不思議活性

一冊の本 カルマと再生 1



本山博著『カルマと再生』 を読んで。 

 人間はどうして再生するのだろうか。この世は、自分のした行為を原因として、次の自分の在り方を結果としてもつ因果法則、カルマの法則で成り立っているといいます。著名な超心理学者であった本山博先生は、この本を読まれた読者が、死後の世界を信じ、現実をどう生きるべきか、霊的成長を遂げるにはどうしたらよいかを真剣に考えてくださるならば、著者の喜びとするところである。と。
 アストラルの世界とか、アストラル界をこえたカラーナ界などという言葉などが出てきて、難しく思われるかも知れませんが、死後の世界と再生について真面目に知りたいと思う人にお勧めの一冊です。
 以下、本山博著『カルマと再生』より、紹介です。

〇第二章 「再生の目的と再生の必要性」より。

 人間が再生するのは、前世のカルマ(業)を解き、霊的に成長するためと思われる。
 霊界とこの世との著しい相違は、心と物との支配関係である。普通の人が入ってゆく死後の世界(アストラル次元の世界)では、心は感情とか想念とかが主として働く。ところが霊界の物質は、その想念のとおりに、想念の力、心の力によって容易に形成されるのである。従って、ある想念や感情に執われていると、たとえば肺がんで苦しんで死んだ人が、死んだことの自覚もなく、肺がんの苦しみを想念として死後ももち続けていると、自分の物理的次元の肉体はもうなくなり、従ってその肺がんももうなくなっているにもかかわらず、自分のアストラル体(微細身)に肺がんを想念によって作り出し、苦しむこととなる。
 このような想念におちた霊は、周囲からの呼びかけ、交渉が心に届かず、自分のまわりに暗い空気を形成して、独りでその中に閉じこもっている場合が多い。特に、戦場で悲惨な死に方をした兵士や武士の霊は、恐怖心と逃げ隠れたい気持ちに支配されて、何百年もの間、自らの想念と心の状態で形成した、薄暗い洞窟ようの穴の中に身をひそめて、じっとうずくまっているのがよく霊視される。
  従って、霊界、特に死の自覚がない霊、ある想念や感情に執われている霊が住んでいるアストラルの霊界では、想念の通りに環境やアストラル体が形成されるために、想念と、それが作った世界から抜け出すことがむずかしい。そのような執われの状態にある霊を救うには、子孫や友人たちがその霊のために神に祈り、神の救いの手が霊に差し伸べられ、その執われの状態から、より自由な、自分についての自覚のできる状態に引き上げていただくことが、非常に重要である。

 上述のようなアストラル界に較べて、この世は、心と物との支配関係が大いに異なる。私達が心で「スプーンよ、動け」と思ってみたところで、スプーンはびくとも動かないし、病気を治したいと思っても、思っただけではどうにもならない。つまりこの世では、心の物に対する支配力は、アストラル界のそれに比べて非常に弱い。私たちが物を支配しようとする時は、感覚と心によって物を認識し、手足や道具を使ってはじめてそれらの働きをコントロールし、状態を変えることができる。しかし、アストラル界に較べて、物は心からある程度の独立性をもっているように思われる。
 従って、心がある想いに執われていても、身体が空腹を訴えると、心もある想いへの執われの状態から目が覚めて、身体の空腹を充たす行為をする。人から諭されると、それを聞いて、心を改めることもできる。

 このように、この世では、物の力、身体の力がアストラル界におけるよりも強いから、身体からの働きかけ、物からの働きかけ、感覚を通じての他人の働きかけによって、ある想いに執われている自分を反省し、それから抜け出て自由になれる機会が与えられる。
 そういう意味で、強度ではなく、弱度の執われの状態にある心、人間にとっては、自分についての自覚をもち、霊的成長をするには、アストラルの霊界よりもこの世の方がはるかに好都合な所である。この世は、アストラル界にいるよりも霊的成長がしやすいようにと、神様がつくって下さった所である。
 別の観点からみると、アストラル界をこえたカラーナ界、さらにカラーナ界をこえたプルシャの世界では、精神面での霊的成長や進化は、それぞれの世界での修行によって速い。しかし、精神的世界に安住する傾向がある。これに対し、心と対立して独立性をもつ物をも包括して、物にも精神にもなりうる絶対の解脱の境に達するための修行は、むしろ物の力が強いこの世の方が、適当であるように思われる。
 上述の二つの意味で、この世は、霊的修行、霊的成長の場であるように思われる。霊がこの世へ再生するのは、神の、霊界、神界をくるめた宇宙の経綸に沿って行われる、霊的成長を目的とする現象であると思われる。ここに、再生の目的と必然性があるように思われる。

〇第三章 「カルマについて」より。

 人間存在というのは、それ自身では存在しえない。他の存在と相互依存関係においてのみ自己を保ちうるもの、自分だけでは永遠に存在することはできないものである。これを仏教では無自性のものという。こういうはかない自分をいつまでも持ち続けようとする、あるいは永遠に自ら存在しうるものと考えることを、人間存在についての真理を知らない、無明、無知という。
 この無明によって、転変極まりない自分の存在をいつまでも保ち続けようと意志し、保持する限り、因果の法則、カルマの法則によって成り立つこの世とあの世の間を輪廻転生することになる。従って、カルマをつくる最大の原因は、無明であると言える。

 たとえば、音楽が好きで音楽家になりたいという場合、音楽家になりたいという意志、これが意、つまり心の行為である。これが源となって、両親や兄弟に音楽家になりたいと伝える。これが口の行為である。次に、音楽を、ピアノを弾いたり、笛を吹いたりして、手足、身体を使って演奏する。これが身体の行為である。
 身・口・意の行為の結果、いい音楽家になれた、たくさんの人々を喜ばすことができた、そして社会的地位もでき、十分な報酬を得て、衣食住にも満足し、心も満足し、安定したとすれば、身体的にも精神的にもいい結果を得たことになろう。
 しかし、このようにすべての事がうまく運ぶとはかぎらないのが世の常である。個人の能力の大小、家の事情、対人関係、社会環境、世界の動き、地球の自然現象の変化等々がすべて相互作用しつつ、一人一人の人間が育ってゆくのであるから、能力は十分にあっても、親の仕送りが続かなければ学校を卒業できない。学校を卒業し、社会に出ても、軍国主義の時代になって、自分の好む領域の仕事ができなくなった、あるいは大きな地震がきて、国の経済が危うくなり、音楽どころではなくなったというような種々の要素が働いて、自分の音楽家としての活動が十分にできなくなると、心に不満が生じたり、この音楽だけはぜひやり遂げたいという執着が生じたりして、次第に心は、不安定な状態、ある事に対する執われの状態に落ちてゆく場合が多い。この不安定な、あるものへの執われの心の状態が、いわゆる根深いカルマ、業をつくる原因となる。

 そして、執われの状態として。

 人間は食べることによってのみ自己を保持し、生殖によってのみ種を保存しうる。従ってこの二つのことを全うしようとする本能的欲望は非常に強い。
 次に、人間がよく執われの状態に陥るものに、感情や想念がある。他人に自分の自尊心を傷つけられるようなことを言われると、誰でも腹がたつが、人によっては、その怒りに執われて心の安定を欠き、それが長く続くことがある。これも一つの執われの状態である。
 また、想念も、人間の心を執われの状態に追い込む厄介なものである。想像力がよく働きつつ、しかも自分の想像したイメージを外界と接触せしめ、それが正しい考えであり、現実と一致していることを確かめられる場合は、その人は空想に陥らず、想念に陥らない健全な心の持ち主である。しかし、想念の世界が主観的な空想にすぎないことを忘れて、現実の外界との区別がつかなくなって、「主観的想念=外界の現実」というふうに思い、その想念に執着し始めると、それは人間の執われの心の状態でも最も厄介なものの一つとなる。人間は、多かれ少なかれ、自分の想念、観念によって生き、夢を食うものではあるが、外界の現実との関係を忘れた想念におちると、その想念の世界から抜け出すことは困難となる。その意味で、想念に執われた心は、執われの度合いが強いと言えよう。
 
 また愛とは、相手の立場に立って、相手の身体も心もこめた全体の状態を理解し、それが成り立つように、健康な、安定した状態になれるように、心が霊的に成長できるようにと、相手のために自分の最善を尽くすのが愛であろう。その愛の行為には、常に相手への深い愛情があるが、それが相手への執着に転じる場合も多い。
 ここで、愛も、根深いカルマをつくる原因となりうるのである。
 智恵、知識への執着も生じることがある。
 修行者が命をかけて、若い時代の数年を、魂の成長、霊的進化を目指して修行をして、長い年月の後、ようやく一つの悟りの境に達し、そこで深い真理を体得した、そしてこの悟りによって得た真理に基づいて、宇宙や人間を深く洞察し、人々を導いてきたとする。そこへ、自分たちの生きている風土や文化とは全く異質の文化圏の、異質の宗教が入ってきて教えを説きかけると、その修行者の得た悟りが一つの悟りであって、より究極的なものでなかった場合には、自分の悟りで得た智恵と、異質の他宗教の教えや真理との間に矛盾が見いだされ、論争となり、その際、修行者の心に、自分の体得した智恵への固守、執着が生じる場合ある。
 世界に昔からみられる宗教間の争いも、このような、各宗教が自分の真理の正しさを主張し、執着する結果であることが多い。
 科学的真理、人間の知識についても同様である。人間が自分という個的存在を保持しようとする限り、欲望、感情、想念、愛、知識等の、人間の身体や心の働きやその産物への執着はいつでも生じ、人間は容易にその中におちこみ、根深いカルマをつくるものであることがわかる。

・次の第四章は、「カルマの発現および再生の条件とメカニズム」となっているのですが、話は長くなりますので、次回は、第五章 「カルマをこえる道」についてお話ししたいと思います。少し、話が退屈かと思われるかも知れませんが、人間存在という根本的な疑問に光を与えてくれた一冊の本 として了承願います。


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