この土、日は予定外の仕事に多くの時間を割きました。
実は、事件というのは、訴訟になっても、あるいはほとんど終わりという
状態になっても、動いているのです。
私たちは、そのときどきの状況に応じて、深くも考えずに生きているのです。
何かを仕組まれていたとしても、気がつかないことが多いのです。
当然と思っているものについてほど、警戒心もなく、何でそれが問題なのか
すら、気付かないのです。
裁判になっても、それぞれに、思い思いの絵を描いているのです。
判断する裁判官は、その事件について何も知らない人なのです。
代理人である弁護士も本来は何も知らないのです。
本人も自分の見たことしか知らないのです。
相手の本人も自分の見たことしか知らないのです。企んだとしてもです。
そしてある時、見方について決定的な違いがあり、争いとなるわけです。
まずは、当事者の知っていること、知らないこと、勘違いや誤解などから整理を
初め、代理人がその行司役のようなことをし、整理をするのですが、
誤解や思い違いや見過ごしなどは当然です。
だからこそ、いつも、誤解や思い違いや見過ごしや曲解や時には悪意などに
細心の注意を払う必要があるのです。
特に、裁判官がきちんと理解しているかについては、常に神経を使うべきなのです。
この場合、重要なことは、結論についてではないということなのです。
なんとなく、どう思っているかというのは基本的に誰でもわかるのです。
「何が」そう思わせているのかという、その「何」を具体的に掴むということが大事なのです。
「何」は漫然であってはならないのです。
(次の行動のために、絶対に必要なのです。行動というのは、具体的な目標がなければ
おこすことはできないからです)
確かめる必要があるのです。
これをできる人って、なかなかいないんですよ。
次に重要なことは、行動するということです。
これができるという人はさらにさらにいないのです。
近著の「虚飾の聖域」は、このようなことを書いたつもりです。
そして、土、日はそんなことに追われていたのです。