アーサーを採る

2005年02月27日 | 八重山のいきものたち
今日はアーサーを採りに行った。
アーサーとは、沖縄地方の浜辺に1月から3月にかけて見られる海草のことである。
定食屋の吸い物に緑の海草が入っていれば、それはおそらくアーサーであるというぐらい親しまれている海草だ。
吸い物にしても旨いが、天ぷらにしても旨い。
冷凍すれば1年間は保存が可能という手軽さも、うれしい。
ただやっかいなのは、アーサーについた細かい砂や珊瑚などの付着物を落とすことだ。
けっこうまめな仕事なので根気がいるのだが、
無心になってザルでアーサーを洗うのはけっこう楽しいものだ。





写真は干潮になってあらわれた一面のアーサー畑。
緑色のものは全てアーサー。
モンゴルの砂漠地帯を彷彿させるようなアーサーの緑。
家から歩いて3分の絶好の穴場。
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頼れる相棒

2005年02月27日 | 日々の出来事
石垣島に移住してから、ちょうど1年半になる。
移住直前に京都で手に入れた、中古のスーパーカブ50スタンダード。
2003年の8月に1万1200キロから走り始めて、
今月で走行距離が2万キロを超えた。
ざっと見積もって地球の裏側のブラジルあたりまで走っている計算になる。
外周140キロたらずの石垣島では、いったい何周していることになるのだろう。
ほんとうに頼れる相棒だ。

いままでありがとう。
そして、これからもよろしく。
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収穫寸前

2005年02月27日 | 八重山のいきものたち
トマトが育ってきた。
地元の北海道では考えられないことだが、
石垣島では今の季節が野菜を育てるベストシーズンなのだ。
3月になって気温が上がれば、一気に赤く実るだろう。
収穫する前にあまり水をあげないで育てるとあまーくなるんだよね。
楽しみだ!
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帰ってくる話

2005年02月21日 | 随想
今、僕の手元には司馬遼太郎の「草原の記」の文庫本がある。
この文庫本は、98年の夏にモンゴルで出会った旅行者から譲り受けたものだ。
モンゴル滞在の間、活字に飢えていた僕は幾度となくこの文庫本を読み返した。
先日、久しぶりにこの本を手に取った。
裏表紙に、「始発、石垣島○○○」と記してあった。
その場所は、僕が現在暮らしている石垣の家から歩いて僅か5分の距離にある。
不思議だった。
そういえば僕にこの本を譲ってくれた彼は、「この本は読み終わったら他の旅行者に回して下さい」
と言っていた。
でもなぜか僕はモンゴルの旅でずっと一緒だったそのちいさな文庫本が妙に愛しくて、
手放すことができなかった。

そうだったんだ。きっと僕は、この場所に来る運命だったんだ。
思えば僕は以前から沖縄に対して、なにか予感めいたものを感じていた。
「沖縄という場所は、自分にとって特別な場所になるに違いない。」
そんな気持ちが、いつも心のどこかにあった。
それまでも沖縄に行ってみたいという気持ちはあったのだけれど、
いつの日にか沖縄とこの上ないタイミングで出会うような気がして、
その瞬間まで沖縄は大切にとっておこうと思っていたんだ。

「草原の記」の最終章の「帰ってくる話」という話の中に、ある馬の不思議な話がある。
ベトナム戦争当時ソ連に与していたモンゴル人民共和国は、ハノイに多くの馬を送った。
ベトナム戦争が終わった後、その馬がモンゴル高原に帰ってきたのだという。
本来、馬には帰巣本能はないそうなのだが。
ひょっとするとその馬は、野生の嗅覚で自分の帰るべき場所の匂いを嗅ぎ取ったのかもしれない。




2004年1月27日記
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自分の意思で生きるということ

2005年02月15日 | もの申すっ!
近頃、「個性」とか、「癒し」とか、「地球にやさしい」という言葉が世間を闊歩しているように思うが、
それらの言葉たちが声高に叫ばれれば叫ばれる程、空しさを感じてしまう。
「自分だけにしかできない生きかたがしたいんだろう?それなら◯◯◯大学だ」
という大学の広告を目にしたことがあるが、そのコピーを鵜呑みにしてその大学に入る人がいるなら、
それはちょっとコワイ。
大学を頂点とする偏差値至上教育が、現在の没個性の日本社会を生み出した要因ではないのか?
総ての教育者(親も含む)は子供を叱咤するのではなく、自らが犯した罪の深さについて懺悔すべきだ。
自分だけにしかできない生きかたは自分の手で掴み取るもので、他から与えられるものではないはずだ。
誰かの真似をするのなら、それはただの二番煎じに過ぎない。

先日御堂筋線に乗っていたら、スーツを着た若い男のコが連れにボヤいていた。
「あぁ、若い頃に戻りてぇな。今楽しいことなんて全然ないもん」
そう呟く彼の顔に生気はなく、表情も虚ろだ。
彼はこれからも胸の内にその思いを抱えたまま、御堂筋線に揺られ続けてゆくのだろうか。

「自分は金と引き換えに会社に魂を売っている」
と自嘲気味に呟く人がいるが、俺はそんなの絶対に嫌だね。
俺は芸は売っても、魂は売らない。魂だけは譲れない。
「いろいろなものに縛られる」
と言う人がいるが、たいていの場合自らを「縛って」いると思う。
「時代が」とか、「社会が」とか、「会社が」とか、「仕事が」とか、「学校が」とか、「家庭が」
なんて言って他のものの責任にしたがる。
本当は自らをがんじがらめに縛りあげて身動き出来ないようにしているのは、自分自身なのに。
殺し文句は、「君は自由でいいよ」だって?でも、それって何かが違っちゃいない?
自由ってことは、自分の行動に責任が伴うってこと。
自分の意志を貫くってことは、物凄くエネルギーがいることなんだ。
軽々しく、「自由でいいよ」なんて言わないでほしい。

ある企業がCMでホーミーをBGMに使って「地球にやさしい企業」を演出している。
そこには、今まで自分達の利益の為に地球をさんざん破壊してきたことの責任を取らずに、
うやむやにしようとする意図が感じられる。
日々大道芸をしていてつくづく思うのは、日本人で自分の意志で行動する人が本当に少ないということだ。
「テレビに出ているから」とか、「新聞にでているから」という評価のしかたはしても、
自分の思ったことを口にする人が非常に少ない。みんなテレビを信じすぎている。
新聞に書いてあることに疑問を抱かない。「新聞を疑え」という新聞社の広告が存在する事自体が、
その事実を端的に表している。

人々の反応が一律なので、正直言ってとてもやりにくい。
みんな違う人間なんだから、もっと多様な反応があって当然だと思うのだが・・・・・。
他の人が集まってくるまで、遠くで物陰に隠れるようにして見ている人がいる。
自分の意志に自信が持てないのだろうか。人の視線が怖いのだろうか。

「個性」とか、「癒し」とか、「地球にやさしい」などと声高に叫べば叫ぶ程、
それらが皆無に等しいことを自ら露呈してしまう気がするのである。




※2000年9月30日記



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しあわせのかたち

2005年02月10日 | 日々の出来事
この前の土曜日、4年ぶりに会う友達が石垣島に遊びに来た。
再会するのは、かれの結婚披露宴でうたわせてもらって以来のことだ。
もう4年か、あっという間やな。
何軒か一緒に呑み歩いてホテルに送ってゆく道すがら、
公園で缶コーヒーを片手に語り合った。
酔い覚ましに浜のほうから吹いてくる風が気持ちよかった。
そこで語り合ったのは、
『俺たちしあわせだよなー』ってこと。
そんな話をしながら、長淵剛の『乾杯』をふたりで唄ったりした。

しあわせには、人それぞれいろんな形があるんだろうなと思うけれど、
あまり形にとらわれないで、
心の赴くままに生きてゆくのが自分に合っているかなと思っている。
とりたてて飾るところのないようなシンプルな生活の中でも、
ちょっとした出来事にも喜びを感じられるような心を磨いていたいと思うんだ。
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2005年02月10日 | 八重山のいきものたち
昨日の夜、蛍を見た。
電灯のない路傍の草むらに、そっと佇んでいた。
蛍が放つ光りはけっして強くはないけれど、
その輝きは確かにそこにあった。
きれいな水のあるところでしか生きられない蛍の放つ光は、
まるでその存在の繊細さを物語っているかのようだった。
暗闇の静寂の中で思いがけず遭遇した光景に、
しばしの間、我を忘れる。
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