くつろぎの隠れ家風古民家【丹波篠山まつかぜ屋】

名古屋コーチン・丹波篠山牛・猪肉料理など。完全予約制。駐車場有り。駅弁「新デカンショ弁当」の予約販売も。

アンネット・ストゥルナート その”心の歌”に寄せて②

2010年05月13日 | Weblog
(中野 雄 さんの記事の続きです。)

世に出た砂中のダイヤモンド

 国立歌劇場入団後、アンネットさんは有色人種であるが故に「黄色の猿」と呼ばれ、夢を託したウィーンでも、厳しい差別と迫害を受ける。しかし親日家であったカラヤンの庇護を受け、バーンスタインにもその人柄と歌唱力を愛されて、その地位は次第に揺るぎなきものになっていった。2006年の暮れに出版された自叙伝『ウィーン わが夢の町』(新潮社)のオビには「ひとは、これほどの目に遭っても花を咲かすことができるものか」という言葉が記されている。「その通りだ」と、私も思う。前記の自伝によると、「歌い続けたい」という彼女の希望が若き日の恋を破綻させ、遂にはウィーンで造り上げた元貴族との家庭も崩壊させてしまったという。だがアンネットさんは、齢70歳に近い現在でも、歌の道を諦める気持ちは毛頭ないようである。家族と音楽への想いの間(はざま)に立たされて、自殺を図ったこともあったと聞く。

 アンネットさんとお知り合いになってしばらくして、私はNHKのラジオ深夜便で、彼女が自費で製作されたCDから、有名な<ウィーン、わが夢の街>を放送した。2004年3月のことである。歌声を聴き、一途の人生航路に感動した担当アンカー・遠藤ふき子さんが即座にインタビューを申し込み、今度はおふたりの対談「国際舞台で歌い続けて」が、全国聴取者の反響を招(よ)ぶことになる。

 自伝の上梓、今回のCD録音は、ラジオ深夜便で深夜半に流れた、アンネットさんの、ウィーンからの歌声が契機となって実現した、これ全て「運命の神のお導き」としか説明のしようのない出来事である。NHKは更に、人気番組「課外授業 ようこそ先輩」の主役に彼女を起用して、総合TVの電波に乗せた。舞台は少女時代、孤独の日々を過ごしたあの岡山県吹屋町の小学校であった。

 CD制作に当たり、録音スタッフはレコーディングの場所を、あえてその吹屋町とその近くのホールに選んだと聞く。歌は、歌詞・メロディもさることながら、歌い手の”心の表現”でなければならない。そのためには、音や響きもさることながら、まず歌う場所の設定から考えるーー心遣いの細やかさ、歌手アンネットさんへの配慮に、私は胸を衝かれる思い出あった。しかも彼女は、録音現場でのスタッフとの厳しいやりとちの最中、「19歳の頃修行させられた邦楽=三味線、琴、小唄などの記憶が突然脳中に蘇り、日本歌曲入魂の歌唱を扶けました。人生に無駄なんてないんですねぇ」と語って涙ぐんだのである。

 ダイヤモンドは砂中に埋もれていても、いつかは世に顕れて光彩を放つ。アンネットさんが故郷に寄せる歌声は、私達に生きることの意味と素晴らしさを、言わず語りに教えてくれているようである。』
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アンネット・ストゥルナート その”心の歌”に寄せて 

2010年05月13日 | Weblog
(こちらも、CD:「アンネット・一恵・ストゥルナート 故郷、日本を歌う」付属のパンフより)

『中野 雄

アンネットさんとの出逢い

 「不思議な人がいるんですが」
 作家の藤倉四郎氏がポツリと、呟くように語りだした。ウィーン国立歌劇場の団員歌手で日本人、「もう30年以上歌っているんです。しかも、元貴族の家系に嫁がれて」。

 「信じられない」と、私は思った。ウィーンの音楽会には「世界一」と言っても言い過ぎではないほど排他的な空気が充満していて、その牙城が有名なウィーン・フィルと、母体であるウィーン国立歌劇場であることは、音楽関係者なら常識に属する事柄だからである。巨匠カラヤンですら、イタリア人スタッフの採用問題が火種になって、総監督辞任に追いこまれるろいう仕打ちに遭っている。

 私があまりにも疑い深い顔つきをしたからだろう。藤倉氏は微笑んで、「では、近いうちにご紹介しましょうか」と言い、その日の会話は途切れた。

 そしてある日、アルト歌手アンネット・ストゥルナートさんが私の前に現れたのである。トレードマークになっている幅広いつばのついた帽子、エキゾチックなメイキャップ。年齢不詳。お会いするなり、「アンネットと呼んで下さい。ストゥルナートって姓、発音しにくいでしょう」と切り出した。そして、「私の渾名(あだな)は”魔女”なんですよ」と、穏やかな声で自己紹介した。藤倉氏ご夫妻とは、信州の小さな町のコンサート会場で偶然知り合ったのだという。

 日本人ーーというより、東洋系初の団員歌手として、世界に冠たる名門、ウィーン国立歌劇場の舞台に立ったという話は事実であった。この歌劇場の前身は、ヨーロッパに覇を唱えていたハプスブルク帝国の宮廷歌劇場である。1869年にモーツァルトの歌劇<ドン・ジョバンニ>を杮落としに開設されて以来、約100年間、東洋人歌手を入団させたという記録はあい。アンネットさんは1971年、まさに東洋系歌手第1号として入団を果たし、以来30数年間、驚くべきことに定年の65歳を過ぎてもなお、舞台に立ち、歌い続けていたのである。

 お話をしていると、ベーム、カラヤン、バーンスタインなど、往年の名指揮者のエピソードが次々にとびだしてくる。嫁ぎ先はベートーヴェンの理解者・保護者としても有名なラズモフスキー伯爵の末裔で、ご自宅の玄関前の通りがラズモフスキー・ガッセと名付けられていることまで判った。「何故いままで、日本の音楽界の話題にならなかったのか」。考えても判らないし、問われても答えようがない。アンネットさんご自身、稀有な経歴を自己宣伝などに一切使って来られなかったし、事実をひけらかして名声を博そうなどというお気持ちを持たれたこともないようなのである。

その苛烈な人生

 彼女の願いはただひとつ。「生涯歌い続けたい。命ある限り」というひと言に尽きる。

 生活の手段として、あるいは社会的名声や金銭を得るための”職業”として、歌手を志したのではない。歌手という”生き方”と、彼女は若き日に選んだのである。だがその選択が、アンネットさんにどれほど過酷な日々をもたらしたか・・・。

 アンネット・ストゥルナート=旧名・高島一恵さんは兵庫県西宮で、日中戦争勃発の翌年(1938年)生を受けた。中国大陸でひとかどの財を成していた父親のもとに移り、上海の豪邸で異郷暮らしを満喫していたが束の間、太平洋戦争の敗戦(1945年8月)と同時に、彼女の運命は暗転する。日夜生命の危機に晒されながら大陸各地を放浪すること1年有余、持てるものを全て失って帰国した高島の一家は、雨露を凌ぐだけの陋屋(ろうおく:いうなれば物置小屋)を、岡山県北部の吹屋町(現在の高梁市成羽町)に与えられた。

 食費にも事欠き、母国語を正確に話すこともできない少女一恵は、周囲からいじめに遭い、一時声まで失いかける。しかし暗夜に手探りで歩くような生活の中で、彼女は歌に目覚め、楽才を自覚して、独学で歌手を志すようになった。10代半ばのことである。

 19歳のとき親戚の養女となって東京に出、歌の道に進もうとするが、音大の受験に失敗、入団した合唱団では学歴を理由に差別を受ける日々が続く。万策尽き果てた彼女は、最後の夢をヨーロッパに託して、身辺を整理し、自ら退路を断って、一人ロシアのシベリア鉄道に乗り、ウィーンに向かった。

 「無謀」としか言いようのない行動であったが、幸運にも現地で名教師を捜し当て、彼女は名門国立音大に入学を許される。更に世界の檜舞台・ウィーン国立歌劇場に、同歌劇場の歴史始まって以来初めて、東洋系の団員歌手として採用が決定した。結婚相手にも巡り合って、アルト歌手アンネット・ストゥルナートが誕生したのが1971年、彼女33歳の春である。(続く)
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Annet Kazue Strnadt

2010年05月13日 | Weblog
あるいは、以前の記事と重複してしまうかもしれませんが、「アンネット・一恵・ストゥルナート 故郷、日本をうたう」というCDのパンフに記載されている記事を、書かせていただきます。

「昭和13(1938)年、兵庫県西宮生まれ。

幼少期を上海で過ごし、中国大陸放浪を経て、岡山県に引き揚げ、現在の高梁市成羽町で育つ。

準看護婦をしながらも、歌手を目指して、通信教育により独学で音楽を習得。

上京後、夜間高校に通いながら、声楽家・坂本博士に師事。

24歳で、夜間高校を卒業。

合唱団に入り、オペラやCMソングをこなす。

31歳で、日本脱出を決意。

ウィーンへ渡り、生涯の師ロッテ・パブシカと出会う。

やがて、ウィーン・アカデミーを経て、1971年、東洋3場団員歌手のオーディションに合格。

以後、カラヤン、バーンスタイン、ベーム、ショルティ、クライバー、小澤征爾等と共に活躍。

現在も、オペラ座の団員として、舞台や欧州各地で歌い続けている。

 現在は、1年の半分近くを日本での声楽指導にあてており、経験に基づいた発声指導は、確実な効果を上げ、教育者としても手腕を発揮。

 2000年、CD『ウィーン、わが夢の街』(私家版)を制作。2006年には、自伝『ウィーン わが夢の町』(新潮社)を刊行。逆境を乗り越えたダイナミックな半生が、多くの読者に勇気を与えた。」
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今朝の丹波ささやま

2010年05月13日 | Weblog
約1週間前に、植え付けが終わった、田んぼの稲です。

朝は、まだ小雨の降る、ぐずついたお天気でしたので、画面が暗いですね。

5月6日の記事の写真と見比べてみましたが、まだ、それほど明確な差はないようです。
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アンネット・一恵・ストゥルナート 「故郷、日本をうたう」に寄せて③

2010年05月13日 | Weblog
こうした昭和の歌謡を聴いたあと、再び大正期に戻り、「しゃぼん玉」を聴けば、ほっとするのは、わたしだけだろうか。

長く聴いてきたが、聴くたびに、曲の素朴さ、無垢な美しさに、耳が洗われる思いがする。しゃぼん玉自体、はかないものであるが、息ひとつによって、そのはかないものをうみだす、この遊び自体が、はかなく透明だ、目で追って、消える間際を見定める。消える瞬間に、しゃぼん玉の美は宿る。

雨情の歌には、様々な背景を持つものもあるが、わたしは歌には、あえて事情や思い入れを持ち込まず、歌われている情景に、心を素直に移して聴くのが好きだ。たとえばこの「しゃぼん玉」のように。「遊びをせんとや生まれけむ。--『梁塵秘抄』の有名な歌が、曲の後ろに重なって聞こえてくる。

俵はごろごろ」は珠玉の小品である。半音階で移動していくメロディには、「黄金虫」同様、妖しい官能美を感じる。

そして雨情の最後を飾るのは、「あの町この町」。言葉の繰り返しがだんだん暗くなっていく町をゆく、こどもの心細さを、とてもうまく表現している。

さて、次の「白い花の咲く頃」は、昭和25年に岡本敦郎が歌って大ヒットしたものだ。NHKのラジオ歌謡から生まれたものだという。三番まであるどの歌詞にも、「さよならと云ったら」という行がある。それにしても白い花には、さよならがよく似合う。

ゴンドラの唄」は、わたしが生まれるずっと前に出た曲だが、この美しい三拍子には聞き覚えがあった。歌い継がれてきたことを耳が証明する。大正4年に発表され、松井須磨子が劇中で歌って大人気を博した。その後、黒澤明監督『生きる』のなかでも使われて評判を呼んだ。大正の、時代の匂いがたちのぼるような一曲だ。吉井勇は、歌誌『明星』で活躍した歌人。この歌の歌詞は、同じ『明星』のスター、与謝野晶子の歌「やわ肌の熱き血汐のふれも見でさびしからづや道を説く君」を連想させる。

さくら貝の歌」は、「白い花の咲く頃」と同じころ、同じラジオ歌謡から生まれ、ヒットした曲。

そしてボーナス・トラックに入った、「千の風になって」。「わたし」というものは、ついに死なず、風になり光になり雲になり小鳥になり星となって、生き続けるという。その思想は、「歌」そのものを体言したものではないか。詞を書いた人も、曲を創った人も、やがてはこの世を去っていく。けれど歌は、声にのって、幾度も蘇り消滅しない。響きは、千の風のなかに、千の光となって、融け、広がり、聴く人の心から心へとリレーされていく。生き続けていく。それが歌だ。

【参考文献】「七つの子 野口雨情 歌のふるさと」古茂田信男 著(大月書店)
      「名作童謡 野口雨情 100選」上田信道 編著(春陽堂)

【協  力】 野口不二子(野口雨情生家資料館代表)』

(以上、CD:アンネット・一恵・ストゥルナート 故郷、日本を歌う付属のパンフ記載の「歌の翼」小池昌代 より)

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アンネット・一恵・ストゥルナート 「故郷、日本をうたう」に寄せて②

2010年05月13日 | Weblog
CDのパンフにある、小池昌代さんの「歌の翼」という記事の続きです。

『「捨てた葱」は、地味で短いが、異様な迫力を持つ作品である。風邪予防としても使われる葱は、性の強い野菜というイメージがあるが、歌では、引っこ抜かれ、捨てられ、枯れた、無残な姿をさらしている。ここに人生を重ねる人も多いだろう。アンネットさんが、こぶしをまわして歌っており、普段は、ウィーンでオペラを歌うその声に、なつかしい土の匂いがした。葱の根についた土である。

証城寺の狸囃子」は、可愛らしい曲だ。詞は、千葉県木更津市に伝わる狸囃子伝説を踏まえているという。この曲のアレンジは、大抵、にぎやかなものが多いが、このCDでは、実にさらりと歌われている。曲のシンプルな美しさに気が付く。

七つの子」も、様々なパロディが生まれるほどに、愛されている有名な曲だ。嫌われ者の鳥だが、夕暮れどき、巣へ戻る群れを見ると、誰もがきっとこの歌を思い出すだろう。長調の明るい曲調のなかに、一箇所、短調のトーンが混ざるところがある。その陰影が、この曲に複雑で深みのある情感を与えている。曲の向こうに、夕焼けの紅く焼けた空が広がって見えてくる。

信田の藪」の背景にあるのは、「葛の葉伝説」。歌舞伎などの題材として取り上げられてもいるこの伝説は、武士に追われていた白狐が、助けてもらった陰陽師と愛し合い、子をもうけるが、狐という正体がばれてしまって、「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信田の森のうらみの葛の葉」という歌を残し、夫子の元を去ったという悲話である。

船頭小唄」は雨情・晋平のコンビで創られた流行歌謡だ。おれもお前も枯れすすき。二人の運命を呪うこの歌は、めっぽう暗い。しかも、2年後に、関東大地震が起こり、この曲を「亡国の歌」と非難するひともあったという。雨情自身の、当時の屈折した心情を映してもいたというが、この暗さには人をひきつける魅力があった。その後も多くのひとが、様々のアレンジでこの曲を復活させ、現代へと歌い繋いでいる。日本人の心情にある良くも悪しくも変わらぬエッセンスが、この曲のなかにあるのかもしれない。

十五夜お月さん」もよく聴けばまた、哀しい家族離散の曲である。あまりにくっきりとした夜の月を見ると、人間は、そこへ自分の心情を吐露したくなってしまうものなのだろうか。雨情の離婚経験が、この曲に影を落としていることを指摘するひともいる。いったい、どんな事情があったのか、協議離婚をしたあと、この歌のとおりに、婆やには暇を出し、子を引き取った雨情だが、子供たちは、母を慕って泣き、結果、雨情は、子を母の元へ戻してやったという。

黄金虫」も、一度、耳についたら、離れない曲である。ふしぎな呪縛が曲のなかにある。半音が重ねられ、ひたひたと進むメロディには、どこか、悪魔的な魅力があるが、こういう妖艶なきらめきのある童謡は、平成の世に、なかなか生まれにくいような気がする。

雨降りお月」とは、雨の降る日の月のことだろうか。上田信道編著『名作童謡 野口雨情100選』によれば、雨情の最初の妻の婚礼当日も、土砂降りの雨で大変だったとか。月のまわりにできる光の環を暈(かさ)といい、暈ができた翌日は、雨になると、昔のひとは言ったそうだ。雨の日の月に、お嫁さんを重ねて思う神経は、やはり詩人のものだと思う。「嫁入り」という行為には、それでなくてもさびしいものがある。雨情もそこに感傷を覚えていたかもしれない。

伊豆大島にある波浮の港を舞台にした、「波浮の港」は、昭和初期、雨情・晋平のコンビで、大ヒットしたもの。ヤレホンニサという合の手が効いている。
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