〇第五章 「カルマをこえる道」について。
カルマについて述べたように、人間存在というのは、それ自身では存在しえない。他の存在と相互依存関係においてのみ自己を保ちうるもの、自分だけでは永遠に存在することはできないものである。ということ。自分だけが健全で、不自由なく、満足して生きていきたい、しかも永遠に生きたいと思うところに人間の無明があり、この無明が人間を苦しめたり、喜ばせたりする。ということでした・・・・。
この無明から覚めて、人間は、この世であろうと彼の世であろうと無自性で、他と相互依存なしには生きていけない無情のものだ、消滅するものだという、人間存在についての根本的理解に徹することができれば、無自性で、他との相互依存において因果関係(カルマ)をつくり、その因果関係によって次の在り方を決められる人間存在、すなわちカルマの内にある人間存在から離れて、自由に自分を眺めることができる。これが、カルマの内で存在する人間から解脱する第一歩である。
少なくとも人間存在の無自性を悟ることは、カルマを超える第一歩であるが、それだけではまだ心の悟りに終わる危険がある。というのは、人間は身体をもって行為をするものだからである。人間は、心と身体からなる一全体である。この全体が、カルマの世界から抜け出ることが肝心である。
そのためには超作がある。
その超作という言葉を、私ははじめて耳にしました。その、超作とは何か、本山博先生が教えてくれたのです。
ある行為をすると、それを原因として結果が生じる。その結果を求めて行為をするのが、普通の人間の行為である。また、行為そのものも、自分がその行為をしている、つまり自分が行為の主体であると思って行為をする。
このような行為は、それを行えば行うほど、自分という存在、他と違う自分という人間存在をつくり、保持することになる。
行為の結果を求めて行為をするとき、常に行為の果を求め、それを得よう、保持しようとする自分がある。このような、自分がする行為、その果を求める自分がある行為は、行為をすればするほど、行為をする自分と、果を求め、果を保持しようとする自分が強化、保持される。
このような自分こそ、行為と、それを原因とする果という因果関係、カルマの法則の真只中で働き、カルマの世界におちた自分である。
これに反し、行為をするとき、「自分がするのでなく、自分が生きて行為できるのは、カルマをこえた神の力によって生きているのであり、行為できるのだ。一切のものは、これらすべてを支え、生かし、動かし、宇宙を経綸している神の働きによって、互いに作用し合ってその存在を保っているのだ」という自覚の下に、「自分が行為をするのではなく、神が行為をさせてくださるのだから、自分は行為を一生けんめいするだけでよい。行為の結果も、自分が生ぜしめるのではなく、神が生ぜしめるのであるから、その結果に執われず、どのような結果が生じようと、すなわち自分にとって悪い結果であろうと、よい結果であろうと、同様に神の恵みとして受け入れよう」という心で行為をすると、行為する毎に、行為をする自分を捨てることができる。これが超作である。
超作によって、カルマの因果の法則の下で働く自分を捨て、人間のカルマをこえた世界に飛躍する準備が着々と進むことになる。
超作は、口で言うのは易しい。行うことは難しい。しかし、一日に一つのことでもいいから、超作をするように心掛けたら、必ず、カルマの内であくせくと働く人間を超えることができる。
そう、超作を行い、瞑想等のヨガ行によって、他と区別される自分が次第に浄化され、否定されてくると、種々の変化が心身に生じて来るのです。物理的次元の心身に由来する欲望や感覚、身体的機能がコントロールされるようになる。たとえば、性欲や食欲がコントロールされ、それから自由となる。また、視覚、聴覚、触角、味覚、臭覚等の感覚が鋭くなる。しかも、それらの感覚をコントロールし、止め、消すこともできる。
このような現象は、超作やヨガ行によって物理的次元の自己を浄化し、否定できた、すなわちそれが自由になったことを示す。超作とヨガ行をさらに続けてゆくと、アストラル次元の自己も浄化され、否定される。それから自由になる。すると、感情や想念をコントロールできる。それに執われなくなる。感情や想像力が豊になる。
人間存在の最も深層にあり、個としての人間存在の原因であるカラーナ次元の心身の浄化と否定が、さらに超作とヨガ行を続けることによって可能となる。カラーナ(アラヤ)の次元をこえることは、容易にできない。しかし何生も再生を繰り返して超作、ヨガ行等を怠らなければ、必ず成就される。
超作とヨガ行を何生も続けると次第にカラーナの身心も浄化され、否定されてくるが、カラーナの身心がまだ完全に浄化、否定されていない時は、この世でする行為、アストラルの霊界でする行為の果は、カラーナの身心のチャクラに種子として残る。ただ、カラーナの身心がたとえ不完全にであってもまだ浄化されるに至っていない人間では、カラーナに貯えられた種子は、この世か霊界で発現して働いて初めて解けるのであり、そしてそれが解ける過程でその人間の行なう行為が原因となってその次のカルマが生じるのであるが、これに対し、何生もの超作の結果、完全にではないがカラーナ身心が浄化され、否定されてくると、そこに貯えられる種子は発現して働かなくても、超作やヨガ行によって、種子のままで消滅するに至る。
このようにして、個人がカルマの世界に生まれ変わり再生する種子は次第に解消して、ついに一人の人間存在が、カラーナをこえた世界、純粋精神の世界に、神の力によって飛躍させられることになる。ここで、一つの解脱が完成する。
この、カラーナをこえた世界、神々の世界に飛躍した一つの神は、もはや人間存在のカルマに縛られることはない。
・『カルマと再生』は、昭和62年10月発行とあり、1987年。自分が田舎に帰って来て何年かたった頃で、まだまだ自分自身の心が不安定の時でした。それから、30年はたち、こうして改めて手にして、少しは超作が出来るようになったかなと思うとともに、あと幾度再生すれば、本山先生のような霊覚者になれるのかなと・・・・。