「備後・福山」歴史の街

広島県東部の地域は、古代以降「備後国」と言われていました。その「備後・福山」から郷土の歴史を含めた情報を発信致します。

「新市の文化財」を廻りました

2012-04-29 14:10:21 | 福山歴史研究(文化財と歴史)

 ある会議の終了後、「新市の文化財」を廻る機会に恵まれて、
「新市の文化財」を担当者に連れられて、数名の方達と廻りました。
 その一部ですが、行ったつもりで御覧下さい。


 「新市の文化財」を廻った順序は、
「金名の郷頭(かんなのごーとう)」⇒「尾市一号古墳」⇒「戸手天王社(素盞鳴神社)」
⇒「相方城跡」、途中何ヶ所か廻りましたが省略いたします。

         【金名(かんな)の郷頭(ごーと)】


             (看板標識)


                       (案内板)


            (郷頭の状況)


         (郷頭のやや近景)


            (郷頭のアーチ状況)


                   (郷頭の流入口部分)


                       (郷頭の上流部分)


                (解説風景)

              【尾市一号古墳】


              (開口部の現状)


              (正面の石室)


                (右の石室)


               (左の石室)


       (尾市一号古墳からの眺望:芦浦の集落)

      (尾市一号古墳からの眺望:遠くに常城を遠望)

           (尾市一号古墳からの眺望)

           【戸手天王社(素盞鳴神社)】


               (戸手天王社)


              (相方城の城門)


            (相方城の城門案内板)


              (相方城の城門の蛙股)


           (相方城の城門)


                (城門の軒飾り)


                       (城門の解説風景)

                     【相方城跡】


                     (相方城跡案内板)


               (相方城跡石碑)


              (相方城の石垣)


              (相方城の石垣)


                                (相方城の石垣)


                                (相方城の石垣)


                 (相方城の石垣)


                (相方城の石垣)


           (相方城の城郭部分)


       (相方城の城郭部分へ登る石段)


           (相方城の掘り切り部分)

 地域に点在する文化財は、現地の人により尋ねるのが
一番だと思いました。
 何度も訪ねている様でも見落として見過ごしている事が
多々あります。
 今回は、確実にその場所を尋ねる事が出来ました。
 Kさん大変お世話になりました。
 概略は、以上です。
                   (文責:鳳来)


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2 コメント

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山城 (飛天)
2012-04-29 18:40:00
相方城の門が移築してあるので、当時お城はどうなっていたのか疑問に思い調べていたら、天下を統一した太閤秀吉の”山城廃止令〟によって、せっかく築いた相方城を自ら破壊したと出ていました。・・という事は、全国の山城はこの法律によって無くなってしまったのでしょうか?
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山城の運命は、 (鳳来)
2012-04-30 01:12:27
飛天 さん
信長が築いた「安土城」以降のお城は、
石崖造りに変更され、「山城」はその防御機能が失われて行きます。(鉄砲などの武器により)
平地に石崖を築いた「平城」へと移行して行きます。
相方城や神辺城などの山城は廃城の運命となります。
天下人の威光により、築城も制限されるようになります。(天下人の命令は絶対的な権力なので命令には背けません)
徳川幕府も同じです。
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