哲学的な何か、あと心の病とか

『人生とは何か、考えるほどにわからない。というのは実は正確ではない。わからないということが、わかるのである。』池田晶子

オリンピック観戦

2014年02月19日 | 哲学・心の病
『オリンピック選手というのは自分ではないが、なぜ人は他人の勝ち負けを、我が事のように喜んだり悔しがったりしているのであろうか。
言うまでもない、それが自分の国の選手だからである。
自分の国の選手だから人は応援するのだから、人々の意識は国同士の勝敗にある。
だから、国家と国旗なのである。
他の国と争って勝つことがオリンピックの精神なのだから、これはその意味では戦争の精神である。
戦争の精神によって、なんで平和の祭典なのだろうか。
要するにあれは代理戦争なのである。』

これは、池田晶子さんの意見であるが、グローバル化が進んでいる現在の日本人は、彼女がいうほど日本人選手のみの勝敗にこだわってオリンピックを観戦しているのだろうか?

少なくとも、私は、そうではない。
私は、日本人選手の勝敗よりも、どこの国の選手であろうと、その選手のパフォーマンスや言動によって感動している。

たとえば、他国の記者たちは葛西選手のことを尊敬をもって「レジェンド」と讃えているようだが、私は、そう讃えられる葛西選手の人柄にも感動するが、紳士的にそう讃える他国の記者たちにも感動する。

また、フィギアの団体戦では、他国のチームの選手たちが、ミスをしてうなだれている同じチームの選手を励ましている姿に、私は感動する。

まだまだ他にもあるが、私には、金メダル獲得や国旗掲揚のセレモニーは、それらの感動に比べたら、 遥かに霞んで見え、それらの感動の方が輝いて見える。