不思議活性

 千曲川のスケッチ

   『千曲川のスケッチ』


 『千曲川のスケッチ』は、島崎藤村(1872年3月25日~ 1943年8月22日)が明治32年4月に単身小諸へ赴任し、明治38年5月に小諸を辞して三人の子の父として上京するまでの在任中に執筆した散文です。(明治時代は1868年(明治元年9月8日)から1912年(明治45年)7月30日まで)
 今、私が読んでいるのは、明治44年に『中学世界』に連載され、のち「はしがき」をつけて大正元年12月に一本にまとめられたものです。
 私は『千曲川のスケッチ』を読んでいると、私の住んでいるふるさとに関連したことが多く書かれていて、生まれ育ったふるさとの情景に親しみの思いを重ねます。

 幾つかの、作品の紹介です。

  「九月の田圃道」

 傾斜に添うて赤坂(小諸町の一部)の家つづきの見えるところへ出た。
 浅間の山麓にあるこの町々は眠から覚めた時だ。朝餐の煙は何となく湿った空気の中に登りつつある。鶏の声も遠近に聞える。
 熟しかけた稲田の周囲には、豆もさやを垂れていた。稲の中には既に下葉の黄色くなったのも有った。九月も半ば過ぎだ。稲穂はいろいろで、あるものは薄の穂の色に見え、あるものは全く草の色、あるものは紅毛の房を垂れたようであるが、その中で濃い茶褐色のがもちごめを作った田であることは、私にも見分けがつく。
 朝日は谷々へ射して来た。
 田圃道の草露は足を濡らして、かゆい。私はその間を歩き廻って、蟋蟀の啼くのを聞いた。
 この節、浅間は日によって八回も煙を噴くことがある。
「ああ復た浅間が焼ける」と土地の人は言い合うのが癖だ。男や女が仕事しかけた手を休めて、屋外へ出て見るとか、空を仰ぐとかする時は、きっと浅間の方に非常に大きな煙のかたまりが望まれる。そういう時だけ火山の麓に住んでいるような心地を起させる。こういうところに住み慣れたものは、平素は、そんなことも忘れ勝ちに暮している。
 浅間は大きな爆発の為に崩されたような山で、今いう牙歯山がむかしの噴火口の跡であったろうとは、誰しも思うことだ。何か山のかたちに一定した面白味でもあるかと思って来る旅人は、大概失望する。浅間ばかりでなく、蓼科山脈の方を眺めても、何の奇も無い山々ばかりだ。唯、面白いのは山の空気だ。昨日出て見た山と、今日出て見た山とは、殆んど毎日のように変っている。

  「甲州街道」

 小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前にひらけて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間を流れている。
 一体、犀川に合するまでの千曲川は、殆んど船の影を見ない。唯、流れるままに任せてある。この一事だけで、君はあの川の性質と光景とを想像することが出来よう。
 私は、佐久、小県の高い傾斜から主に谷底の方にみおろした千曲川をのみ君に語っていた。今、私達が歩いて行く地勢は、それと趣を異にした河域だ。臼田、野沢の町々を通って、私達は直ぐ河の流に近いところへ出た。
 馬流というところまで岸に添うて遡ると河の勢も確かに一変して見える。その辺には、川上から押流されて来た恐しく大きな石が埋まっている。その間を流れる千曲川は大河というよりもむしろ大きな谿流に近い。この谿流に面した休茶屋には甲州屋としたところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づいた気がする。山を越して入込んで来るという甲州商人の往来するのも見られる。
 馬流の近くで、学生のTが私達の一行に加わった。Tの家は宮司で、街道からすこし離れた幽邃な松原湖の畔にある。Tは私達を待受けていたのだ。
 白楊(どろ)、蘆(あし)、楓(かえで)、漆(うる)し、樺(かば)、楢(なら)などの類が、私達の歩いて行く河岸に生い茂っていた。両岸には、南牧、北牧、相木などの村々を数えることが出来た。水に近く設けた小さな水車小屋も到るところに見られた。八つが岳の山つづきにある赤々とした大くずれの跡、金峯、国師、甲武信、三国の山々、その高く聳えた頂、それから名も知られない山々の遠く近く重なり合った姿が、私達の眺望の中に入った。
 日が傾いて来た。次第に私達は谷深く入ったことを感じた。
 時々私はT君と二人で立止って、川上から川下の方へ流れて行く水を見送った。その方角には、夕日が山から山へ反射して、深い秋らしい空気の中に遠く炭焼のけむりの立登るのも見えた。
 この谷の尽きたところに海の口村がある。何となく川の音も耳について来た。暮れてから、私達はその村へ入った。

  「山上の春」

 貯えた野菜は尽き、葱、馬鈴薯の類まで乏しくなり、そうかと言って新しい野菜が取れるには間があるという頃は、毎朝々々わかめの味噌汁でも吸うより外に仕方の無い時がある。春雨あがりの朝などに、軒づたいに土壁をはう青い煙を眺めると、好い陽気に成って来たとは思うが、食物の乏しいには閉口する。復た油臭い凍豆腐かと思うと、あの黄色いやつが壁に釣されたのを見てもウンザリする。淡雪の後の道をびしょびしょ歩みながら、「草餅はいりませんか」と呼んで来る女の声を聞きつけるのは嬉しい。
 三月の末か四月のはじめあたりに、君の住む都会の方へ出掛けて、それからこの山の上へ引返して来る時ほど気候の相違を感ずるものは無い。東京では桜の時分に、汽車で上州辺を通ると梅が咲いていて、碓氷峠を一つ越せば軽井沢はまだ冬景色だ。私はこの春の遅い山の上を見た眼で、武蔵野の名残を汽車の窓から眺めて来ると、「アア柔かい雨が降るナア」とそう思わない訳には行かない。でも軽井沢ほど小諸は寒くないので、汽車でここへやって来るに随って、枯々な感じの残った田畠の間には勢よく萌え出した麦が見られる。黄に枯れた麦の旧葉と青々とした新しい葉との混ったのも、離れて見るとナカナカ好いものだ。
 四月の十五日頃から、私達は花ざかりの世界をほしいままに楽むことが出来る。それまでこらえていたような梅が一時に開く。梅に続いて直ぐ桜、桜からすもも、あんず、ぐみなどの花が白く私達の周囲に咲き乱れる。台所の戸を開けても庭へ出掛けて行っても花の香気に満ち溢れていないところは無い。懐古園の城址へでも生徒を連れて行って見ると、短いながらに深い春が私達の心を酔うようにさせる……

  「千曲川のスケッチ」奥書として

 このスケッチは長いこと発表しないで置いたものであった。
 
 わたしは七年も山の上で暮した。その間には、小山内薫君、有島生馬君、青木繁君、田山花袋君、それから柳田国男君を馬場裏の家に迎えた日のことも忘れがたい。わたしはよく小諸義塾の鮫島理学士や水彩画家丸山晩霞君と連れ立ち、学校の生徒等と一緒に千曲川の上流から下流の方までも旅行に出掛けた。このスケッチは、いろいろの意味で思い出の多い小諸生活の形見である。

・以上、幾つかの『千曲川のスケッチ』の紹介でしたが、私自身が通った高校は小諸にあり、小海線(山梨県北杜市の小淵沢駅から長野県小諸市の小諸駅までを結び、八ヶ岳東麓の野辺山高原から千曲川に沿って佐久盆地(佐久平)を走る高原鉄道です)での三年間の通学でした。
 坂の町、小諸ですが、『千曲川のスケッチ』には、藤村が暮らした七年程の小諸での様子が細やかに描かれています。
 そして、千曲川スケッチということで、千曲川上流の臼田、南牧などの話もあり、下流にある越後へかけての飯山などの話もあり、興味は尽きません。
 私の暮らすふるさとを描いた散文として、いつまでも傍らにおいて置きたい一冊の本です・・・・。

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