カディスの緑の風

スペイン、アンダルシアのカディス県在住です。

現在は日本の古い映画にはまっています。

ドキュメンタリー映画『大いなる沈黙へ』

2015-08-19 10:59:31 | 映画



先月7月上旬から酷暑の日々が続き、あまりの暑さにいつもはつけっぱなしの

ラジオの音もわずらわしくなって、スイッチを切り、テレビもほとんど見ず、

ネットで2時間ほど番組を見るだけで、あとは静かな生活を送って

ひと月以上過ぎた。


もちろん犬や猫もいるし、夏休みで、近所の子供たちの遊び声などは

響いてくるが、あとは、わたし一人の生活音が耳にはいるだけの

静寂な日々が続いている。これがかなり心地よいのである。




そんな折、偶然に知ったのが、この2005年公開のドキュメンタリー映画、

Into Great Silence (邦題『大いなる沈黙へ』)である。

日本では昨年2014年夏に、岩波ホールで公開されたようである。

英国アマゾンからDVDを取り寄せた。

セリフはほとんどないが、聖書からの引用や、わずかな会話などは

フランス語で、英語の字幕がでるだけ。






場所はフランスのアルプス地方、グルノーブルの近くにある

グランド・シャルトルーズ修道院において集団生活をしている

カルトジオ会修道士たちの模様を、映画にしたもので、

監督はドイツ人のフィリップ・グレーニング。監督ただ一人、

修道士たちと生活を共にしながら撮影した修道院の日々をまとめた

2時間40分以上もある長編映画である。

監督が修道院に撮影の打診をしたのが1984年、

修道院からの回答は、いまだ時期尚早であるから、10年ほど待ってくれ、

とのことであった。それがようやく16年たって、修道院から、

いまだ撮影に興味があるか?と監督へ連絡がはいったという。

準備に2年、撮影に1年、編集に2年かけて、2005年いよいよ公開された、

という、なんとも気の長いお話である。


修道院からは、撮影にあたって、監督一人だけで撮影、録音すること、

ナレーションも音楽もつけないこと、そしてすべて自然光で撮影すること、

という条件が付けられたが、監督自身、その三点を望んでいたから

なんの問題もなかった、という。




さて、カルトジオ会といえば、スペイン語ではカルトゥハ、へレスにも由緒ある

カルトゥハ修道院があったが、今は閉鎖され、その建物は数年前から

修道女の修道院として使用されている。


このへレスのカルトゥハ修道院で、16世紀の画家のスルバランが

やはり修道士とともに生活しながら描いた修道士たちの絵が

カディスの博物館に展示されているし、

また修道士たちはカルトゥハの純血種の馬たちの繁殖、飼育を500年以上も

続け、今は国営になっているそうだが、美しいカルトゥハの馬たちに

魅せられたわたしとしては、修道院の生活に大いなる興味があったので

期待してこの長い映画を見る。



映画は、まず、薄暗闇の中でひざまづいて祈祷する、

若い修道士の横顔を映し出す。

画質が粗いのは、照明を使用せず、自然光で撮影しているからである。

静止画か、と疑うほど、長いショットだが、いきなり修道士は祈祷を中断して、

そばにある鉄製の薪ストーブの煙突にあるちいさなレバーを動かす。

温度調節のためのようだ。そしてまた彼は祈祷に戻る。

ナレーションも音楽もいっさいなし。薪が燃える音だけがきこえてくる。


修道士の服は、まさにスルバランの絵にでてくるものと

そっくり同じデザインの、頭巾がついたフランネルのような生地の

白い僧服である。




静寂が鐘の音で突然破られ、画面は礼拝堂へと移る。

礼拝のために集まる修道士たちの足音は、

まさに男の人のドタドタと歩いてくる音だ。

階段を足早にかけおりてくるような音、衣擦れの音、

咳払い、しかし人声は一切しない。




こうして沈黙の中の修道院の生活が少しずつ

明らかにされていく。


雪煙のなかに次第に浮かび上がる堂々たる修道院の建物。


夜、くろぐろとたたずむ修道院の建物の向こうにみえるアルプスの山々、

早回しの映像で、暗い空を勢いよく動き回る雲の合間から、

きらめく星の群れがすいすいと流れ去っていく。



そして雪。あまりの静寂で、深々と降る雪の積もる音までが

聞こえてくるほどだ。


鐘の音、足音…。


裁縫室では年配の修道士が生地をひろげて寸法を測り、

裁断している。

そばにある箱には使い古した白いボタンがたくさん入っている。

修道士が見ているメモには、新しい僧服の寸法が書いてある。




さて、出来上がった僧服を着て、若い僧侶志願者二人が

新たに、修道士たちに迎え入れられる。

一人はおそらくセネガル出身だろう、黒人である。

もう一人の顔ははっきりしないが、韓国人らしき東洋人。


―――私たちはあなた方を喜んで迎えよう。しかしあなた方には

いつでもこの修道院から去っていく権利がある。そして

私たちはもしあなた方がこの修道院にふさわしくない、と

判断した場合には、あなた方を拒否する権利があります。


二人はこう院長から言われる。何事も契約の精神である。



このあと、カメラは主にセネガルの黒人の若者を追っていく。


この映画は実に巧みに編集されていて、映画は冬から

始まり、季節が移って春、そして夏をすぎて、また冬にもどる、

という構成で、特別なストーリーはなく、自然の移り変わりや、

礼拝堂でのミサ、そして、一人一人の修道士の個室の様子が

断片的に映し出されるなか、セネガルの若者が修道士としての

修練に励む姿が挿入されて、映画の流れをつないでいる。


厨房で食事を作る修道士、長い廊下を大きな台車に食事を乗せて、

各僧房に配って歩く修道士の姿など

見ている方は、その映像から何をしているのかだけを

事実として知らされる。


驚いたのは、食事はそれぞれの僧房の、鍵のついた小窓から差し入れられ、

修道士たちは自分の僧房で一人で黙って食事をするのである。

ステンレス製の容器に入ったシチュー、リンゴやナシなどの果物、

そして大きなパンの塊。ときにはチーズ、サラダ、など。



粗末なスプーンとフォーク、パンや果物を切るためのナイフ、

食事のあとは、汲み置きした水をほんの少しだけ使って

それらを洗ってきれいにする。


映画を見ていくうちにしだいに明らかになっていくのだが、

カルトゥジオ修道院では、月曜日から土曜日までは個々の僧房で食事をし、

日曜日の昼食、つまり正餐のみ、食堂に集まって、修道士全員で

食事をすることが許されている。

食事の間も沈黙、ひときわ高い小さな壇上にあがった一人の修道士が

修道院の規律を読み上げる声と、ひたすら食事をする音が響くだけである。


・・・ 日曜日には一つの家族として、食堂でみなで正餐をいただく。

そしてそのあとの午後の4時間は戸外に出て、歓談などの

リクリエーションが許されている。

必要とあらば、村や町まで散歩にでてもよいが、世俗の家には決して

足を踏み入れてはならない・・・、そんな規律が読み上げられる。



さて、日曜日の食事の前、修道士たちが列を作って歩きながら、食堂の

入り口の前にある石でできた水槽からちょろちょろと流れる水にちょっと

手を触れて濡らし、壁につる下がっている、ふんどしのように

長い白い布巾で手をぬぐい、整然と食堂に入っていくシーンがある。


これで手を洗った、ということになるらしい。

食事のあと、陽光のまばゆい外に出て、木々に囲まれ、鳥たちの声が

こだまする丘の中腹の庭で修道士たちが歓談している。


―――食事の前に手を洗うことは果たして必要だろうか。

一人の修道士が尋ねる。

―――何の意味もなさない習慣は排除してもよいのではないか。



別の修道士がいう。

―――これは、手を洗う、という象徴にすぎないのだ、象徴なのであるから、

    その意味を議論する必要はない。



―――わたしの場合、問題なのは、いつも手を洗う前に、手を汚しておくことを

    忘れてしまうことなのだ。


と誰かが言って、みなが声をたてて笑うのである。



手を汚しておけば、手を洗うという行為に意味がでる、

というわけである。まるで、告解をするために、事前に

なにか悪いことを一つしておく、という論理と同じではないか。


そのあと、草原を歩いていく修道士たちの声が

次第に遠のいていくのだが、誰かが「明日は何時に発つのかね?」

ときいて、「12時きっかりに」という答え、「どこまで飛ぶんだ?」

「ソウルまで」という会話がきこえる。


世俗から切り離された沈黙の生活をしている修道士たちでも、

会議かなにかだろうか、やはり飛行機で旅することもあるのだろう。


さて、修道院の日々の務めで最も重要なのは、深夜の礼拝である。

礼拝は毎日午前0時から午前3時ごろまで行われる。


真っ暗な礼拝堂の中に、赤い蝋燭の明かりだけが見える。

鐘が鳴り続ける。足音が激しく聞こえて、修道士たちが席につく。


小さなライトが点灯し、聖歌本や聖書が照らし出される。

修道士たちはみな白い僧服の頭巾をかぶっている。


鐘の音がやみ、アカペラで響いてくるグレゴリオ聖歌は、抑揚のない

単調な旋律のラテン語の祈りである。


そして一人の修道士が聖書からの引用をフランス語で高らかに読み上げるが、

やはり抑揚のない読み方なので、普通の話し言葉のフランス語とは

まるで異なり、荘厳で神秘的である。



この真夜中の礼拝のために、修道士たちは19:30には就寝、

そして23:30に起きて、長い礼拝を行い、03:00過ぎに

再び就寝。朝は06:30起床、という、分断された睡眠をとる。


礼拝は真夜中と午前中の二回、そのあとの時間は

それぞれ本を読んだり、あるいは肉体労働をするが、

一日に7回の祈祷の時間には鐘がなり、何をしていても、

地べたにひれ伏して祈祷を捧げる。




早春、雪に覆われた庭の雪かきをして苗床をきれいにし、

春の種まきの準備をする修道士、

薪をのこぎりで切り、斧で割る重労働に励む若い修道士。

雑然といろいろなものが置かれた狭い事務室のデスクで、

山のように積まれた書類の中に埋もれるようにして

古いラップトップパソコンを開き、数々の請求書を整理している

年配の修道士。

自室で、グレゴリオ聖歌の譜面を見ながら、小型の電動キーボードで

旋律を弾いて練習する修道士…。

みなさまざまなことをしているのだが、いずれも一人での

作業で、沈黙のままである。



ほほえましいのは、ある年配の修道士が納屋に住む

10匹ほどの猫たちにえさをやりに行く光景である。

猫たちに話しかけ、納屋においてあるクマのぬいぐるみで

猫と遊ぼうとするのだが、猫たちはさっさと逃げてしまう。



散髪室では定期的に修道士たちの剃髪が行われる。

それも年老いた修道士が、あまり切れのよくなさそうな

電動バリカンで乱暴に髪をそっていくのだ。


しかし何をするにも、長い白い僧服を着たままだ。

僧服の下はダンガリーシャツとジーンズのようなカジュアルな格好。

床まである長い裾の、それも重そうな長袖の僧服を着たままの作業は

さぞたいへんだろうと思う。


毎日が同じことの繰り返し。起床、ミサ、祈祷、日常の作業、

そして真夜中のミサ、日曜日だけゆるされたおしゃべりと娯楽の時間…。



簡素な僧房には押入れのような中にある粗末な寝台。

質素な祈祷台とベンチ、木のテーブルと椅子、書棚、

鉄製の小さなストーブ。










         主よ、あなたは私を惑わしました、それで

         私はあなたに惑わされるままにしました。

                       (エレミヤ書20,7)



         だれでも、自分の持っているものすべてを捨てずには、

         わたしの弟子になることはできない。

                        (ルカの福音書14,33)








映画では聖書の数章が繰り返し画面に出る。

一番多く引用され、何度も画面に出るのは主にこの二か所である。

(フランス語での引用と英語の字幕からの拙訳)


繰り返し繰り返し、この言葉が画面にでてくる、まるで単調な生活を

象徴するかのように。




場面の区切りで、数人ずつ、修道士たちの顔の大写しが

何度か挿入されている。



カメラを直視することに慣れていない修道士たちの

どこかとまどったような緊張した表情。



年配の修道士の中に、ひとり、盲目の老人がいる。

この人だけは神について自分の言葉で話している。


長くなってしまった。

この盲目の修道士について、また、映画の中で、

印象深かった場面については、

また改めて記事にしたい。

長々と読んでくださってありがとうございました。












『大いなる沈黙へ』オフィシャル・サイトはこちら↓

http://www.ooinaru-chinmoku.jp/about.html




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