goo blog サービス終了のお知らせ 

Entrance for Studies in Finance

blog for business studies
http://blog.goo.ne.jp/fu12345

弘明寺(737) Gumyo-ji

2013-10-24 16:14:42 | Memorable Places
 弘明寺は、インドから来日した帰化僧、善無畏師により養老5年721年に開創。その後、天平9年737年に当地を訪れた行基上人(668-749)が当山の霊域を感得して十一面観音像を彫刻安置したものが、現在に伝わる(重要文化財)。これは典型的な鉈彫り像であり古様。観音像が安置されている観音堂は1765年の再建であるが、床板には古い材木がみられる。このほか弘法大師(774-835)作とされる男女の和合の姿をした秘仏、歓喜天が伝わるなど当山の習俗には興味深い点がある。当地が鎌倉の鬼門にあたることから、源頼朝(1147-1199)により源家累代の祈願寺と定められて賑わうようになった。山門にある金剛力士像は仏師運慶(12世紀半ば-1224)が製作したものとされる。その後は北条早雲(1456-1519)によっても保護され、さらに江戸時代にもご朱印状を与えられ寺領を安堵されている。明治に入り、廃仏毀釈の波のなかで住職不在の時期を経験するするも、明治34年に住職を得て再興。横浜市で最も開創の古い寺とされる。交通 京急線弘明寺駅より徒歩2分。
場所:神奈川県横浜市南区。
弘明寺の十一面観音像(せきどよしお)
東京の名所・史跡

豪徳寺仏殿(1676-1677) と そしがや温泉21 

2013-10-24 16:14:18 | Memorable Places
豪徳寺(大渓山豪徳寺 曹洞宗)
世田谷城主吉良政思が亡くなった伯母の菩提のために1480年に建立した弘徳院が始まり。かつては世田谷城内にあったとされる。1584年に臨済宗から曹洞宗に改宗。1590年に小田原北条氏が滅亡すると、吉良氏は命運の尽きたことを悟り世田谷城を自ら破壊した。その後、1633年に彦根藩世田谷領が成立すると弘徳院は井伊家の菩提寺となり、豪徳寺と改称される。1676-77年建立の仏殿、石灯篭、鐘楼などがほぼそのまま残っている。仏殿は重要文化財。仏殿内には、目黒羅漢像の作者松雲元慶(1648-1711)製作の三尊仏。豪徳寺は、井伊直弼(1815-1860)の墓所としても、また直弼が猫に手招きされて落雷を免れた伝承による手招き猫の置物でも有名。交通 小田急線豪徳寺下車乗り換え 東急世田谷線山下より宮の坂下下車3分。東京都世田谷区豪徳寺。

そしがや温泉21
小田急線に戻り祖師谷大蔵駅下車徒歩6分 この風呂屋さんの問題は常に混んでいること。午後2時開店直後がお勧め。小さいけれどプールがある。このプールが使えるサウナプールタオル付き650円がお勧め。営業時間は14:00-26:00。ナトリウム炭酸水素系冷鉱泉 低張性弱アルカリ性冷鉱泉 18.1℃ ph8.3。いわゆる「黒湯」である。

Written by Hiroshi Fukumitsu. You may not copy, reproduce or post without obtaining the prior consent of the author.

東京の名所・史跡
東京の温泉
東京花暦

輪王寺三仏堂(1645)

2013-10-24 07:23:35 | Memorable Places

日光には勝道上人による立木観音の伝承。滋覚大師円仁による輪王寺開創の伝承があり、それに徳川家康の霊廟である東照宮の歴史が重なっている(日光は東照宮と輪王寺が一体混在しているが、歴史や由来からすれば輪王寺の歴史が古い。徳川家の霊廟を祭り徳川の安泰を祈る東照宮より違和感のない宗教性を輪王寺に感じるのは私だけだろうか)。陽明門に代表される日光東照宮の社殿(1636)は、議論はあるにせよ装飾と建築が一体化されている点は注目である。ここで注目したいのは麓にある輪王寺の三仏堂(三仏殿)。これは1645年の徳川家光による改築。間口33.8m、奥行き21.2mの大きな建物である。東日本で最大の木造建築物との言い方がある。しかしたとえば善光寺本堂(長野県長野市 1707築)は間口23.89m、高さ25.82m、奥行き52.67mある。したがって東日本最大は言いすぎではあるが東日本で最大級の木造建築といってよい。
高さ8.5mの阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音を納めている。これらの三仏の成立はこの改築よりは古く伝承の平安期よりはあとと思われるが詳細はわかっていない。東武日光駅よりバスで20分。栃木県日光市。

RINNOJI (English)japan-guide.com

東京の名所・史跡 東京の温泉 東京花暦


大谷観音(平安初期)

2013-10-24 07:23:09 | Memorable Places

弘法大師空海(774-835)が諸国行脚の途中、810年に作ったとの伝承がある千手観音像(平安初期)。このほか出羽湯殿山(出羽湯殿山の開基が古いことは間違いないものの2つの説あり、ひとつは崇峻天皇553?-592 在位587-592が蘇我馬子により暗殺されたあと、その子の蜂子皇子-641?が出羽山中に逃れて開基したとするもの 今一つは空海が開基したというものである)の行者によるものとの伝承もある。大谷寺千手観音。壁面の凝灰岩を土台にして朱や塑土を塗り、最後に金箔を押したもので当初は金色に輝いていたと考えられる。残念ながら江戸時代末に火災に会い、現在その輝きは失われている。洞窟内の壁面には、薬師三尊(平安初期)、釈迦三尊(平安後期)、阿弥陀三尊(鎌倉期)が残される。関東北部にある平安初期の遺構として貴重である。江戸時代に入ると徳川家康の長女、奥平亀姫の援助もあって復興し、大谷寺は上野寛永寺の末寺(天台宗)として繁栄することになった。交通 宇都宮駅よりバス30分。大谷観音下車、徒歩2分。

御来山歓迎
霊場解説

東京の名所・史跡
東京の温泉
東京花暦


武蔵国分寺薬師堂(1335)

2013-10-24 06:44:30 | Memorable Places

735年頃からの疫病(天然痘)の流行の終息を祈って737年に国ごとに釈迦三尊像と大般若経の造写を命ずる詔が出された。740年には七重塔と法華経の造写を命ずる詔が、さらに741年に国分寺建立の詔が出された。これら一連の詔を受けて武蔵の国でも国分寺が造営された。その規模は諸国の国分寺の3倍という突出した大きさであった。七重塔は835年に雷を受けて焼失したが845年に再建され、1333年に分倍河原の合戦で焼失するまで堂塔は健在であったとされる。現在は1335年に新田義貞が寄進した薬師堂(重要文化財 18世紀後半に、国分寺崖線上の高台に移築)に平安末期から鎌倉初期と推定される木造薬師如来坐像を残すだけで礎石を残すのみ。なお現地では白鳳期(7世紀後半)製作と推定され関東最古とされる銅造観音菩薩立像が1982年3月に出土している。これは奇跡的な発見で人々を驚かせた。交通 中央線国分寺駅より徒歩15分。東京都国分寺市西元町。

国分寺かあるいは西国分寺から徒歩圏。近くの「お鷹の道」と「国分寺跡」を組み合わせると変化に富んだ徒歩コースになる。
お鷹の道

東京の名所・史跡
東京の温泉


清水湯 そして 五百羅漢寺から円融寺

2013-10-23 08:29:32 | Memorable Places

武蔵小山温泉清水湯・五百羅漢寺・目黒不動・円融寺
いずれも目黒駅を起点に目黒線(旧目蒲線のうち目黒から田園調布まで)に沿って尋ねることができる。

武蔵小山温泉清水湯 
目黒線で不動前の隣の駅である武蔵小山駅東口から徒歩5分にある温泉銭湯(料金:手拭い持参で450円)。2008年5月にリニューアルオープン。2010年7月より温泉水のナノバブル化。営業12時-24時。泉質:重炭酸ソーダ泉(黒湯)、ナトリウム塩化物強塩温泉。

五百羅漢寺(1695開基 1908現在地に移転)(天恩山羅漢寺 単立宗派)
仏師松雲元慶(1648-1711)は、耶馬溪の羅漢寺で五百羅漢像に出会って感動し羅漢像彫刻を願うようになった。そして江戸中から寄進を受けて1691年から10年の年月をかけて536体の羅漢像を完成させた。その間の1695年には本所深川(現在の墨田区)に土地を得て本山を開基した。1724年には八代将軍徳川吉宗(1684-1751 将軍1716-1745)が参っており、1734年には吉宗は土地(ご朱印地)を与えている。その後の100年あまりの間、羅漢寺は江戸市中最大の禅林としてまた観光地として賑わった。しかし1846年の本所の洪水。さらに1855年に安政の大地震で大きな被害を受けてから寺勢は急速に傾いた。1887年に緑町に移転、つぎに1908年に現在地に移転(これ以降を目黒羅漢寺ともいう)。しかしほどなく関東大震災(1923年)でも被害をこうむり、第二次大戦にかけて経済的に窮迫するに至った。しかし幸い1970年に東京都の重要文化財の指定を受け、1981年には近代的な堂塔を完成している。現在305体の羅漢像が残されている。交通 JR線・東急目黒線など目黒駅より徒歩10分。東京都目黒区下目黒。

目黒不動尊(泰叡山祐天寺 天台宗) 
慈覚大師円仁(794-864)が不動明王を祀って平安初期に開基(天台宗)。関東最古の不動霊場にして、熊本の木原不動尊、千葉の成田不動尊と並ぶ日本三大不動の一つ。なお不動明王は本尊にして秘仏。目黒不動は三代将軍徳川家光が江戸守護のため1634年に伽藍を造営整備してのち、江戸市中からの行楽地として賑わうようになり江戸後期には門前町が発達した(目黒詣で)。目黒不動は谷中の感応寺、湯島天神喜見院と合わせ「江戸三富」と呼ばれる「富くじ」が行われた場所としても知られる。本堂裏手には本尊の本地仏として銅造大日如来像(1683)。それに江戸時代の蘭学者青木昆陽(1698-1769)がある。また境内には思想家、北一輝(1883-1937)の顕彰碑(大川周明書)がひっそりと立っている。目黒の目は馬の意味、黒は畦道を意味するが、近くの「駒場」の地名とともに、これはこの一帯が放牧地だったことを意味する。交通 東急目黒線不動前駅下車、徒歩8分。東京都目黒区下目黒。

円融寺(経王山円融寺 天台宗)
目黒線をさらに一駅進んだ西小山にある古刹。848年に慈覚大師円仁(748-864)により天台宗の寺として開基。法勝寺とも称した。その後、日蓮(1222-1282)の弟子の日源上人により1283年日蓮宗に改宗。法華寺と改名した。世田谷吉良氏からも崇敬を受けた。しかし不受不施の教義を抱えて他宗への攻撃を行うところがあり江戸時代に入ると、基督教と同じとみなされ幕府から弾圧を受けることになった。そのため1698年に天台宗に戻され経王山円融寺と称するようになった。16世紀半ばと推定される仁王門があり、仁王門には鎌倉扇ケ谷法眼作の銘が入った仁王像(1559年製作)がある。仁王門奥には室町初期(14世紀半ば)と推定される釈迦堂。これは東京都23区内最古の木造建築物にして重要文化財。仁王門右手の梵鐘は1643年鋳造である。交通 東急目黒線西小山駅下車。立会緑道沿いに徒歩10分。東京都目黒区碑文谷。

You may not copy, reproduce or post without obtaining the prior consent of the author.

東京案内 東京の温泉
  


大国魂神社と縄文の湯

2013-10-23 08:26:57 | Memorable Places

この神社の縁起は111年に大国魂大神を武蔵国の国魂として国造が祀ったことに始まる。大化の改新(645年)で国府が置かれてからは国司がまつるようになったとされる。府中の名前が示すように古代において、ここは武蔵国の政治の中心だったのではないか。源頼義・義家親子が奥州討伐の折、戦勝を祈願してのち1062年に祈願成就のお礼に欅の苗木を植樹したとされるほか(一帯の欅並木は馬場大門の欅並木として有名)、源氏とのつながりは深く、1186年には頼朝が社殿を造営したとされる。しかし1646年の府中宿の大火で社殿を焼失。現在の本殿は1667年の再建によるもの。平安時代末期の仏像などが残るが社宝の多くはすでに失われているのであろう。京王線府中駅より徒歩2分。東京都府中市宮町。

縄文の湯縄文の湯は府中駅前にできた温泉処。

東京の名所・史跡


ニコライ堂(東京復活大聖堂)とNARU

2013-10-23 08:24:21 | Memorable Places

ロシア工科大学のミハイル・シチャールポフの基本設計。コンドルの監督のもとに1884年に起工。1891年に完工。高さ35m、建坪316坪。日本で最大のビザンチン様式建築物。関東大震災(1923)では内部の多くを火災で焼失したとされる。その後、岡田信一郎(1883-1932)の設計により再建。ニコライの名称は1861年に函館に領事館付き司祭として赴任したニコライ司祭(1838-1912)に由来する。拝観時間は火水木の午後1時から4時。土曜の5時から6時。交通 お茶の水駅下車すぐ。

ニコライ堂のすぐそばには神保町の古本街が広がる。聖橋(ひじりばし)をつかって中央線の線路をわたると湯島聖堂。神田神社もすぐそばにある。神田神社ー湯島聖堂ーニコライ堂と一挙に見て回れるが、聖堂とニコライ堂は内部を開放している時間が違うので、ニコライ堂の内部を参観するときはあえてニコライ堂だけ訪ねるのが賢明。

参観が夜だったら近くにライブのNaruがある。ニコライ堂をみてからライブというのも悪くない。
NARU お茶ノ水駅近くのライブスポット
東京倶楽部 お茶の水と水道橋の中間にあるライブスポット

東京の名所と史跡 


旧岩崎久弥邸(旧岩崎邸庭園)

2013-10-23 08:23:06 | Memorable Places

三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎(1834-1885)の長男である岩崎久弥(1865-1955)の旧宅。洋館と和館を併設する典型的な明治期の大邸宅。洋館は来客用で普段は和館で過ごしたのであろう。1896年の完成当時は敷地1万5000坪に20棟以上の建物があった。和館の設計は岡本春道。洋館の設計はジョサイア・コンドル(1852-1920)。コンドルは1877年に来日して工学大学校教授に就任して西欧式建築教育を日本に伝えただけでなく自ら多くの建物を設計した。著名なものに鹿鳴館(1883 現存せず)があるが、ニコライ堂(1891)、岩崎邸(1896)、古河邸(1917)などが現存している。コンドルの弟子の辰野金吾(1854-1919)が日本銀行(1896)や東京銀行(1914)を設計し、片山東熊(1853-1917)が赤坂離宮(1909)を設計したことからも分かるように、コンドルは日本の近代建築の源流となっている。岩崎邸洋館は、木造2階建て地下室付きで建築面積は160坪あまり。装飾は17世紀ジャコバン様式。全体としてイギリス・ルネサンス様式。外観はアメリカのカントリーハウスのようだとされる。近年まで存在は知られていたが内部の傷みもあり公開されてこなかった。2001年10月から都立公園として公開が始まり、洋館も復元改修を経て2003年4月から公開されるようになった。交通 地下鉄根津駅から徒歩3分。東京都台東区池之端。

旧岩崎邸庭園
旧岩崎邸庭園 東京建築遺産
東京案内 


鳩山一郎旧邸(鳩山会館)

2013-10-23 08:21:28 | Memorable Places

Hatoyama Hall
首相(1954-56)も務めた鳩山一郎(1863-1959)の旧宅。設計は明治生命館(1934完成)の設計で知られる岡田信一郎(1883-1932)で完成は大震災後の1924年。1996年から鳩山会館として公開されている。丘の上に立つ堂々としたイギリス風洋館で第二次大戦前の上流階級の生活を伺うことができる。別名音羽御殿。一郎の父は衆議院議長、早稲田大学総長を歴任した鳩山和夫(1856-1911)。母は共立女子職業学校(現在の共立女子学園)の創立者の一人である鳩山春子(1861-1938)。一郎の長男が鳩山威一郎(1918-1993)。さらにその長男が鳩山由紀夫(1947-)、次男が鳩山邦夫(1948-)と続く。交通 地下鉄江戸川橋から徒歩5分。音羽通りから門を入り坂道を上がる。東京都文京区音羽。

鳩山会館
東京の名所・史跡(このシリーズの目次)
Originally appeared in June 6, 2008.
Corrected and reposted in Oct.9, 2009.

私の東京案内


報徳二宮神社

2013-10-23 08:20:27 | Memorable Places

二宮尊徳(1787-1856)を祭神とする神社で1896年創建。現在の社殿は1909年改築のもの。近くには報徳博物館があり関連資料が展示されている。中堅農家出身の尊徳は、洪水により零落した自分の家の再興を勤勉により果たした。その後、尊徳は小田原藩への献策により、藩内の農村の復興の功績で注目されるようになる。やがてその実績と思想は江戸幕府からも注目されることになり、1842年からは幕府に出仕して農村の復興に尽力した。交通 小田原駅から小田原城内に入り天主右下の坂道を下る。駅から徒歩10分。神奈川県小田原市城内。

尊徳の思想を報徳思想と呼ぶことがある。
大きな目標を達成するため小さなことをコツコツ積み上げる「勤労」
分をわきまえ適量・適度を旨とする「分度」
譲る心や社会への利益還元を説いた「推譲」
(「尊徳の遺伝子で再興 薄利貫き顧客増」『日本経済新聞』2009年2月4日)
東京の名所・史跡


自由学園明日館

2013-10-23 08:18:55 | Memorable Places

羽仁吉一(1880-1995)・もと子(1873-1957)が自由学園創立(1921年4月)にあたり、当時、帝国ホテルを建設するため日本に滞在していた(1917-1922)フランク・ロイド・ライト(1867-1951)に依頼して1921年から1924年までかけて竣工したもの。ライトは途中で帰国したためライトの助手の遠藤新(1889-1951)が設計した部分もある。施工は大成建設の前身である大倉組土木。水平線の強調や幾何学的模様は、プレイリーハウスと呼ばれるライトの初期の意匠を残すものとされる。自由学園が1934年に南沢キャンパス(現東久留米市)に移転したのちは、明日館は卒業生の活動の拠点となった。1997年に重要文化財の指定を受け、修復修理工事を経て2001年11月より公開されるようになった。交通 池袋駅メトロポリタン口から徒歩5分。東京都豊島区西池袋。

自由学園明日館
Frank Lloyd Wright Japan Photo Archiv


山本有三旧邸宅(山本有三記念館)

2013-10-23 08:16:38 | Memorable Places

Yuzo Yamamoto Memorial Museum 
劇作家山本有三(1887-1974)が1936年から1946年まで居住したところで、小説「路傍の石」を執筆した場所(1937-1940)として知られる。この建物は1926年に貿易商静田龍之介によって建設された。設計者は不明である。1936年に山本所有するところとなった。第二次大戦後、占領軍が接収した(1946-53)ため、山本はここを離れ接収解除後も戻らず、1956年に家と土地を東京都に寄付している。これが1985年に三鷹市に移管され、改修整備を経て1996年から記念館として公開されている。暖炉煙突が左右の均衡を破る形で1階部分から立ち上がる外形の荒々しさ。玄関のイングルヌック(暖炉前のくつろげるコーナー)、広々としたドローイングルーム、階段上のステンドグラス、2階居室のウインドチェアー(作り付けの窓際のイス)など各部屋の趣向は興味深い。交通 三鷹駅から玉川上水に沿って徒歩12分。

三鷹市山本有三記念館

東京の名所・旧跡


日本銀行本店旧館

2013-10-23 08:16:10 | Memorable Places

Old Head Office of the Bank of Japan
地上3階地下1階。屋根は鉄板及び銅板葺き。正面に向かって回廊。1階部分は花崗岩。2階と3階は煉瓦造り。外装は石積み。窓は両開きガラス戸欄干付き。ベルギーの中央銀行をモデルに、規則正しく並ぶ窓などのルネッサンス様式を取り入れたネオバロック様式。2階から3階にかえて左右に二対ある巨大な柱や、真中のドームはバロック様式。辰野金吾(1854-1919)に設計。1890年9月に着工。1896年2月に完成。交通 地下鉄三越前下車すぐ。東京都中央区日本橋本石町。

This is 日本銀行(video)
日本銀行本店東京建築遺産

東京の名所・史跡


朝香宮邸(東京都庭園美術館)

2013-10-23 08:14:12 | Memorable Places

Tokyo Metropolitan Art of Museum
1933年に建築された。アールデコ様式邸宅の代表例とされている。アールデコ様式の特徴はニューヨークのクライスラービル(1930)やエンパイヤーステートビル(1931)にも見られる幾何学的装飾。設計は宮内省内匠寮。内装の一部を工芸作家のルネ・ラリック(1860-1945)が担当している。室内にラリックの女神像や香水塔がある。時代の先端の意匠を取り込んだことが伺える。朝香宮(1887-1981)は朝霞市の語源になったことでも知られる皇族だが第二次大戦後は皇籍を離脱。朝香宮邸は第二次大戦後、西武鉄道が買収。戦後は政府に貸与され1947-54年には吉田茂(1978-1967)によって首相公邸として、またその後は1974年に赤坂迎賓館でできるまで迎賓館(白金迎賓館)として使用されたあと、東京都が買い上げ1983年から現在の形(東京都庭園美術館)で公開されている。裏手には国立自然教育園がある。交通 目黒駅から徒歩7分。東京都品川区上大崎。
Tokyo Metropolitan Teien Art Museum

東京の名所・史跡