ニューヨーク証券取引所 建築(1864-65)に200万ドル 会員1100人 営業体でも法人でもない 課税対象でない 帳簿や記録を誰に見せる必要もない 取引所理事長には給料はでない 取引の開始と終了の合図 首席副理事長が午前の立ち合いに 次席が午後の立ち合いに 二人は各7500$の報酬
取引所のスタートは1792年 お互いの間でのみ取引する 部外者を除外する 指定された料率を請求する という三つの原則の成立
1866年までにある株だけ取引きするスペシャリスト制度の成立
1877年 業務を遂行する方法の変更
証券会社の役員がセリに立ち会い
1877年 建物を入ったところにロングルーム スペシャリスト制度を備えた継続取引 2階では競売買
1882年 競売買が終わり スペシャリスト制度が定着
1856年 電信会社ウェスタン・ユニオン設立 ニューヨーク市外からウオール街に注文を出すことが可能になる 間もなく株価を送信する連続電送装置開発される
1867年 EAキャラハンによる金気配相場電送装置(ティッカー)完成 間もなく株式取引に応用(金取引の熱狂1869年 1874年正貨兌換復帰法-1879年金兌換を想定ー成立 金価格の下落1877年 金取引所閉鎖1879年1月)
1)NYSEの取引量の拡大につながる面
2)NYSEの相場情報を民間の会社が利用して、NYSEに損害を与える面
1880年代終わり 市街地のすべての地域で その地区内の電話利用可能に
1890年 NYSEはコマーシャルテレグラフ社の支配権取得 ニューヨーク気配相場会社に組織替え
1892年 ウェスタン・ユニオンがNYSEに屈服 ティツカーの設置場所は制約へ
ロンドンのネイサン・ロスチャイルドの成功がナポレオンの動きと関係していることがよくわかった。
ウイーン反動体制と連携
なれあい売買の禁止 会員は立ち会いに必ず出席すること ジョージ。ヴォベルの屋敷の2階を借りて立会場に the New York Stock and Exchange Boardの成立
1711年 南海会社の設立
東インド会社が319万4000
1719年 政府債務(89,96,99年といった長期年金債務66万6566/年+32年の短期年金債務12万1669/年)を南海会社の償還される株(20年5%1177万9000 14年4%476万6000)に交換する機会を提供する 代わりに南海会社には新stock発行の権利する権利を取得する
1719年4月14日 法律の可決
1720年8月 崩壊
国家に対する同社の700万の負債は取り消された。
株式のために借りた人borrowers against stockは、彼らの借り入れのわずか10%が返済されただけで、彼らがカネを預託した所有するはずの株式は取り消された。
株式に応募したものへの払い込み請求の未払い請求分は取り消された。100ポンド株を基礎に300ポンド現金が払った者には、株stockが配分された。
すべての債務をへらしたあと、残余の株は新旧の全保有者のあいだに比例配分された。
Barnard's Act 1733 (1736年恒久化) 株を持たないで売ったり処分することの禁止 売買の記録の義務化
p.68 18世紀の半ばまでに、より多くのかなりの数のブローカーたちは、彼らの商売がより快適に行える方法を探し、市場の評判の悪いところから、離れようとした。1762年に彼らのうちの150人がクラブを作り、Jonathan’sの所有者とその施設の排他的使用についての協定を結んだ。その見返りは年1200ポンドの家賃であった。それは一人8ポンド参加費用subscriptionを徴収したものであった。この協定はしかしながら短期的だった。コーヒーハウスから締め出されたブローカーが所有者に訴訟を起こした。訴訟はLord Mansfieldの前で行われ、特別法廷は、Jonathan'sは、記憶にないほど古くからstocks and sharesを取引する人のよりどころだとして、原告にアクセス権を認めた。
Jonathan'sの排他的使用を拒否されて、ブローカー集団は1773年にThreadneedle街に自身の建物を獲得した。それは初めて証券取引所the Stock Exchangeと呼ばれた。しかし奇妙なことに、彼らは最初メムバーシップを限定しようとせず、1日6ペンスの入場料の支払えば施設の使用を誰にも認めた。残念ながらこの最初の取引所の要綱constitutionについてはほとんどわからない。それは所有者の委員会と、使用者を代表する総務委員会とをもっていたが、正式のメムバーシップなしにどのようにこのような委員会を選出するかという問題についての証拠が存在しない。
その時 Change Alleyからストックブローカーが表れて、あなた方自由
南海泡沫の歴史は証券取引所での熱狂として今で知られているものとして記録されている。そしてその効果は、証券取引所の富the fortunesに長年にわたり巨大なものであったので、その若干の叙述をすることは的外れではないであろう。南海会社ー南海とその他アメリカの諸地域と交易するための、そして漁業を奨励するための、大英国の商人たちの会社は1711年9月7日に活動を始めた。Oxford卿Harleyが総裁であり、St.John(Henry St.John 1678-1751)と国庫長官が機能理事active directorsであった。かくして同社は国家の問題(a State affair)であり、St.Johnはその初期の履歴を以下のように始めざるを得なかった。「国家の公益と同社の特別な利益advantageのため、女王陛下は、同社を、その安全のために南海で取り決めを行えるようにまたこれらの地域との交易はよりよく行えるように、喜んで手助けされていた」。そして同社は政府に対して、「海と陸の軍隊が同社の意図する航海に同行することを準備するよう」すぐに圧力をかけた。Oxford卿Harleyと(政府と)の間で結ばれた協定は総裁たちはある時点で金利6%で流動債1000万(ポンド)を引き取る、その代わりに同社は南海貿易の独占を得るというものであった。
同社の初期の勘定書は、二グロの供給にかかわっていた王立アフリカ会社とおおよそ大体において競争関係に入っていたことを示していて、そして同社は王立アフリカ会社から結構な寛大さで供給を得ていることを祝福している。より合理的な条件でアフリカやジャマイカの海岸でニグロの供給をうけたときに。言及されたニグロは主にジャマイカに運ばれたもので、そこでは逃亡が多かった、そこで逃亡者を連れ戻すことに金を使うよりは、まだつかまっていない逃亡者を売る方がもうかるようになった。
HarleyとSt.Johnは、奴隷貿易の取り決めの詳細に加わっていたように思わ
ユダヤ人も紳士たちも大騒ぎ
高貴なご婦人もあちこちからやってきて
日々馬車が絶え間なく行き交う
その宝石を現金にして
p.4 間もなく発表された配当は10%であり、二度目の100万ポンドの応募が100につき300ポンドで開始された。数時間のうちに150万ポンドが応募された。
ここまでの南海会社の歴史が記録した驚くべき成功は、大量の株式会社companiesの形成を導いた。当時存在した公衆の信じやすさによって、これらの(会社の)誤った性格をごまかすことはできない。ある会社は「誰もそれが何か知らない、すごい優位advantageを実行するための会社」と呼ばれた。2ポンドを預けた各応募者は年に100ポンドの株に加わる権利があった。その発行は大成功だった。6時間のうちに1000を超える持ち分sharesが引き取られ、預け金が払われた。5月に南海株は550(ポンド)に達し4日のうちに890(ポンド)に達した。それから変動が始まり、640まで落ちて、最後には1000に達した。それからその下落が急速になった。そしてイングランド銀行はいやいやだったが、救援を迫られた。同社の株価は最終的に150まで落ち、数千のひとが破綻した。憤激の嵐が続いた。ある高職の人が提案した、理事たちを罰する法が存在しないので、彼らは袋の中で縛り上げられて、テームズの水に放り込まれるべきだと。Walpoleはしかしもっと合理的提案を行い、それが最終的に採用された。すなわち(議会に)調査委員会が設置されるべきであり、イングランド銀行が株式the stock900万を引き取るべきであり、さらに東インド会社が(同じく)900万を引き取るべきである。公衆の憤激はしかしより過激な方策を求め、下院は5人の理事にBlack Rodへの勾留を求めた。なおその一人はEdward Gibbon氏、かの歴史家の祖父である。その間に財務担当者のKnightは帳簿や書類を保全していたが、身を隠すためにCalaisに逃げた。彼は最終的にはしかしLiege近くで拘束された。そしてAntwerp要塞に勾留されたlodged。しかし送還を拒んだ。彼は逃れたのだ。
非公開で行われた下院委員会は、同社の帳簿が大規模にごまかされており、虚偽の株式stockが法案の可決を助けるために政府メムバーに配分されていたと報告した。Sunderland伯爵(Earl)は50000ポンド割り当てられ、Craggs秘書官氏も50000ポンド、国庫秘書官の一人であるCharles Stanhope氏は売買差額として250000ポンドを受け取り、
p.5 国庫長官の勘定は利益794451ポンドを示していた。告発された人の裁判において、Charles Stanhope氏は3人から無罪との宣誓を得たが、長官Aislabieは下院を追放され、彼の領地は取り上げられ、かれ自身は(ロンドン)タワーに送られた。ジョバーズの会社のメムバーであるSir George Gaswallもまた下院を追放され、タワー送りを約束され、250000ポンドの弁済を命じられた。調査の前に亡くなったCraggs氏の領地は押収され、150万ポンドの現金は被害者に役立てられることになった。すべての理事が支払いを迫られ、彼らの全財産が取り上げられ、それぞれの生活の再建のためにわずかな金額だけが保留を許された。
裁判所は時折、the Cityに対しカネを借りることに好意的だった。市民たちは、公正が行われるとき、喜んでカネを貸したが、貸付は私的な貸付であり、公的な借入ではなかった。国債が始まったとき、時の悲観主義者は頭を振り、この発明が生み出すあらゆる種類の災難を予言したのだが、これを大歓迎した人もたくさんいたのである。もはや蓄積した貨幣について悩む必要がない、使用方法が分からなかった貨幣にいまや政府証券に投資するチャンスがある。ウイリアム三世の時代から現代までとりわけ安全な方法である。続けて示すように、
p.6 資本家は今日この機会を利用している。投資に必要と売買の願望は新たな職業をうみだした。
井堀利宏『大学4年間の経済学が10時間でざっと学べる』KADOKAWA, 2015 をただ読むのも作業としてつまらないので 手元の中国語の経済学テキスト(尹伯成《经济学基础教程》格致出版社,2017)の関心のあるところと対比して読んでみた。井堀の記述は経済学の講義を枝葉を取ると、どこまで単純化できるかを試みたもの。10時間で読める内容でレベルの高い学生に対しては失礼な言い方になるが、日本の学部学生が卒業後頭に残っているのはこの程度だろう。
対して尹(イン)の方は薄いが少しまともなテキストに見える。これはおおよそ中国の学部段階の経済学の教育水準を読み取れる資料と見た。
まず企業とは何か。井堀は労働者を雇用し資本設備を用い生産活動を行う経済主体であって、その目的は長期的な利潤の追求にあるとする。井堀p.46
尹の説明。ここで企業の組織形式を個人業(业主制),パートナー制(合伙制)、会社制(公司制)に分けている。会社制では株主は出資額までだけの責任を負っている。会社はその資産全体に責任を負っている。大規模生産であるが、一人一人の株主のリスクは分散されている。株式有限会社(股份有限公司)は大規模経営向きで、大量の資金を集めたり、市場リスクを分散する(この言い方はあいまい F)点で長所があるが、経営権と所有権とが分離する欠点がある。企業の経営目的は、利潤極大化と言えるが、その内容は、株主、経営者、授業員など立場によって違っている。また企業は,利益だけでなく、さまざまな社会的責任を負っている(商業道徳、従業員の健康、環境保護、資源の節約など)。尹 pp.30-31
所得や資産の格差をどう説明するか。井堀は所得格差を図示するローレンツ曲線(下方へのふくらみ具合をあらわすのがジニ係数)を説明する。格差の原因としては相続した資産の多寡。労働の質を変える教育水準(教育投資)の違い、肉体的精神的能力の違いを挙げている。景気の変動・病気・運不運など(本人の努力によらない格差については)、社会的公正の観点から所得再分配政策が必要としている。所得資産格差を縮小した方が、世代内の競争は活発化して経済も活性化する。ただし極端な再分配政策は、財産を残す意欲を損ない資産を浪費させるかもしれないとする。井堀 pp.72-75
尹も洛伦茨luolunci曲線 基尼jini系数を同様に説明する。貧困の定義としては、食品・衣服・住宅の平均的消費水準の50%に達しない家庭を貧困家庭だとする米国の定義を紹介している。少数民族や女性が世帯主の家庭に貧困家庭が多い。それは教育水準の低さがより高報酬の職業に就けない、失業する、といった問題の現れだとする。財産収入の不平等が収入の不平等の主要原因。ただ以上のような不平等は市場経済メカニズムの必然的結果であってそれを均等化するのは、人々の積極性・創造性を妨げ、経済の発展を妨げるとしている。尹 pp.69-71, esp.71 このあたり両者共に市場主義的だが尹の方が格差是正に否定的であるのは興味深い。
市場の限界をどう書くか。井堀はカルテルによる不当に高い価格の設定を市場の失敗に先立って議論している。市場を通さずの他の経済主体に悪い影響を与える外部不経済。外部不経済を内部化する必要があります。つぎに公共財(消費における非競合性+排除不可能性の2つの性質をもつ)を供給する政府の役割が論じている。井堀 pp.75-81
尹も垄断long3duan4を最初に問題にする。これは競争を制限し市場を支配する行為であるので、カルテルと同義といえる。つぎに外部影响。これを积极外部影响 消极部外部影响に分けて説明。最後の公共物品。これは政府が供給するとして、その特徴を、消费不具有排他性。供给不具有竞争性。pp.75-81 つぎに政府と市場という興味深い節が続く。まず資源配置は市場が決定するが、だからと言って政府が重要でないとはいえないとする。政府の役割。まず垄断や不正な競争を禁止、外部性(外部経済)の問題を解決、公共物品(公共財)を提供して、効率を引き上げること。つぎに税金や交付金などの仕組みを通じて、富や所得の格差を縮小し、社会保障・医療衛生・教育などを社会に提供すること。さらに財政政策貨幣政策を通じて経済を安定させること。最後に中国について政府の機能の低下や腐敗が、西欧諸国に比べて少ないとはいえない。その理由として、長期にわたる政府主導のため政府部門が大きいこと、権力が高度に集中され政府官員間の相互の牽制メカニズムが存在しないこと、多くの部門が公有制の主体となりそれが腐敗の原因になっている、としている。尹 pp.82-85, esp.84-85
失業の説明はどうか。井堀は非自発的失業についてのケインズモデル、新古典派の違いを説明しようとしている。ケインズにおいては有効需要の創出によって、完全雇用を達成することが必要だと考えますが、新古典派の場合は、貨幣賃金率の調整で完全雇用が実現する。そのほか循環的失業、構造的失業を説明している。おもしろいのは長時間労働の説明。人的投資の回収になっており、長期的な雇用関係を前提にしていると。企業側からは不況時の雇用の維持。労働者にとっては不況に備えた生活費の蓄え。それを可能にするしかけになっているので解消されないのだとしている。井堀 pp.188-199
尹はケインズの非自発的失業(凯恩斯kai3ensi的非自愿失业shi3ye)を説明したあとにフリードマン(弗里德曼fulideman)の自然失業率を説明。さらに1970年代に合理的期待形成学派(理性预期学派)が生み出される一方、こうした観点をも取り込む形で新ケインズ主義が生み出されたとします。つまり政府の市場への関与を徹底して否定する経済自由主義の主張と、政府の市場への関与が必要で有効だという主張とが、並立した状態にあると説明しています。議論を進める中で、摩擦性失業、季節性失業、周期性失業など様々な失業の種類分けをしています。またフィリップス曲線(菲利普斯feilipusi曲线)や、ビルトインスタビライザー(自动稳定器),乗数の説明も行われている。尹 pp.128-142,esp.135
経済成長をどう考えるか。井堀は内生的成長モデルに言及しているが、ほとんど説明していない。井堀 pp.212-213 労働と資本の投入量 それぞれの生産性の変化が問題であることはわかるが、そこから先の記述がない。簡単な本であるので仕方がないがこの簡略化は残念。
他方、尹の経済成長に関する記述で特徴的なのは、人口成長率の過大であることを問題視する視点であり、人的資本への投資を高め一人当たり収入を増加させるためにも、人口成長率を統制するべきだという議論である(この記述は中国で人口の減少が話題になり、一人っ子政策がふたりっ子政策に変わったことからすると変である。人口とくに生産年齢人口は、経済成長にとりプラス要因だという頭が私たちにはあることからするとなかなか呑み込めない)。時間の経過とともに、生産年齢人口が増えてゆく人口ボーナス=人口红利という現象が、中国の経済成長を支えたことへの言及がない(また尹は、都市と農村との関係も記録していない。農村から都市への出稼ぎや人口流出が都市の成長を支えたこと。農村や農業の問題も言及されていない。)。人口ボーナスが消滅し、むしろ生産年齢人口が減少に入り、中国が今後急速な高齢化により年金や社会保障費の増加で苦しむであろうことも指摘されず、ただ中国は人口の統制面で括目されるべき成果を上げたとしている。この尹の記述は、最近の問題が欠けておりかなりの違和感を感じる。pp.146-151, esp.151
尹は、中国の当面する経済成長問題である「中等収入陷阱xianjing」に正当にも言及している。これは一人当たり所得がある水準を超えると、経済成長がそれまでのように順調ではなくなることを指している。尹 p.151(おそらく所得の上昇によりそれまでの人的コストの安さに依存した輸出依存型経済が限界に達するのであろう)中国もそこに達したのではないかという議論である(その意味でこの議論は先ほど述べた人口ボーナスの消滅問題と裏表の関係にある)。尹の記述をみると、産業構成の高度化が必要であること、貧富の格差拡大が国内消費の拡大を妨げるといった視点がみられる。これらの指摘は間違いではないものの、もう少し輸出依存型から内需依存への転換を強調したり、環境資源に配慮した省資源型成長への転換が強調される(cf.国家行政学院经济学教研部编著《中国经济新常态》人民出版社,2015年,27)と、私などはより共感できた。なお尹は、環境資源の制約を議論する持続的経済成長(可持续发展kechixufazhan 循环经济xunhuanjingji)については、経済成長を議論する前のところで論じている。尹 pp.146-147





正岡子規の次の句はここの石畳を詠んだものとのこと
なお寺田寅彦(1878-1935)は大正12年1923年9月1日、たまたま上野に美術展を見に来ていたとき、関東大震災に遭遇。展覧会場から東照宮に移動し、地震直後の上野東照宮の様子を詳しく記録している。
「T君と別れて東照宮前の方へ歩いて来ると異様な黴臭い匂が鼻を突いた。空を仰ぐと下谷に方面からひどい土ほこりが飛んで来るのが見える。これは非常に多数の家屋が倒壊したのだと思った、同時に、これでは東京中が火になるかもしれないと直感された。東照宮前から境内を覗くと石燈籠は一つ残らず将棋倒しに北の方へ倒れている。大鳥居の柱は立っているが上の横桁が外れかかり、しかも落ちないで危うく止まっているのであった。精養軒のボーイ達が大きな桜の根元に寄集まっていた。大仏の首の落ちた事は後で知ったがその時は少しも気が付かなかった。」(『震災日記』より)
上野寛永寺(1625)










高幡不動三尊像について(せきとよしお)
「松杉や枯野の中の不動堂」(正岡子規 明治25年1892年12月8日)








永井荷風(1879-1959)は随筆「傳通院」において、パリにノオトルダム寺院があるように「私の生まれた小石川をばあくまで小石川らしく思わせる」るものは「あの傳通院である」としている。
賛美の言葉が続く。「滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの傳通院である。」「傳通院の古刹は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。」
「士官学校の前を真直に濠端へ出て、二三町来ると砂土原町へまがるべき所を、代助はわざと電車路に付いて歩いた」「牛込見附まで来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影を認めた。代助は夕飯を食う考えもなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。約二十分の後、彼は安藤坂を上って傳通院の焼け跡の前へ出た。大きな木が、左右から被さっている間を左りへ抜けて、平岡の家の傍まで来ると」(「それから」(1909)より)なお漱石がここで述べている火事とは明治41年1908年冬のこと。永井荷風の随筆「傳通院」は、永井が外国から帰国して傳通院を久しぶりに見たその晩に傳通院本堂が焼け落ちたとしている。漱石は、この火災を「それから」にさっそく取り入れている。で「こころ」ではつぎのようになっている。
「金に不自由のない私は、騒々しい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです」「ある日私はまあ宅だけでも探してみようかというそぞろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に傳通院の方へ上がりました。電車の通路になってから、あすこいらの様子がまるで違ってしまいましたが」(「こころ」より)







そうしたなかで大仏は元禄3年1690年の鋳造。享保7年1722年鋳造の吉祥寺大仏より約30年前である。東京都内の江戸時代現存大仏の中で天王寺大仏は比較的大きなものといってよい。
瀧泉寺大仏(天和3年1683年目黒区 像高2.64m 総高3.69m)
天王寺大仏(元禄3年1690年台東区 像高3.05m 総高3.83m)
吉祥寺大仏(享保7年1722年文京区 像高2.93m 総高4.17m)
江戸時代の鋳造大仏の研究(1)
江戸時代の鋳造大仏の研究(2)
以上のほかに、関東大震災で頭部が落ち、胴体部分も第二次大戦時に供出されたという上野大仏(天保12年1841年鋳造)は像高が6mほどあったとされる(この1841年鋳造以前にも像高3.6mほどの上野大仏が存在した)。
しかし、幕府の態度はその後、変化する。
まず天保4年1833年将軍家斉は寺を日蓮宗に戻すことを命令する。この改宗問題については、天台宗(輪王寺)側は経緯を述べてこの改宗を阻止。その代わりとして長耀山感応寺の名称を日蓮宗に返し、天保三年1833年より護国山天王寺と号して現在に至っている。
続いて富くじや岡場所についての幕府の態度もかわる。天保12年1841年の天保の改革により、富くじは禁止、岡場所も廃絶された(富くじは天保13年1842年3月8日に一切禁止となった)。
此頃は蕪(かぶら)引くらん天王寺 明治29年冬
こうして今、天台宗の天王寺を支えるのは、日蓮宗時代に鋳造されたこの大仏であるように、私には思える。





現在の根津神社は宝永三年1706年、将軍綱吉が造営した時の姿を現在に伝えている。楼門、唐門,拝殿、本殿、透塀などが残る。国指定重要文化財。このほか、乙女、駒込の稲荷神社があり、千本鳥居がみられる(赤坂の日枝神社にも山王稲荷神社がある)。明治期に神社に寄贈された庚申塔も貴重。 ➵ 根津神社見取り図
➵ Note#根津神社庚申塔
なお根津神社について復興されているため、戦災被害を免れたとの誤解があるが、実際は1945年1月28日の東京大空襲の際に、本殿、拝殿は内部から燃え、かなり大きな被害を受けている。その様子は以下の益田論文にある。戦後、早い段階で修復工事が行われた。





丹野吉雄「恒久膜構造の黎明」日本膜構造協会2016/06/03
Mason Riddle, Air Domes:Last of a dying breed, Fabric Architecture, Sept.1, 2010
Laurie Wiegler, Tearing into the Metropolis, Scientific American, Jan.20, 2011
Stephen Rhine, Emergencies in Air-Supported Structures, Fire Engineering, July 2018
Maintenance Guidelines of Air-Supported Structures(Hanover Insurance)







東京タワーの高さを決めるときに、意識されていた一つはパリのエッフェル塔。エッフェル塔は1889年のフランス革命100年とパリ万博とを記念して建設されたもので高さ300M(984ft)。
なお、東京タワーはかなり頻繁に改修工事(レトロフィット)を施されている。
斎藤直政ほか4名「東京タワー耐震改修工事報告」宮地技法No.28,2015
東京タワーの耐震レトロフィット(日本建築構造技術者協会第26回業績賞)2015
鉄骨構造タワーの歴史 積水ハウスHP
Towerpedia
Tokyo Tower-The Japanese Eiffel Tower in Kanpai-Japan com

