くつろぎの隠れ家風古民家【丹波篠山まつかぜ屋】

名古屋コーチン・丹波篠山牛・猪肉料理など。完全予約制。駐車場有り。駅弁「新デカンショ弁当」の予約販売も。

アンネット・一恵・ストゥルナート 「故郷、日本をうたう」に寄せて

2010年05月12日 | Weblog
以下も、このCD付属のパンフより、転載させていただいています。

歌の翼   小池昌代

 このCDには、誰もがよく知る日本の歌曲が収められている。わたしじしん、いつどこで習ったのかも記憶がないのに、体の方が、覚えている。

 歌というのは不思議なもので、メロディを聴いた瞬間に、音に付随するさまざまな記憶が、いっせいに、うごめきだす。しかもそれはいつも、同じようにではない。生きている途上で、一度として同じ瞬間がないように、一度として同じように歌われ、同じように聞かれる歌もない。音楽は常に生きているのだ。

 これらの名曲が、どれもわたしたち大人にとって、大切に思われるのは、それらの曲に、生きてきた時間が、長くしまわれているからだろう。

 過去の量が、大人よりも極端に少ない子供たちは、いってみれば、それらの歌とあまりに一心同体なので、存在それ自体が「歌」なのだ。その意味で、ほんとうに意識を必要とするのは、一度、歌から離れて生き、歌を見失った大人のほうだろう。

 例えば、「故郷」という曲を、わたしはどれほど聴き、歌ってきたことか。いや、実際は、歌うよりも、記憶のなかに、いつでも取り出せる曲として、しまわれていた時期のほうが長いような気もする。大人にとっての唱歌や童謡は、そういう意味で、宝石箱のなかの宝石に似る。しかもそれは、共有の財産であって、誰かが口ずさめば、それがすなわち、わたしの歌であり、わたしたちの歌になる。

 しかし、時代は変化する。「故郷」のなかで歌われている内容は、現代日本において、すでに失われた、あるいは消えゆく運命にある風景であり志である。けれど山河が、そしてそこに宿る魂が、美しく在り続けてほしいという願いに変わりはない。この曲は、その祈りを担って未来へと運ばれる、手押し車のような名曲ではないだろうか。

 「落葉松」は、このCDのなかで、わたしのもっとも好きな曲である。明るい曲調のなかに、時折差し込む陰影があり、哀切な感情を聴く者の心に抱かせる。ここに降る雨には、お天気雨のように光が差している。鎮魂歌のような名曲だと思う。

 歌曲には、聴いているだけで満足な曲と、どうしてもいっしょに歌ってしまう、歌いたくなる曲があるが、その違いはいったい、どこから来るものか。「故郷」や「落葉松」そしてこのあとに続く、「浜辺の歌」「初恋」「この道」は、わたしにとって後者、つまり、どうしても歌いたくなる類の曲だ。そういう曲には、「あこがれ」をかきたてるものがある。歌うたびに、わたしのこころを、とても遠くまで連れていってくれるのだ。

 「浜辺の歌」を聴いてみよう。打ち寄せる波の音のようなメロディは、わたしたちの記憶の壁を洗い、古への、たゆたうような、追憶の感情を目覚めさせてくれる。「初恋」はどうか。劇的な歌である。この曲を聴くと、思春期のころの、夢見る心が蘇ってくるだろう。啄木の短歌に曲をつけたものだが、砂山の砂に、砂に腹這いと、砂が三度、強調されて歌われる。わたしはそこがとても好きだ。

 そして「この道」を歌うとき、わたしの目の前には、抜けるような青空の下、あたたかい道が、遠くまで伸びて行く。お母様と馬車で行ったという風景などは、私の生活感覚から遠いものだが、メロディのなかに、あたたかな異国、一つの懐かしいユートピアが出現する。白秋は、言葉でそういう異空間をつくった、絢爛たる才能の詩人である。

 これら日本のすぐれた歌曲は、多くが、大正、昭和初期に生まれた。みな、メロディが美しく、ロマンがあり、詩情がある。微妙な陰影のニュアンスがある。明るいのに、みな、どこか哀しい。そして独特の香気がある。西洋音楽の優れた富を、驚くほどうまく日本の感性にとかしこんだという印象を受ける。

 CDでは、このあと、野口雨情の詩の世界が展開するが、そこでは、いっしょに歌うよりも、ただ、アンネットさんの声に身を委ねたいという気持ちになった。

 「青い眼の人形」や「赤い靴」が歌われていた当時、日本では、アメリカ大陸への移民が盛んだったそうだが、そのアメリカで、日本移民を排斥しようとする移民法制定の動きがあり、それを懸念したアメリカ市民から、日米友好を願った平和使節人形が、日本へ送られたという。もっとも、「青い眼の人形」は、その人形をモデルにしたものではない。曲はすでにあった。太平洋戦争が始まったのは、この曲が世に出てから、およそ20年後のことである。

 「赤い靴」も雨情の代表作だが、モデルがいたという説がある。雨情が札幌で記者をしていたとき、一緒に暮らしていた同僚がいた。その彼が再婚した相手には娘がいたのだが、再婚に際し、女性はやむなく、その子をアメリカ人宣教師夫妻に養女として託したのだという。娘は岩崎きみという名で、その後、東京で病死したらしい。
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アンネット・一恵・ストゥルナート 「故郷、日本をうたう」

2010年05月12日 | Weblog
このCDに収録されている曲の一覧です。

1 故郷(ふるさと)
2 落葉松(からまつ)
3 浜辺の歌
4 初恋
5 この道
6 青い眼の人形
7 赤い靴
8 捨てた葱
9 証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子(たぬきばやし)
10 七つの子
11 信田の藪
12 船頭小唄
13 十五夜お月さん
14 黄金虫(こがねむし)
15 雨降りお月
16 波浮の港
17 しゃぼん玉
18 俵はごろごろ
19 あの町この町
20 白い花の咲く頃
21 ゴンドラの唄
22 さくら貝の歌
♪ボーナス・トラック♪
23 故郷(ふるさと)
24 千の風になって
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『故郷(ふるさと)、日本を歌う』~レコーディングによせて~

2010年05月12日 | Weblog
アンネット・一恵・ストゥルナートさんのCD、「故郷(ふるさと)、日本をうたう」に添付されている、パンフの文章を、以下に転記させていただきます。

『2007年4月、新緑に囲まれた母校の吹屋小学校(岡山県高梁市)を、57年ぶりに訪れた。

日本最古の木造建築であり、重要文化財に指定された、美しい校舎である。

 小学校6年生の時に学んだ教室で、まず最初に「故郷」を歌った。

胸に万感迫る思いがあった。

実は、1ヵ月前、NHKの番組「課外授業~ようこそ先輩」での撮影が偶然重なり、半世紀ぶりに、2回も、母校を訪れることになったのだ。

 12歳の学芸会では、この学校の講堂で、独唱した。

よそ者で、日本語もたどたどしく、勉強も遅れていた私は、仲間はずれにされ、どもるようになってしまった。

でも、歌が好きで、歌を歌っているときは、のびのびとしていて、何だか幸せで、大きくなったら、歌手になりたいと思っていた。

57年という年月が、あっという間に過ぎた気がする。

 ヨーロッパのウィーンから、私は魔法をかけられたかのような、不思議な思いで、ふるさとの土を踏んだ。

今回のレコーディングでは、大勢の方たちのリクエストや、また、私のふるさとにつながる曲を歌わせていただいた。

歌は、必ず、どこかで思い出につながり、思い出は歌につながり、心の琴線を震わせ、魂を浄化させる。

 特に、私は、野口雨情の詩が好きだ。

小さいころ、母が雨情の曲を、たくさん歌ってくれた。

童謡について、野口雨情は、こう述べている。

「”赤子は大人のごとし”と、昔の聖人は言っているが、赤子とは、赤ん坊の意味ではなく、純真の心の持ち主の意味であり、大人とは、単に大人の意味でなく、人々の手本となるべき人の意味である。

また、童謡の本質は、知識の芸術でなく、童心性を基調として、”真・善・美”の上に立つ芸術である」と。

 2006年7月、私は直系の野口不二子さんと、北茨城の磯原にある、野口雨情の生家で出会った。

長時間、不二子さんから、お話を伺う、幸せなお時間をいただいた。

不二子さんとお会いしたことは、神の啓示とも思える不思議な出会いであった。

 不二子さんは、その著書『十五夜お月さん』の中で、こう述べている。

「大正デモクラシーという、おおらかでゆったりと流れた時代の空間と、雨情の童心芸術が、不思議なくらい融合され、この時代に800編もの童謡が書かれた。

最近の世相には、悲しい出来事が多いが、家族崩壊、コミュニティ喪失を憂える人たちが考えるのは、家庭であり故郷ではないだろうか?

その思いを歌うのが、童謡なのだ。

見失われたものへの憧憬、そして人間らしい暮らしを取り戻したいという、人々の切なる願いが込められているのではないか」と。

 不二子さんからは、長く歌い継がれてきた雨情の曲のご説明をいただいた。

そして、「捨てた葱」という曲と出会った。

「葱は、とても強い野菜なのよ。

真夏のいちばん暑い時期に植え付けされ、長い間、土に育てられる力強い野菜なの。

でも、引き抜かれれば、しおれて枯れるのよ。

雨情さんは、自分の人生に、葱を重ねたのよ」。

目が、洗われるようだった。

「捨てた葱」は、奇しくも、私の人生と重なっている。

そして、私は、不二子さんの歌に、耳を傾けた。

 磯原の生家では、特別に、居間を見せていただいた。

二階にある、雨情の書斎には、素朴な文机があり、京都の清水寺を模した濡れ縁に囲まれ、松とさるすべりの木が、美しい花を咲かせていた。

昔は、その居間から海が臨まれ、赤い月が昇るのを、雨情は見ていたという。

雨情と同じ視覚に立ったとき、私は彼の気配を背中に感じた。

野口雨情との出会い、不二子さんとの出会いは、これからの私の歌手としての生き方、そして指針をいただくものになった。

 5日間の録音は、毎日7時間近くの闘いであった。

乾燥を防ぐため、霧吹きで髪や顔を濡らし、濡れたバスタオルをあたまからかぶった。

そのバスタオルの中で、何度か、私は泣いた。

日本の歌が、私に背を向けた。

声が、日本の言葉にならない。

響きにならないのだ。

1曲毎に、発声を変えた。

ベルカント、ドイツ唱法、そして小唄を歌うように、こぶしをつけ、首を振った。

 長い闘いの末、ようやく暗い道に明かりが見えてきたが、1曲に2時間以上もかかった。

ヨーロッパでも、レコード録音は数多く経験しているが、今回の録音は、まさに私が歩いてきた人生航路だった。

山あり谷あり。

崖っぷちに立たされた。

そんな時、ピアニストの佐藤和子さんの、けなげな笑顔が私を救ってくれた。

長年培ってきた、お互いの呼吸法で、私たちは、この難局を乗り越えようとした。

そうだ、歌詞を、詩を語ろう。

歌わないで、物語を語ろう。

一つ一つの曲のつながり、長い人生航路を歌おう。

私は、絶唱した。

 レコード録音が完了した日、私は、濡れたバスタオルを頭からかぶって泣いた。

幸せで、うれしかった。

ホッとした。

歌えた。

闘いの日々ではあったけれど、歌手として、新しい分野が生まれたことを実感した。

 私を勇気づけ、新しい目を開かせてくださった、ユニバーサルのスタッフの皆さんに、まずは感謝の気持ちを届けたいと思います。

ゆったりと時間をくださり、心ゆくまで歌わせてくださったことに、心から、お礼を申し上げます。

また、素晴らしいホールを提供してくださり、大変なご配慮をいただいた、有漢地域局のスタッフの皆様方に、心から感謝申し上げます。

多くの皆様に支えられての、日本のレコーディングでした。

 ダンケシェーン。そして、アウフヴィーダーセン、またお会いしましょう。

2007年5月、ウィーンにて

私の娘たち、サンドラとソフィに

アンネット・一恵・ストゥルナート

過日、アンネットさんのCDを聴かせていただいた時、背筋がゾクゾクッをするような感動をおぼえたのですが、この文章を読んで、なるほどと、うなずける気がしたものです。

皆さんにも、アンネットさんの想いをお伝えしたくて、紹介させていただきました。

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