学校、義典は関西の私立K学院大を卒業していた。が、この四年間をすべて親がかり、信和叔父からの学費と生活費の援助で送ったのではないか。 しかし自分はそうでなかった、と大学当時のことを振り返った。 孝夫は東京の私立大学に合格したときから、父親が早く病死したことと、それまでに蓄積していた母親の生き方への反撥とで、母親からの自立を考えた。それでも最初の二年間は学費と生活費、四畳半一間のアパート代五千円と毎月の生活費一万円、計一万五千円を母親から仕送ってもらっていたが、合格した年から皿洗いのようなアルバイトを探し、本代と映画などの小遣い銭は自分で賄(まかな)っていた。無駄遣いすることがなかったので、少しずつ貯金が増えていった。そして大学二年のときから貯金よりも貯金した金を元手に端株買いを始めた。 端株で買っても株価が上がれば証券会社への手数料を払っても、儲けが出る。当初は元手が小さかったので微々たる儲けであったが、大学三年生のときから母親の援助は学費のみにし、生活費の仕送りを断るくらいの儲けが出始めた。 そして大学一年のときから交際していた二歳年上の律子が大学を卒業して働き始めたときに妊娠したので、三年生のときに律子と正式に結婚した。律子の実家の一間で暮らし始めたので、生まれた子どもの世話は律子の母親がみてくれた。この頃になると孝夫は学費と生活費のすべてを自分たち二人の稼ぎで賄うようになっていた。孝夫にとっての母親からの自立であった。 この辺の生き方が父親の呪縛から解き放されなかった信隆、義典とは違っていたのでないか、と孝夫は結論づけた。 信隆が病魔に倒れたときに小学校の六年生だった長男は、今春大学の三年生になるいう。若かった佳恵もその分年齢を加えた。二人の子供を抱えた暮らしは、叔父からの経済援助があるとはいえ苦労だったろうと想像した。叔父の言った意味とは違った意味で、女としての寂しさも味わってきたことだろう。 孝夫は佳恵に逢うのに躊躇いがあった。だが佳恵の、小野はどうなっているのでしょう、という思い、お互いにいままで感じてきたことなどをじっくりと話せるのは、これが最期ではないかと予感していた。今度いつM市を訪れることがあるのかどうかもわからなかった。叔父、叔母たちよりも自分が先に死んでいるかもしれない。 列車はM市に近付きつつあった。佳恵がJR南口の駐車場で待っている筈だった。 * 佳恵のところに孝夫から電話があったのは、大晦日の除夜の鐘の鳴る二時間前だった。 「奈良の猿沢池近くのホテルからかけてます」 「奈良におられるのですか」 「東大寺の除夜の鐘を聞いてから、久し振りに大仏さんを拝顔しようと思いまして」 「お一人で……」 佳恵の訝しがる声だった。 「それでですね、二日から五日までそちらに出掛けようかと。叔父には先ほど電話してあります」 「お義父さんにお電話されたのですか」 「ええ」 「私、車でお出迎えにあがります。何時頃に着かれるのですか」 「午後の二時十分に」 「それじゃ南口に出て貰えたらそこの駐車場に車停めておきます」 「ありがとう。お子様たちはお元気?」 「はーい、大学に行っている高明も戻ってきてます」 「高明くんはいま二年生だったかな」 「はい、この春三年生に」 「そうですか。早いものですね」 「ほんとに……私だけがどんどん歳とってお婆さんに」 「お婆さんはまだまだ先のことでしょう」 「恥ずかしくて孝夫さんの顔を合わせられないですよ」 そう言いながらも佳恵の明るい笑い声が、孝夫の耳元に届いていた。 ★読者の皆様に感謝★ ★日々の読者! goo 131名 ameba 212名(gooは3週間の amebaは7日間の平均) ★日々の閲覧! goo 396 ameba 409(内26はケータイ) ★ameba小説部門 最高位 86/4849(11月1日) 連載中は執筆に専念するためコメントは【完】のところ以外では許可しておりません、あしからず。 ★この作品を読まれた方は『花の下にて春死なん――大山心中』も読まれています。 喜多圭介の女性に読まれる小説 ★アクセス急増中! 「現代小説」にクリックを是非! ![]() ★以下もクリック! AMAZON 現代小説創作教室 連載予定の長編『花の下にて春死なん――大山心中』(原稿800枚)を縦組み編集中。こちらの読者の皆様にはこれで一足お先に読むことができます(あちこちで同じ事を書いてますが)。十二章あるうちの三章まで(原稿90枚)。文字の拡大は画面上の+をクリックしてください。しおり付。 あらゆる創作技法を駆使してます。なお私のこれまでの作品では禁じ手としてましたポルノグラフィ手法もワンシーンありますので、一部の女性読者に不快な思いを抱かせるかもしれませんが、ご了解願います。 『花の下にて春死なん――大山心中』 |
七章 除夜の鐘 孝夫は妹の邦子には電話で、義典の葬儀が済んだことを連絡し、正月の二日から五日までM市に出掛け、義典の家を弔問することを告げた。 「お願い、私のほうの香典も用意して」 「わかってる。ちゃんとするから心配せんでいい」 「ゆっくりしてくるのね」 「M市に出掛けるのもこれが最後やいう気してな、日御碕(ひのみさき)まで行って来よかと」 「出雲大社の先の?」 「そうや」 「寒い時期に行っても海が荒れてるだけやないの」 「その荒れてる海を見にや」 「一人で行くの?」 「うん、そうや」 「変なこと考えんどいてな」 「変なことって」 「自殺とか……」 「心配せんでええ」 伯備線が米子に近付いて来ると孝夫は、右手の車窓からじっと伯耆大山の山容を見上げていた。ここまで来るまでの沿線の風景に雪が見られなかったが、大山は中腹から山稜にかけて雪を被り明るかった。天空に浮き上がった大山は、白銀の観音像であった。眺めているだけで孝夫は安らぎを覚えた。 あのとき凍死していたら律子と巡り逢うこともなかった、と孝夫は胸の裡で呟いた。辺りに黒い闇が下り始めた境内に蹲り、横殴りの吹雪のなかで弘法大師像をぼんやりと眺めていると、大山に通じる本堂脇から二人の男の姿が現れた。野兎狩りからの帰りの猟師であった。小脇に猟銃を抱えていた。孝夫の前に立ち止まった二人の中年の猟師に不審に思われた。一人は大山寺で、一階が食堂と土産物販売、二階の四部屋を宿にしていた。猟師仲間が宿として利用していた。 孝夫はその家に連れて行かれた。一階の土間には薪を放り込んだダルマストーブが赤々と熱を放っていた。猟師の娘であろうか、綿入れの赤い褞袍(どてら)を羽織った中学二、三年生らしい女の子が、盆に肉丼を載せて運んできた。 猟師一家の親切はいまでも覚えている。一家は孝夫に事情を問わず、金も受け取らずに二日間泊めてくれた。雪焼けした木訥(ぼくとつ)、温厚な顔の猟師が孝夫の様子を観察し、翌日の昼に酒を呑みながら、もう一日泊まっていけ、と言った。 ――律子、一度きみをこの山に連れて来たかったけど、機会を逸(いっ)したね。 大山を車窓から見上げて孝夫は呟いた。 孝夫は奈良に泊まる前日に京都でも一泊した。律子が亡くなる三年前に律子と泊まったホテルのシングルを予約した。律子との京都行きはそのときの晩秋が最後であった。 律子は常日頃は贅沢を言わない、平凡な日々の暮らしを自ら満足する女であった。ただ一つだけささやかな贅沢といえるものがあった。それは桜の頃、紅葉の頃の、京都への一泊旅行であった。娘二人が幼い頃は娘を交えての四人だったが、娘たちが中学生になると、孝夫と二人だけで過ごすことを寝物語で望んだ。 孝夫は京都にこだわる律子のこころをはかりかね、一度訊ねたことがあった。 「京都のあちこちをあなたと散策していると、いつも夢が叶っているようで嬉しいの」 律子はいつものように柔らかい笑みを浮かべた。 「だけど京都でなくてもいいのじゃないか。春と秋、いつも京都だからな」 と、孝夫が笑うと、 「一箇所だけお寺や神社に詣って、京膳をあなたと食べる、それだけでいいの」 と屈託のない瞳で、孝夫を見つめた。 孝夫は自分に生きて行こうという気力を与えてくれた律子の、この夢だけは毎年忠実に守った。律子が亡くなってからは京都を訪れていなかった。訪れることは胸の抉(えぐ)られることで怖くもあった。 だがふとM市に出掛ける前に、最後に律子と詣った知恩院に行ってみたくなった。律子と散策したあの石段の路を、一歩、一歩踏みしめてみたいという思いが強くなった。 石段の処に行けばつらさが込み上げてくるかもしれない。だが石段で律子が自分を待っているような気がした。元旦に出掛けても、律子と連れ立って眺めた紅葉は見られないだろう。白壁の上に覗いていた蜜柑の橙色を眺めることもないだろうが、律子と拾い集めた紅葉や楓の一枚、一枚はまだどこかに残っているかもしれないと思った。 秋の京ではいつも紅葉や楓の一葉、一葉を拾い集めた。孝夫の書棚の本や手帳には、毎年拾い集めた、これらの葉が挿まれていた。三年前の葉は知恩院脇の白壁の石段で拾った。律子は何かの思いを籠めるような姿勢で、一葉、一葉丁重に拾い、これはあなたの、これは私の、と笑顔で言いながら、一枚、一枚孝夫に手渡した。こういう行為が幸せというものかと、孝夫は自分のこころの和んでくる眼差しで、蹲って紅葉を拾う律子を見つめた。孝夫の胸のなかのすさんだ部分がしだいに剥落(はくらく)していった。小学高学年から芽生え、抜きがたくなっていた狂気の意識が薄らいで行った。 ★読者の皆様に感謝★ ★日々の読者! goo 131名 ameba 212名(gooは3週間の amebaは7日間の平均) ★日々の閲覧! goo 396 ameba 409(内26はケータイ) ★ameba小説部門 最高位 86/4849(11月1日) 連載中は執筆に専念するためコメントは【完】のところ以外では許可しておりません、あしからず。 最初から読まれるかたは以下より。 一章 ★この作品を読まれた方は『花の下にて春死なん――大山心中』も読まれています。 喜多圭介の女性に読まれる小説 ★アクセス急増中! 「現代小説」にクリックを是非! ![]() ★以下もクリック! AMAZON 現代小説創作教室 連載予定の長編『花の下にて春死なん――大山心中』(原稿800枚)を縦組み編集中。こちらの読者の皆様にはこれで一足お先に読むことができます(あちこちで同じ事を書いてますが)。十二章あるうちの三章まで(原稿90枚)。文字の拡大は画面上の+をクリックしてください。しおり付。 あらゆる創作技法を駆使してます。なお私のこれまでの作品では禁じ手としてましたポルノグラフィ手法もワンシーンありますので、一部の女性読者に不快な思いを抱かせるかもしれませんが、ご了解願います。 『花の下にて春死なん――大山心中』 |
「あの人の言うがままやないの。信隆はおとなしいけん。警察やったら多少はあの人の顔が効くやないの。その分信隆は苦労するけど」 「ぼくは親父の世話なんかならん」 「そないしたらええけん。あの人の言いなりになって幸せになることなんかないけん。怖ろしい人じゃけん。小野のきょうだいはみんな怖ろしいわね。情けなんかないわね」 高校生の義典を膝元に座らせた静子は恨みの籠もった眼で、不在の夫や芳信、智世子を気の済むまで延々と罵った。 孝夫はこんな光景の母と子を想像した。 孝夫は信隆が警察大学校に進んだのは、確かに信和叔父の意向が働いたであろうが、そればかりでもないと想像している。おとなしい信隆は面と向かって両親に楯突かないだけで、両親の諍(いさか)いにうんざりしていたのだ。どちらがいい、悪いの問題ではなかった。信隆は諍いの絶えない父と母を憎悪し嫌悪し、一日でも早く家を出たかった。遠いところで新鮮な空気を吸いたかった。 孝夫は叔父の家に預けられていた夏休みに、母親から勉強のことで小言を言われている信隆を毎日のように見ていた。手は出さなかったものの、針で突き刺すような陰険な叱り方であった。自分の子供を叱っているようではなかった。目蓋を三角にして憎々しげに叱っていた。 信隆だけどうしてこういう怒られ方をするのか、孝夫には理解できなかった。こんなとき義典は襖の蔭から首だけ出して、にやにやと笑っていた。 母親の小言を素直に受けて勉強しないと、帰宅した父親にそれを告げ、今度は父親からも叱責された。我が子を叱るときの父親の眼は、学校の男の先生の眼とも友だちの父親たちの眼とも違うことを、信隆は子供ごころに感じていた。信隆は父親を本当の父親のように思えなかった。 遊びの帰路、義典が先に走って帰宅したとき、孝夫は、 「おばちゃん、お前をよう怒るな。お母ちゃんとお父ちゃんとどちらが好きや」 信隆の顔を窺うように覗き込んだ。 すると信隆は即座に「どっちも嫌いや」と、歪んだ顔で唾を吐き捨てるように言った。 ★読者の皆様に感謝★ ★日々の読者! goo 131名 ameba 212名(gooは3週間の amebaは7日間の平均) ★日々の閲覧! goo 396 ameba 409(内26はケータイ) ★ameba小説部門 最高位 86/4849(11月1日) 連載中は執筆に専念するためコメントは【完】のところ以外では許可しておりません、あしからず。 ★この作品を読まれた方は『花の下にて春死なん――大山心中』も読まれています。 喜多圭介の女性に読まれる小説 ★アクセス急増中! 「現代小説」にクリックを是非! ![]() ★以下もクリック! AMAZON 現代小説創作教室 連載予定の長編『花の下にて春死なん――大山心中』(原稿800枚)を縦組み編集中。こちらの読者の皆様にはこれで一足お先に読むことができます(あちこちで同じ事を書いてますが)。十二章あるうちの三章まで(原稿90枚)。文字の拡大は画面上の+をクリックしてください。しおり付。 あらゆる創作技法を駆使してます。なお私のこれまでの作品では禁じ手としてましたポルノグラフィ手法もワンシーンありますので、一部の女性読者に不快な思いを抱かせるかもしれませんが、ご了解願います。 『花の下にて春死なん――大山心中』 |
叔父夫婦がどちらからも離婚しなかったのは、ひとえにM市における世間体、風評を気にしたためではなかったかと、孝夫は想像していた。この想像を母親にぶつけたことがあった。 「そりゃそうだわ。信和は若い頃から女好きだし、もてたわね。だから静子さんとでも辛抱できたんだわ。本家に養子に出された子だから立場の使い分けを、子供の頃から身に付けておるわ」と智世子は言った。 「静子さんは小学校の先生しておったけど、愛想のない人だった。婆ちゃんが信和とくっつけたのやけど、そうでなかったら嫁の行き先がなかったんと違うか。静子さんの里が駅前で大きな雑貨屋やっていたので、婆ちゃん、持参金でも当てにしたのかね。その当てが外れて。なにしろ静子さんの実家は近所で噂になるほどのしまつ屋で、雀の涙ほども金など出さん父親、母親だったわ。お前も何度が行ったことあるでしょ」 孝夫は智世子の話を聞きながら、芳信叔父宅に預けられていた頃に、婆ちゃんと何度かこの雑貨屋を訪れたことを思い出した。あの頃、婆ちゃんはこの家にお金を借りる相談にでも行ったのだろう。 駅前通りに面したいくらでも商売繁盛の地の利であったが、店先が暗く、商いをやっているのかどうかさえわからないような店だった。小学三年生の孝夫は、婆ちゃんの尻に従いて店の奥に入った。そこに静子の両親が座っていた。つるつる頭の眼の険しい父親と、解(ほつ)れ髪の身だしなみの薄汚れた母親が、伝票仕事のようなことをやっていた。和服の婆ちゃんはしばらく上がり框の畳の端に尻だけ乗せて話していた。お茶の一杯、煎餅(せんべい)の一枚出るわけではなかった。 子供心にも電灯一つの部屋の陰気さを感じ取り、おとなたち三人の重苦しい気配の話を聞いていても面白くなく、一人で店先の広い大通りに出た。駅前通りだけに人や車の賑わいがあったし、人力車が駆け抜けて行くこともあった。国鉄の駅前広場には、いつも黒い幌(ほろ)の人力車が二、三台停まっていた。 信隆は東京の警察大学校に進み、近畿管区圏に職を得たのであるから、以後形だけは両親との葛藤から脱出できたのであるが、成人してからの脱出はさほど意味のあるものではなかったろう。信隆の胸の裡では時として父親、母親への禍々しい感情が吹き荒れていたことだろう、と孝夫は我が身に照らしてこう思った。 悪いことに職種が父親と同じでは尚更であっただろう。中国管区を巡回後にM市の警察署長として退職した父親は、信隆にとってはどこまでも威圧的な大先輩であった。 この点では弟の義典はM市にある企業に勤めていたので職務上での父親の影響はなかったが、M市在住、これはこれで父親といろいろな軋轢があった筈だ。 義典は母親には溺愛された。信隆は母親の胸に飛び込むことはなかったが、義典は平気で母親の胸に飛び込んだし、静子も無邪気な義典をことのほか可愛がった。 この母子関係は義典が少年、青年期も同様だった。父親には憎悪に近い反撥を育てていった義典は、いつも静子の話の聞き役であったし、ただ一人の味方であった。 孝夫には叔母と義典の近親相姦的会話までが想像できた。それは叔父をのろい、藁人形に釘を打ち込むような陰湿な会話であった。 涙を流し口を尖らせて夫を罵る静子を、義典は母親の眼の縁の青痣を見つめながら聞いていた。 「義典、ここ触ってみて。昨夜、お父さんに蹴られて柱にぶつけた痕だよ」 静子は、義典の手を握って頭髪の奥を触らせた。 義典の指先は瘤(こぶ)に触れた。 「世間では偉い人で文化人でも、あの人は鬼だよ。どんだけ私はあの人に辛抱してきたことか。あの人だけじゃないわね。小野のきょうだいのことでは結婚以来、気の休まることはなかったけん。芳信さんは包丁持って暴れたり、ここに来てまで天井の電気コードで首吊りされたり、私は生きた心地がせんじゃったけん。ちょっと私が小野の事で口答えすると、今度はあの人がいきり立って私を殴ったり蹴ったり。そのくせにあんたら子供の前では暴力は振るわん。子供に夫婦喧嘩を見せるのはよくないとか言って。よく言うわよ、そんな分別があるのやったらなんで私を殴ったり蹴ったりするの。お母さんのどこが悪いの。あっちこっちに女をつくって」 「お母さんは悪くない」 義典は真剣な眼差しで母親に言った。 「ぼくはあんな親父は親父と思っとらん。すぐに手ぇ出すやないか。警察の人間は嫌いや。家族まで犯罪者扱いしよって」 「あんたの知っている孝夫さんのお母さんがたまに大阪から来ると、私はほったらかし、二人で夜に遊びに行くがね。結婚したての頃だよ。なんで二人だけで行くのよ。私は悔し涙がとまらんかったがね。孝夫さんのお母さんまで、私を馬鹿にしとるけんね。二人で鼻で笑っていたのよ。そしたら今度は孝夫さんや邦子さんまで夏休みに、一ヶ月も遊びにくるがね。信隆やあんたの世話で手一杯なのに。あの人に愚痴を言うと姉さんの子やないか。姉さんは亭主に死なれて大変なんや、と姉さんを庇(かば)うがね。あんときでもどんだけお母さんは苦労しとったか。これだけは義典、お母さんが死んだ後でも、よう覚えておいて。信隆は東京へ行って、私の話を聞いてくれるのは義典しかおらんからね」 「なんで兄貴まで警察大学校なんや」 ★読者の皆様に感謝★ ★日々の読者! goo 131名 ameba 212名(gooは3週間の amebaは7日間の平均) ★日々の閲覧! goo 396 ameba 409(内26はケータイ) ★ameba小説部門 最高位 86/4849(11月1日) 連載中は執筆に専念するためコメントは【完】のところ以外では許可しておりません、あしからず。 ★この作品を読まれた方は『花の下にて春死なん――大山心中』も読まれています。 喜多圭介の女性に読まれる小説 ★アクセス急増中! 「現代小説」にクリックを是非! ![]() ★以下もクリック! AMAZON 現代小説創作教室 連載予定の長編『花の下にて春死なん――大山心中』(原稿800枚)を縦組み編集中。こちらの読者の皆様にはこれで一足お先に読むことができます(あちこちで同じ事を書いてますが)。十二章あるうちの三章まで(原稿90枚)。文字の拡大は画面上の+をクリックしてください。しおり付。 あらゆる創作技法を駆使してます。なお私のこれまでの作品では禁じ手としてましたポルノグラフィ手法もワンシーンありますので、一部の女性読者に不快な思いを抱かせるかもしれませんが、ご了解願います。 『花の下にて春死なん――大山心中』 |
* 生前の信隆は同じ大阪府下で暮らしているということもあり、団地に独居暮らしをしていた智世子をたびたび夫婦で訪れてくれた。智世子も信隆、佳恵夫婦の官舎を訪れていた。孝夫は信隆夫婦の親切に感ずるところもあり、母親から電話で聞く佳恵の人柄に好感をもった。だが信隆の結婚式でちらっと眺めた程度だから、佳恵の顔は憶えていなかった。皮肉なことに孝夫が佳恵の顔を記憶したのは信隆の通夜の日からであった。 佳恵は信和叔父の意向で三人の子供を連れてM市に移った。孝夫は信隆の葬儀が終わってしばらくした頃に、M市の叔父に電話をかけた。そのとき叔父は、 「佳恵と子供らはアパートに入っとるけん」と言った。 「佳恵さんが子供らと落ち着いて暮らせる家を建てなければ……」 「心配せんでもええ、段取りしとるわね。この家からは遠いけど、城山の後ろにわしが買った空き地があるけん。そこに二階建てを建てよかと思うとる」 「それなら信隆君も喜びますね。それと佳恵さんの仕事のことがあります。大阪での教師の仕事を辞めてそちらに行ったことですし、叔父さんの顔でなんとか教師の仕事が見つかりますか」 「これがなかなか難しいけん。空きがないとな……。ちょっと思い当たるところがあるけん、そこならなんとかなるじゃろ」 「それはよかった。子供の教育費くらい、叔父さんちゃんと面倒みないと」 「わかっちょる、わかっちょる」 叔父は佳恵母子の今後の暮らしについては、それなりの配慮しているらしいことが電話でわかり、孝夫はほっとした。信隆が死んだのは病魔とはいえ、その病魔を誘引する元は、幼年期に受けた両親の軋轢が原因であろうと思っていた。信隆は父親、母親を相手に真っ正面から闘争しすぎたのだ。あの気の弱かった信隆が表だって父親、母親を相手に喧嘩口論はしなかったかもしれない。その分、こころの傷は胸の奥底へと内向し、青年になってからも抜き難いほどに、深く突き刺さっていた筈だ。 孝夫は自分と母親との葛藤の傷が、いまもなお自分の感情を抑えようもなく逆撫ですることを経験するにつけ、信隆も同じようなものを背負い成人したと想像していた。これが信隆の命取りになってしまった。叔父夫婦が惜しみない援助を遺された佳恵母子に与えることだけが、信隆への償いでないかと孝夫は考えたし、叔父はそうするだろう、と思った。 城山近くに信和叔父の経済的援助で、佳恵母子が暮らしていける新築の二階家が経ってまもない秋に、孝夫は信隆の墓前を詣った。このとき以来さばさばした気性の佳恵とは、必要なときには電話をかけられる程度の交流はあった。 「お義父様にはよく気を配ってもらっています」 「叔父をあれこれ言う人がいますが、あなたたち家族を大切に思っているでしょう。叔父のやり方でしか愛情を示せない人ですが」 「よくわかっています」 「傍若無人な点がありますが、決して悪い人柄ではない。これも傍目(はため)のぼくの言うことで、親子となると耐えられないこともあると思いますが。この辺のことはぼくも自分の母親でよくわかっています」 「信隆さんはあまりお義父さん、お義母さんのことは私に話しませんでしたが、話題にすることがあると暗い表情になってました」 「二人が中学、高校、大学の頃はまったく付き合う機会がなかったので、その辺のところがわからなくて、通夜で義典君を殴ってしまいましたけど」 「驚きました、あのときは」 「佳恵さんの子供さんと遊んであげようかと思うのですが、叔父叔母には変に映るだろうなと遠慮しています」 叔父夫婦は孝夫を女たらしと思っているところがあった。 孝夫は、どうも仕方のないことです、という感じで笑った。 孝夫は母子家庭の子供の不憫は自ら体験していたので、たまにM市に出掛けて行って、信隆の子供たちと付き合ってもいいと思うこともあったが、叔父、叔母の存在を考えると気持ちが重たくなって決心が鈍った。 * 信和叔父は中国大陸での三年間の兵隊生活を経て帰国、鳩堂窯を継いでも暮らしていけない時代であった。県警に就職した。鳩堂窯は三代目信和叔父で廃窯になった。 信和叔父は廃窯したとはいえM市では鳩堂窯の三代目の立場で、市の文化広報誌に鳩堂窯の由来を記事にしたり、小・中・高校で講演したりで、M市の名士であった。威風堂々とした体格と男ぶりのいい顔をしていた。市の文化財審議委員の公職を務め、ものの分かった文化人として通っていた。 七十歳を過ぎたいまはどうかわからないが、五十代頃の信和叔父は病的な顔の芳信叔父と違って女にもてた。二十年も前のことだがT温泉に馴染みの芸者のいることを、孝夫は母親の口から聞いていた。 中国管区各地を転々とした叔父の女性関係は、この芸者だけではなく数名いた。職務柄表には出ないように隠蔽していたが、自分の肩書きをフルに活用して、あちこちで若い女と付き合っていた。これくらいの知恵を働かせる叔父であった。 ★読者の皆様に感謝★ ★日々の読者! goo 131名 ameba 212名(gooは3週間の amebaは7日間の平均) ★日々の閲覧! goo 396 ameba 409(内26はケータイ) ★ameba小説部門 最高位 86/4849(11月1日) 連載中は執筆に専念するためコメントは【完】のところ以外では許可しておりません、あしからず。 ★この作品を読まれた方は『花の下にて春死なん――大山心中』も読まれています。 喜多圭介の女性に読まれる小説 ★アクセス急増中! 「現代小説」にクリックを是非! ![]() ★以下もクリック! AMAZON 現代小説創作教室 連載予定の長編『花の下にて春死なん――大山心中』(原稿800枚)を縦組み編集中。こちらの読者の皆様にはこれで一足お先に読むことができます(あちこちで同じ事を書いてますが)。十二章あるうちの三章まで(原稿90枚)。文字の拡大は画面上の+をクリックしてください。しおり付。 あらゆる創作技法を駆使してます。なお私のこれまでの作品では禁じ手としてましたポルノグラフィ手法もワンシーンありますので、一部の女性読者に不快な思いを抱かせるかもしれませんが、ご了解願います。 『花の下にて春死なん――大山心中』 |
* 生前の信隆は同じ大阪府下で暮らしているということもあり、団地に独居暮らしをしていた智世子をたびたび夫婦で訪れてくれた。智世子も信隆、佳恵夫婦の官舎を訪れていた。孝夫は信隆夫婦の親切に感ずるところもあり、母親から電話で聞く佳恵の人柄に好感をもった。だが信隆の結婚式でちらっと眺めた程度だから、佳恵の顔は憶えていなかった。皮肉なことに孝夫が佳恵の顔を記憶したのは信隆の通夜の日からであった。 佳恵は信和叔父の意向で三人の子供を連れてM市に移った。孝夫は信隆の葬儀が終わってしばらくした頃に、M市の叔父に電話をかけた。そのとき叔父は、 「佳恵と子供らはアパートに入っとるけん」と言った。 「佳恵さんが子供らと落ち着いて暮らせる家を建てなければ……」 「心配せんでもええ、段取りしとるわね。この家からは遠いけど、城山の後ろにわしが買った空き地があるけん。そこに二階建てを建てよかと思うとる」 「それなら信隆君も喜びますね。それと佳恵さんの仕事のことがあります。大阪での教師の仕事を辞めてそちらに行ったことですし、叔父さんの顔でなんとか教師の仕事が見つかりますか」 「これがなかなか難しいけん。空きがないとな……。ちょっと思い当たるところがあるけん、そこならなんとかなるじゃろ」 「それはよかった。子供の教育費くらい、叔父さんちゃんと面倒みないと」 「わかっちょる、わかっちょる」 叔父は佳恵母子の今後の暮らしについては、それなりの配慮しているらしいことが電話でわかり、孝夫はほっとした。信隆が死んだのは病魔とはいえ、その病魔を誘引する元は、幼年期に受けた両親の軋轢が原因であろうと思っていた。信隆は父親、母親を相手に真っ正面から闘争しすぎたのだ。あの気の弱かった信隆が表だって父親、母親を相手に喧嘩口論はしなかったかもしれない。その分、こころの傷は胸の奥底へと内向し、青年になってからも抜き難いほどに、深く突き刺さっていた筈だ。 孝夫は自分と母親との葛藤の傷が、いまもなお自分の感情を抑えようもなく逆撫ですることを経験するにつけ、信隆も同じようなものを背負い成人したと想像していた。これが信隆の命取りになってしまった。叔父夫婦が惜しみない援助を遺された佳恵母子に与えることだけが、信隆への償いでないかと孝夫は考えたし、叔父はそうするだろう、と思った。 城山近くに信和叔父の経済的援助で、佳恵母子が暮らしていける新築の二階家が経ってまもない秋に、孝夫は信隆の墓前を詣った。このとき以来さばさばした気性の佳恵とは、必要なときには電話をかけられる程度の交流はあった。 「お義父様にはよく気を配ってもらっています」 「叔父をあれこれ言う人がいますが、あなたたち家族を大切に思っているでしょう。叔父のやり方でしか愛情を示せない人ですが」 「よくわかっています」 「傍若無人な点がありますが、決して悪い人柄ではない。これも傍目(はため)のぼくの言うことで、親子となると耐えられないこともあると思いますが。この辺のことはぼくも自分の母親でよくわかっています」 「信隆さんはあまりお義父さん、お義母さんのことは私に話しませんでしたが、話題にすることがあると暗い表情になってました」 「二人が中学、高校、大学の頃はまったく付き合う機会がなかったので、その辺のところがわからなくて、通夜で義典君を殴ってしまいましたけど」 「驚きました、あのときは」 「佳恵さんの子供さんと遊んであげようかと思うのですが、叔父叔母には変に映るだろうなと遠慮しています」 叔父夫婦は孝夫を女たらしと思っているところがあった。 孝夫は、どうも仕方のないことです、という感じで笑った。 孝夫は母子家庭の子供の不憫は自ら体験していたので、たまにM市に出掛けて行って、信隆の子供たちと付き合ってもいいと思うこともあったが、叔父、叔母の存在を考えると気持ちが重たくなって決心が鈍った。 * 信和叔父は中国大陸での三年間の兵隊生活を経て帰国、鳩堂窯を継いでも暮らしていけない時代であった。県警に就職した。鳩堂窯は三代目信和叔父で廃窯になった。 信和叔父は廃窯したとはいえM市では鳩堂窯の三代目の立場で、市の文化広報誌に鳩堂窯の由来を記事にしたり、小・中・高校で講演したりで、M市の名士であった。威風堂々とした体格と男ぶりのいい顔をしていた。市の文化財審議委員の公職を務め、ものの分かった文化人として通っていた。 七十歳を過ぎたいまはどうかわからないが、五十代頃の信和叔父は病的な顔の芳信叔父と違って女にもてた。二十年も前のことだがT温泉に馴染みの芸者のいることを、孝夫は母親の口から聞いていた。 ★読者の皆様に感謝★ ★日々の読者! goo 131名 ameba 212名(gooは3週間の amebaは7日間の平均) ★日々の閲覧! goo 396 ameba 409(内26はケータイ) ★ameba小説部門 最高位 86/4849(11月1日) 連載中は執筆に専念するためコメントは【完】のところ以外では許可しておりません、あしからず。 ★この作品を読まれた方は『花の下にて春死なん――大山心中』も読まれています。 喜多圭介の女性に読まれる小説 ★アクセス急増中! 「現代小説」にクリックを是非! ![]() ★以下もクリック! AMAZON 現代小説創作教室 連載予定の長編『花の下にて春死なん――大山心中』(原稿800枚)を縦組み編集中。こちらの読者の皆様にはこれで一足お先に読むことができます(あちこちで同じ事を書いてますが)。十二章あるうちの三章まで(原稿90枚)。文字の拡大は画面上の+をクリックしてください。しおり付。 あらゆる創作技法を駆使してます。なお私のこれまでの作品では禁じ手としてましたポルノグラフィ手法もワンシーンありますので、一部の女性読者に不快な思いを抱かせるかもしれませんが、ご了解願います。 『花の下にて春死なん――大山心中』 |