一生懸命

2006年01月21日 | 震災について
哀れみの言葉を述べたりするよりも、
精一杯生きたほうがきっと僕の性にあっている。
生きよう。どんなに辛いことや哀しいことがあったとしても。
どんなに不器用でかっこ悪くても、生きてゆこう。
いいかげんな生き方をしていては、
生きたくても生きられなかった人たちに対して申し訳がたたないよ。
一生懸命に、生きるんだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黙祷の朝

2006年01月21日 | 震災について
1月17日の朝。
5時に起床してラジオを石垣島のNHKの周波数540KHzにあわせる。
僕の家は市街から遠く離れていてテレビもラジオも携帯電話も電波状況がよくない。台湾のラジオとの混信がひどくてうまく聞き取れないことが、神戸から離れて遠いところまで来てしまったのだということを強く認識させた。
ラジオを聴いて眼をつぶって手を合わせて黙祷すること。そのぐらいしか今の僕が神戸にできることがない。そんな自分の無力さに歯がゆさを感じながらもそうしないではいられなかった。

5時46分、黙祷をする。
いままで出会った人たちの笑顔がまるで早回しのスライドショーみたいにつぎつぎとまぶたの裏に映し出される。
黙祷を終えて眼を開くと僕のまぶたは濡れていた。
いつもつきあっている友達や、なにげに過ごしている時間がとてもいとおしく感じられて、感謝の気持ちが涙の雫になって溢れ出て僕のまぶたを濡らしていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発熱

2005年01月19日 | 震災について
先程生まれて初めて体温計を購入し、熱を測ってみた。
37,5℃。
発熱している。

もともと身体は丈夫なほうで、年にいちどぐらい鼻がぐずぐずするのが関の山だった。
石垣に帰ってきてからとたんに症状が出始めた。
神戸よりも随分暖かい石垣で風邪をひくのだから、不思議なものだ。
神戸に滞在した5泊6日。忙しく歩き回ったせいもあるし、なにより精神が緊張していて、
1日に3時間しか眠ることができなかった。
酒をいくら呑んでも、酔えなかった。
デメララ75°も、ジェムソンも、マティーニも、効果なし。
帰路の飛行機の中では、乗った先から爆睡して、目覚めたときにはすでに宮古島上空だった。
今日は酒を控えて、代わりに風邪薬をのんで、あったかくして早めに寝ます。
おやすみなさい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2005年1月17日午前5時46分

2005年01月17日 | 震災について

幾千の
蝋燭見つめ
祈る我
忘れはしまい
あの日の事を
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【新潟中越大震災】阪神淡路大震災ボランティア経験者ができること

2005年01月17日 | 震災について
テーマサロン(※)を開設しました。

【新潟中越大震災】阪神淡路大震災ボランティア経験者ができること

僕は阪神淡路大震災が縁で神戸に7年間暮らしました。
阪神淡路大震災ボランティア経験者が新潟中越大震災にできること、
震災から10周年を迎える被災地への想い・・・。
いろんな気持ちを共有できる場所をつくりたいです。




※テーマサロンとは、ひとつのテーマに沿ったトラックバックを送ることによって
 ブログ同士の連携ができるシステムです。gooブログ以外のブロガーも参加できます。
 参加者は、阪神淡路大震災ボランティア経験者に限定しません。
 志のある方であれば、どなたでも歓迎します。
 
記事の記述の一部を【新潟中越地震】から【新潟中越大震災】に改めました。
2004年11月30日



関連記事:「屋根裏の住人」
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

帰郷

2005年01月13日 | 震災について
今日の夕方の飛行機で神戸に帰る。
今さっき、隣のおじぃとおばぁに、
『一週間ぐらい内地にが帰るから、留守にするねー』
と伝えにゆくと、
『あんなに内地寒いのによ、どうして帰る?』と言われた。

確かに寒いよな。
朝の5時46分は、確かに寒い。
でもね、おばぁ。
僕には、どうしても帰ってやらなくちゃいけないことがあるんだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

あと10日

2005年01月07日 | 震災について
この頃、体調不良が続いている。
断続的な下血を繰り返し、
断続的にしか睡眠がとれず、
あれだけあったはずの食欲も、どこへやら。

人前では気丈に振舞っているが、
心の奥底には重たい鉛のかたまりが、
ずんと沈み込んでいる。

理由はわかっている。
いつもこうなんだ。

あと10日後。
再びあの日が巡ってくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沈黙の声

2005年01月04日 | 震災について
無念かな
瓦礫の下に
眠る君
胸に聴こゆる
沈黙の声









※初出:2003年2月5日

【TB】BLOG STATION:『ブログ句会・3
今日は明日の前日だから:『短歌、またやらない?
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追憶の彼方に煌めくもの

2004年12月25日 | 震災について
神戸より南西へ遥か1500キロの亜熱帯に浮かぶ石垣島に暮らす毎日の中で、
神戸の事を想わない日は1日としてありません。

生まれ育った北海道からなにもわからないままにやってきて、
瞬く間に駆け抜けた神戸での7年間。

あの震災から10周年という節目を目前に控え、
これまでに己の描いてきた軌跡を顧みる現在。

汗をかいて仲間達と共に生きたちびくろという座標軸は、
僕の胸中でその煌めきを増すばかりなのです。





※阪神淡路大震災『ちびくろ救援ぐるうぷ テント村だより震災10周年記念号』によせて
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

想い

2004年11月27日 | 震災について

あなたの想いを花にして
みんなの庭へ咲かせましょう
優しい香りは溢れ出て
涙に濡れた心に染み渡るでしょう

あなたの想いを雨にして
みんなの街へ降らせましょう
優しい雨はしっとりと
乾いた心を潤すでしょう

あなたの想いを星にして
みんなの空へ流しましょう
託された願い事たちは
やがて真実へと姿を変えるでしょう

あなたの想いを歌にして
みんなの心へ届けましょう
優しい歌は口から口へ
やがて大地を揺るがす響きとなるでしょう





トラックバック
BLOG STATION:【新潟中越地震】義援金ポスター大作戦
♪お玉つれづれ日記♪:【新潟中越地震】変わらなかった場所からできること【2】
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

追憶の彼方にあるもの

2004年11月06日 | 震災について
僕が阪神淡路大震災の被災地において接した高齢者たちは、
戦争から半世紀を経た現代においても、決して戦争の事を忘れてはいなかった。

決して戦争の事を語らない人がいた。
折に触れて戦争を語る人がいた。
堰が溢れるように、戦争の事を語りだす人がいた。
何れの人も、戦争の事を決して忘れてはいなかった。
その姿はまるで、戦時中の苦しみを震災後の自らに重ね合わせているかのようだった。

改めて思う。
僕は被災地で、無間地獄の闇に彷徨う人々の現実を垣間見てきたのだ。

あまりに凄惨な現実を垣間見た僕は、その記憶を意識の深層の底に沈めた。
沈めざるを得なかったのだ。
あまりに辛くて悲しい現実を。

その記憶がどうやら、このごろ浮かび上がってきているようだ。
以前から震災後に経験したことについて、記録を纏める必要性を感じていた。
当時100万人を超えると言われた震災ボランティアに対して、
再び神戸に舞い戻って住み着くような人間は稀有な存在だった。
自らが神戸で体験した事を記録することについての義務感を抱いたということも、もちろんある。
しかし、何よりも自分の為に記録しておきたかった。
自らの生き様を刻み付けておきたかったのだ。

その感情に、新潟中越地震が火を点けた。

これから歩む道は、きっと困難を極めるだろう。
割愛せざるをえない部分も、当然出てくるだろう。

しかし、記録しなければなるまい。

被災地の真実を伝える為に。
なにより、自分自身の為に。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Sさんのこと

2004年11月02日 | 震災について
Sさんとは、神戸の仮設住宅で出会った。
Sさんの入居していた仮設住宅は「地域型仮設住宅」という名称の2階建てのプレハブで、65歳以上の高齢者と、障害者手帳を持つ人のみが入居していた。
Sさんは80歳近くの高齢者で障害者手帳を持っていたが、生まれながらにして障害を抱えていたというわけではなかった。
戦争で中国に出征し、前線で被弾したのだ。
弾丸はヘルメットを突き抜け、頭蓋骨をも突き抜け、Sさんの脳味噌の奥深くにめり込んだ。
弾丸が突き抜けた痕跡と脳味噌の中の弾丸は、今もSさんの頭に残ったままだ。
Sさんは「名誉の負傷」という賞賛や恩給と引き換えに、左半分の身体の自由を一切失った。

あの頃、殆ど毎日のように僕はSさんの部屋に通った。
地域型仮設住宅には職員が派遣されているものの、その対応は決して充分と言えるものではなかったし、なによりひとりではトイレに行くこともままならないSさんの事が心配だった。

お互いに付き合いが深まるにつれ、Sさんは少しずつ自分の事を語り始めた。
もしSさんの話し方を説明しようとするのならば、「問わず語り」という言葉がいちばん適当であるように思う。
Sさんは話をする時に、殆どの場合僕を見ることはなかった。
あの感じをなんと表現すればよいのだろうか。
いつも何処か遠い虚空を見つめているような趣が、Sさんにはあった。
たまに僕を見て話をするときもその視線は僕を透過しているような塩梅だった。
Sさんは、いったい何を見つめていたのだろうか。

Sさんはテレビ局の苦情電話の電話番を長年務めていたのだという。
受話器越しに、何処の誰とも知れない視聴者に文句を言われ、頭を下げる日々。
「生きてゆく為には、仕方なかった」のだと。
「カタワの自分には、そんな仕事しかできなかった」のだと。
Sさんは時に語気に怒りを含めたり、自嘲的な笑みを浮かべたりしながら、自らの過去を切々と語った。

天気のよい日には、努めてSさんを散歩に誘うように心掛けた。
なにより外の空気を吸って気分転換をすることが、いちばんだろうと考えたからだ。
4畳半のプレハブの部屋に独りでうずくまっているだけでは、気力も萎えてしまうのではないかと思った。
地域型仮設住宅の建っていた付近は、Sさんにとって幼少期を過ごした思い出の場所だった。
清盛塚、兵庫大仏、楠公さん(湊川神社)。
僕はSさんに乞われるままに車椅子を走らせた。

あるとき、「神戸の庶民の台所」と呼ばれている湊川市場にふたりで出掛けた。
湊川市場には、古くからの友人が暮らしているのだという。
Sさんの言葉に従って細い路地を曲がり、とある医院に入った。
白衣を着た矍鑠(かくしゃく)とした老人が、Sさんを認めるなり小走りで駆け寄ってきた。

「おお、Sやないか。久しぶりやなぁ。元気にしとったか!」

白衣の老人は車椅子に座っているSさんに目線を合わせるように跪き、肩に手を添えた。
彼はSさんと共に戦地に赴き、同じ部隊に所属していた戦友なのだそうだ。
「同じ部隊言うてもな、軍医さんと二等兵やったらえらい違いやわぁ」
Sさんはさかんに恐縮していたけれど、あんなに楽しそうなSさんの笑顔を僕は後にも先にも見たことはなかった。

話はそれだけでは終わらなかった。
そのとき初めて知ったのだが、白衣の老人はSさんを地震発生直後に瓦礫の中から助け出した命の恩人なのだという。

1995年1月17日午前5時46分。
Sさんの暮らしていた古い木造アパートは、一瞬にして瓦礫の山と化した。
身体の不自由なSさんは、瓦礫の中から逃げ出すことができずにいた。
白衣の老人は地震発生直後に地域の住民とチームを組んで、瓦礫の中に埋まった人々を助け出していたのだという。
「そうや!Sや!Sは大丈夫やろか?」
彼の機転がなければ、おそらくはSさんは瓦礫の中から逃げだすことができずに、業火に呑まれていただろう。
そう考えるとぞっとした。
だが、それと同時に絶望の中に一縷の光明を見た気がした。
ふたりの再会の瞬間に偶然にも居合わせた僕は、しきりに人と人との縁の不思議さを想っていた。

地震が起こらなければ、出会うことはなかっただろう人たち。
地震が起こったからこそ、出会えた人たち。
人と人との出会いと別れは、いつでも喜びと哀しみに満ちている。
そして今日も、僕は出会いと別れを繰り返しながら生きてゆく。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

濡れた瞳

2004年11月01日 | 震災について
神戸在住時、三宮から阪急電車で一駅の春日野道という下町にアパートを借りていた。
モンゴルの音楽を演奏することを職業としていた僕は、いつも日中に馬頭琴の練習と声出しをするのを日課にしていた。
太陽の光を浴びて風に吹かれているなかで演奏するのが好きだった。
ある日のことだった。
アパートから程近い公園で練習していると、いつも公園に遊びにきている女の子が話しかけてきた。



「なぁなぁ、おにいちゃん」

 「なんや」
 
「おにいちゃん、もんごるの人なん?うち、この楽器知っとうで。国語の時間に勉強したもん」

 「僕モンゴル人とちゃうで。日本人やで」

「ふーん、もんごるの人か思うたわ。神戸の人なん?」

 「神戸ちゃう。北海道。地震のすぐあとに神戸の人を助けに来て、そのまま神戸におる」

「ふーん、北海道かぁ。遠いなぁ」

 「地震いうても、自分はちっちゃいからまだ生まれてへんやろなぁ」

「うち地震のこと知っとうで。おかあさんのお腹の中で揺れたのわかったもん。忘れへんわ」






僕は一瞬自分の耳を疑った。
俄かに女の子の言葉を信じることができなかったのだ。

「うち地震のこと知っとうで。おかあさんのお腹の中で揺れたのわかったもん。忘れへんわ」

その言葉を頭の中で反芻しながら、僕はまじまじと女の子の顔を見つめた。
小学校2年生とは思えない真摯な表情に、濡れた瞳が光っていた。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私を忘れないで

2004年10月31日 | 震災について
「頑張れ神戸」

「震災に負けるな」

そんな台詞が、今日もそこかしこに溢れています。
だたあてもなく彷徨うような日々を、私は送っています。
家を焼かれ、家族を亡くし、ついには生きる気力まで失ってしまった。
人様に迷惑を掛けまいと、私なりに今まで精一杯やってきたつもりです。
笑顔を絶やすまいと、作り笑顔で毎日を繕ってきました。
啜り泣きが聞こえないように、嗚咽を押し殺して泣きました。
皆さんの気持ちに応える為に、震災に負けない元気な私を演じてきました。

でもそれも、もうできそうにありません。
私の心は枯れ木のように痩せ細ってしまいました。

いまはただ、泣かせて下さい。
いまはただ、そっとしておいてほしいのです。

もしも私の事を本当に思って下さっているのなら、どうか私の事を静かに見守っていて下さい。
たとえ遠くからでもいい。みつめていてほしいのです。
私のことを、忘れないでほしいのです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

だめだ、書けねぇ。

2004年10月29日 | 震災について
新潟中越地震のことについて書こうと思っても、書けない。

代わりに、いままで阪神淡路大震災の事について書いた文章へのリンクを張ります。




存在の証 1995年11月記

Where are you going?
  1997年1月17日記

あたりまえのしあわせ 1998年7月3日記

大道芸人論 1999年4月記

沈黙の声 2003年2月5日記

震災は終わったのか  2004年7月22日記
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする