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元禄16(1703)年11月23日の午前2時ごろ、マグニチュード(M)7.9~8.2とみられる元禄関東地震が発生した。
大正12(1923)年の関東大震災(M7.9)と同じく、太平洋を北上してくるフィリピン海プレート(岩板)が、関東地方を乗せた北米プレートの下に沈み込み、蓄積した歪(ひず)みエネルギーが爆発的に解放されることで起きたプレート境界型地震だ。
このタイプの巨大地震が起きると、房総半島と三浦半島の先端部が隆起する。房総半島先端の隆起量は、関東大震災では約1.5メートルだったが、元禄関東地震では約5メートルで、元禄の方がはるかに大きかった。同様に、房総半島を襲った津波も元禄の方が巨大だった。
JR外房線の茂原駅から西に約1.4キロの場所に、法華宗本門流大本山の鷲山寺(じゅせんじ)がある。本堂の入り口には、元禄関東地震の津波による犠牲者を供養する石碑が建てられている。
石碑の右面には「元禄16年11月22日の夜中に大地震が発生し、激しい津波のために2150人余りが死亡した。地震津波から50年が過ぎた宝暦3年に51回忌の法要が営まれた」と刻まれている。
犠牲者の総数は、本連載で以前にも紹介したことがあるが、これだけでは被害の様子を把握するのは難しい。今回はこの数字から、この地域の被害がどれほどの規模だったのか、分析してみよう。
石碑の台座には、付近の10村の死者数が刻まれていた。内訳は一松郷中845人、幸治村304人、中里村229人、八斗村70人、五井村8人、古所村272人、剃金村48人、牛込村73人、浜宿村55人、四天木村250人。合計すると2154人となり、石碑右面に刻まれた「二千百五十餘人死亡」とほぼ一致する。
10村のうち、中里村と古所村は当時、多胡(たこ)藩の松平豊前守勝以(まつだいらぶぜんのかみかつゆき)の領地だったため、津波による流失家屋数の記録が残っていた。それによると、中里村では65軒が、古所村では77軒の家屋が流失していた。
これに基づき、流失家屋1軒当たりの死者数を計算してみると、中里村は3.52人、古所村は3.53人となる。当時の生活史からみて1軒当たり4~5人は居住していたはずで、これと実際の死者数との比率を計算すれば、全人口に占める死者の比率が分かる。
1軒当たりの平均居住者を4.5人とした場合、死亡者の比率は両村ともに78%。人口の約8割が死亡するほどの恐ろしい津波だったのである。(つじ・よしのぶ 建築研究所特別客員研究員=歴史地震・津波学)