私を忘れないで

2004年10月31日 | 震災について
「頑張れ神戸」

「震災に負けるな」

そんな台詞が、今日もそこかしこに溢れています。
だたあてもなく彷徨うような日々を、私は送っています。
家を焼かれ、家族を亡くし、ついには生きる気力まで失ってしまった。
人様に迷惑を掛けまいと、私なりに今まで精一杯やってきたつもりです。
笑顔を絶やすまいと、作り笑顔で毎日を繕ってきました。
啜り泣きが聞こえないように、嗚咽を押し殺して泣きました。
皆さんの気持ちに応える為に、震災に負けない元気な私を演じてきました。

でもそれも、もうできそうにありません。
私の心は枯れ木のように痩せ細ってしまいました。

いまはただ、泣かせて下さい。
いまはただ、そっとしておいてほしいのです。

もしも私の事を本当に思って下さっているのなら、どうか私の事を静かに見守っていて下さい。
たとえ遠くからでもいい。みつめていてほしいのです。
私のことを、忘れないでほしいのです。


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だめだ、書けねぇ。

2004年10月29日 | 震災について
新潟中越地震のことについて書こうと思っても、書けない。

代わりに、いままで阪神淡路大震災の事について書いた文章へのリンクを張ります。




存在の証 1995年11月記

Where are you going?
  1997年1月17日記

あたりまえのしあわせ 1998年7月3日記

大道芸人論 1999年4月記

沈黙の声 2003年2月5日記

震災は終わったのか  2004年7月22日記
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新潟中越地震に想う

2004年10月26日 | 震災について
新潟中越地震について書こうと思ってパソコンに向かってみたのですが、
いろんな気持ちやいろんな事やいろんな人の顔が次から次へと浮かんできて、
書くことが出来ません。
もう少し冷静になってから加筆したいと思います。





追記:
コメントを頂いた似非紳士さんの記事の意図に賛同し、
似非紳士さんの記事を転載しリンクを張りたいと思います。
貴重な情報を提供してくださり、有難うございました。


被災地への情報提供(情報の不通になっている被災地では些細なことでも情報を求めています)
○新潟中越地区地震緊急掲示板

○新潟中越地方地震情報総合掲示板


現地情報リンク(情報をほしがってる現地の人へ提供する情報の源となり得ます)
○TRUE FEITH:新潟中越地震現地情報リンク


ボランティアの募集(行ける人は是非)
○Bait Assalam:被災者支援、ボランティア参加連絡先

○Hydrangea:義援金の口座番号が決まりました。

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石垣島LIVEのお知らせ

2004年10月23日 | 日々の出来事
演者:「芸人」こと守田光輝(モンゴルのモリンホール(馬頭琴)とホーミー)

とき:10月23日(土)午後8じより

ところ:Cafe TANIWHA(たにふぁ) 石垣市大川188

木戸銭:1500円(1ドリンク付)

お問い合わせ:Cafe TANIWHA(タニファ) でんわ0980-88-6352(日、月休み。11時から23時まで)
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自分の意思で生きるということ 2

2004年10月20日 | もの申すっ!
毎日新聞社説:「新聞週間 情報氾濫の時代だからこそ」を読む。



>だが、そこには落とし穴もある。
 ネット情報を発信する側は都合のよい情報だけを選んで流すことができるし、
 利用者側にはその真偽を確かめる術(すべ)がない。情報は一方的、断片的になりがちだ。


そうだろうか。
ネットに脆弱点が多いことは、誰もが認めることであると思う。
だが、新聞にはネットの脆弱点を補完でき、なおかつ信頼できうる信憑性が果たしてあるのだろうか。

新聞は都合のよい情報だけを選んで流すことをしないのか。
利用者側にはその真偽を確かめる術はあるのか。
情報は一方的、断片的にならないと断言できるのか。

批判をしているにも関わらず、自らが同じ過ちを犯しているのならば、
同じ穴のムジナに過ぎないだろう。
いいや、同じ過ちを犯していることを顕にせずに自らの正当性を主張する
新聞のほうがずっとずっとおかしい。

多メディアの時代、アテネ五輪での日本人選手の活躍や
 米大リーグのイチロー選手の年間安 打新記録達成は、
 テレビなどを通じリアルタイムで知ることができた。
 日々のニュースも、新聞が読者の手に届く前にインターネットで見ることができる。
 しかし、新聞は単なるニュースの伝達だけでなく、
 総覧性、記録性、評論・解説・分析など活字 メディアとしての特性をもっている。


宜野湾の沖縄国際大学で米軍ヘリが墜落炎上した事件についての大手新聞の報道はどうだったのだろうか。
オリンピックの金メダルフィーバーをうまく利用して、事件を煙に巻く感があったのは気のせいだろうか。
国の右傾化に対応して情報操作をするマスメディア。
それはどこか戦時中のマインドコントロールに似たきな臭さを感じる。
大手新聞の大阪支社に勤める知人が、
「震災(阪神淡路大震災)の記事を東京本社に送っても却下されてばかりだ」
と嘆いていたのを書きながら思い出した。

今年の9月11日にノーム・チョムスキーの講演のドキュメンタリーフィルムを見た。
インタビュアーの「現在の日本の情勢についてどう思うか」という質問に対して、チョムスキーは興味深い発言をしていた。

「日本の政府は右傾化の傾向にあるが、市民運動のうねりが強くなってきている」

このような傾向は10年ほど前から顕著に顕れるようになったのだという。
チョムスキーは言語学の大家であり、20年以上前から日本に何度も招かれている。
しかし「飽くなき反抗者」(U2のボノ曰く)として招かれるようになったのは、ここ10年程の話なのだという。


>ネット社会の中で、情報発信者である私たちが最も心がけなければならないのは、
 氾濫(はんらん)する種々雑多な情報を受け止めてその位置づけを行い、
 紙面で立体的に構成し 直す力を養うことだと思う。
 

過去にテレビや新聞や雑誌の取材を受け、画面や紙面には決して映し出されることのない汚い裏の世界を垣間見てきた。
「嘘ばっかりの虚構の世界」
もうそんな眼でしか、マスメディアのことを見られなくなってしまった。
大手新聞の論説委員も有名ニュースキャスターも、あくまで一個人にすぎないのだ。
そんな当たり前のことを当たり前と感じさせることをしないマスメディアは、本当に恐ろしいものであると思う。
情報は多角的な視野で論じられなくてはならない。
最大公約数の論理が必ずしも絶対とは限らない。
マスメディアの発信する情報を鵜呑みにするのではなく、自分なりの意見を持つことは大事なことだ。

個人が自らの意思を発信することのできるツールを手に入れた事に対して、
自らの存在が脅かされることへの恐れを感じている論説委員の心の揺らぎを、この社説から感じた。

「国民の支持率の高い政治家にはろくな人間がいないと」言っていた老政治家がいたよな。
日本の主権は国民にあるんじゃないのかね?
この狸オヤジめらが。





関連記事: 「自分の意思で生きるということ」

トラックバック: この幸福な世界「情報氾濫の時代だからこそ・・・ネットで行かれてはどうでしょうか?」
         夕刊フジBLOG「日本の総理学」
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ブログについて思うこと

2004年10月12日 | もの申すっ!
コメントのつく記事とつかない記事の指向性がはっきりしてきている。
辛辣な内容ばかりで申し訳ないが基本的には仲良しサークルのノリは嫌いなので、今後もこの方向性でいこうと思っている。
批判はいつでも受け付けますよ。ただし、来るなら実名で来なさい。名無しの相手はせえへんよ。

アクセスランキング100位以内のブログを見ると、ランキングを上位に維持するために記事を多く書いているとしか思えないブログをまま見かけるが、記事の内容の質の低下は否めない。
おそらくそのようなスタンスでブログを続けても長続きはしないであろう。質の低い内容の希薄な記事は、忘却されてゆくのも早いだろう。
何事においても言えることだと思うのだが、自分のスタンスで物事に取り組むこと。
それが一番大事なことだし、結果的によい仕事ができるのだ。

俺にはパソコンに向かっているよりも面白いことがぎょうさんあるので、ブログはそれらを記録して補完するものでしかない。
あくまでブログは目的ではなく手段のひとつに過ぎないのだ。





追記:(10月14日)
gooスタッフブログによると、


システム不安定の解消のため調査/対策を行った結果、問題を悪化させている原因のひとつとして、
閲覧数獲得を目的としたであろう短時間に集中的なツール/スクリプトなどによるアクセスが多数あることが分かっています。
本件に関して、スタッフでも連日議論をおこなってきましたが、アクセスランキングの仕様を変更させていただこうと考えております。
具体的には、現在の純粋な閲覧数ランキングではなく、各ブログにアクセスされた接続元数(IPアドレス)をベースにしたランキングに変更するものです。


のだそうである。
たとえ意図的にランキングを上位に操作したとしても内容の伴わないものであれば一目瞭然であると思うし、それは自ら恥を晒すようなものだ。
さながらアクセスランキングに捕われた奴隷のようで、そのような輩に対して哀れみの感情すら抱いてしまうのである。

コメント (8)
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昼下がりのひととき

2004年10月11日 | 八重山のいきものたち
石垣市の「市の蝶」、オオゴマダラ(大胡麻斑蝶)。
白とピンクの花は何という名前なのだろう。
ちいさくて可愛い花。




追記:花の名前は「ランタナ」。
   またの名を「七変化」と云う。
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綺麗だよな

2004年10月10日 | 八重山の風景
俺は夕焼けよりも、朝焼けが好きなんだ。

沈みゆくものよりも、昇りゆくものに。

黄昏よりも、躍動に心惹かれるのさ。

ともかく理屈はどうでもいい。

とにかく朝日は美しい。
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移ろいゆくこの時代

2004年10月10日 | 随想
海人のおじぃは魚を根こそぎ獲り尽くし、
「俺の通ったあとには、一匹の魚も残っちゃいない」と言った。

海人のおじぃは海に廃オイルを捨て、その上に合成液体洗剤をぶちまけた。
「これできれいになった」と言った。

モンゴルの遊牧民は草原にプラスチックをを捨てた。
「大丈夫。雪が解けて春になれば、全部きれいになるさ」と言った。

移ろいゆくこの時代。
先人の意思を受け継いで生きる人々は、
その純朴な心で、海に合成洗剤をぶちまけ草原にプラスチックを捨てる。
胸中になんの疑問も抱くことはなく。

先人から脈々と受け継がれてきた、かけがえのないこの自然。
失われゆくこの自然。

減ってゆく魚たち。
沙漠化してゆく草原よ。

なにかとても、哀しくはないか。
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星の降る島

2004年10月09日 | 八重山の風景
まるで星が降ってくるようだ

流れ星が光るのを見たんだ

どんな願い事をしようか

うまく思い浮かばない

こんな綺麗な星空の下で暮らす事が

願い事だったのかもしれないなあ
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草原の月

2004年10月01日 | 随想
窓の外は深い闇だ。この街には電気がない。
いま、蝋燭の灯でこの日記を書いている。
これだけの深い闇が存在することを、
こんなにも蝋燭の灯が優しいものだということを、
僕はこの歳になって初めて知った。
この深い闇の中の唯一の光源は、月である。
モンゴルの月は日本のそれとは違い、
まるで月自身が光体ではないのだろうかと思ってしまうほどの輝きを放つ。
月明かりで影ができるほどの輝き。
「とても、綺麗だ」
素直にそう思える自分が好きになれた。
天に近い草の海にぽっかりと浮かぶ小舟のような街で、
心地よい浮遊感に包まれながら、
僕は眠りの森の奥深くへと沈んでゆく。 




1998年8月5日深夜3時モンゴル国ホブト県ホブト市、
エルデネさんのおうちにて記す。
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