(中野 雄 さんの記事の続きです。)
世に出た砂中のダイヤモンド
国立歌劇場入団後、アンネットさんは有色人種であるが故に「黄色の猿」と呼ばれ、夢を託したウィーンでも、厳しい差別と迫害を受ける。しかし親日家であったカラヤンの庇護を受け、バーンスタインにもその人柄と歌唱力を愛されて、その地位は次第に揺るぎなきものになっていった。2006年の暮れに出版された自叙伝『ウィーン わが夢の町』(新潮社)のオビには「ひとは、これほどの目に遭っても花を咲かすことができるものか」という言葉が記されている。「その通りだ」と、私も思う。前記の自伝によると、「歌い続けたい」という彼女の希望が若き日の恋を破綻させ、遂にはウィーンで造り上げた元貴族との家庭も崩壊させてしまったという。だがアンネットさんは、齢70歳に近い現在でも、歌の道を諦める気持ちは毛頭ないようである。家族と音楽への想いの間(はざま)に立たされて、自殺を図ったこともあったと聞く。
アンネットさんとお知り合いになってしばらくして、私はNHKのラジオ深夜便で、彼女が自費で製作されたCDから、有名な<ウィーン、わが夢の街>を放送した。2004年3月のことである。歌声を聴き、一途の人生航路に感動した担当アンカー・遠藤ふき子さんが即座にインタビューを申し込み、今度はおふたりの対談「国際舞台で歌い続けて」が、全国聴取者の反響を招(よ)ぶことになる。
自伝の上梓、今回のCD録音は、ラジオ深夜便で深夜半に流れた、アンネットさんの、ウィーンからの歌声が契機となって実現した、これ全て「運命の神のお導き」としか説明のしようのない出来事である。NHKは更に、人気番組「課外授業 ようこそ先輩」の主役に彼女を起用して、総合TVの電波に乗せた。舞台は少女時代、孤独の日々を過ごしたあの岡山県吹屋町の小学校であった。
CD制作に当たり、録音スタッフはレコーディングの場所を、あえてその吹屋町とその近くのホールに選んだと聞く。歌は、歌詞・メロディもさることながら、歌い手の”心の表現”でなければならない。そのためには、音や響きもさることながら、まず歌う場所の設定から考えるーー心遣いの細やかさ、歌手アンネットさんへの配慮に、私は胸を衝かれる思い出あった。しかも彼女は、録音現場でのスタッフとの厳しいやりとちの最中、「19歳の頃修行させられた邦楽=三味線、琴、小唄などの記憶が突然脳中に蘇り、日本歌曲入魂の歌唱を扶けました。人生に無駄なんてないんですねぇ」と語って涙ぐんだのである。
ダイヤモンドは砂中に埋もれていても、いつかは世に顕れて光彩を放つ。アンネットさんが故郷に寄せる歌声は、私達に生きることの意味と素晴らしさを、言わず語りに教えてくれているようである。』
世に出た砂中のダイヤモンド
国立歌劇場入団後、アンネットさんは有色人種であるが故に「黄色の猿」と呼ばれ、夢を託したウィーンでも、厳しい差別と迫害を受ける。しかし親日家であったカラヤンの庇護を受け、バーンスタインにもその人柄と歌唱力を愛されて、その地位は次第に揺るぎなきものになっていった。2006年の暮れに出版された自叙伝『ウィーン わが夢の町』(新潮社)のオビには「ひとは、これほどの目に遭っても花を咲かすことができるものか」という言葉が記されている。「その通りだ」と、私も思う。前記の自伝によると、「歌い続けたい」という彼女の希望が若き日の恋を破綻させ、遂にはウィーンで造り上げた元貴族との家庭も崩壊させてしまったという。だがアンネットさんは、齢70歳に近い現在でも、歌の道を諦める気持ちは毛頭ないようである。家族と音楽への想いの間(はざま)に立たされて、自殺を図ったこともあったと聞く。
アンネットさんとお知り合いになってしばらくして、私はNHKのラジオ深夜便で、彼女が自費で製作されたCDから、有名な<ウィーン、わが夢の街>を放送した。2004年3月のことである。歌声を聴き、一途の人生航路に感動した担当アンカー・遠藤ふき子さんが即座にインタビューを申し込み、今度はおふたりの対談「国際舞台で歌い続けて」が、全国聴取者の反響を招(よ)ぶことになる。
自伝の上梓、今回のCD録音は、ラジオ深夜便で深夜半に流れた、アンネットさんの、ウィーンからの歌声が契機となって実現した、これ全て「運命の神のお導き」としか説明のしようのない出来事である。NHKは更に、人気番組「課外授業 ようこそ先輩」の主役に彼女を起用して、総合TVの電波に乗せた。舞台は少女時代、孤独の日々を過ごしたあの岡山県吹屋町の小学校であった。
CD制作に当たり、録音スタッフはレコーディングの場所を、あえてその吹屋町とその近くのホールに選んだと聞く。歌は、歌詞・メロディもさることながら、歌い手の”心の表現”でなければならない。そのためには、音や響きもさることながら、まず歌う場所の設定から考えるーー心遣いの細やかさ、歌手アンネットさんへの配慮に、私は胸を衝かれる思い出あった。しかも彼女は、録音現場でのスタッフとの厳しいやりとちの最中、「19歳の頃修行させられた邦楽=三味線、琴、小唄などの記憶が突然脳中に蘇り、日本歌曲入魂の歌唱を扶けました。人生に無駄なんてないんですねぇ」と語って涙ぐんだのである。
ダイヤモンドは砂中に埋もれていても、いつかは世に顕れて光彩を放つ。アンネットさんが故郷に寄せる歌声は、私達に生きることの意味と素晴らしさを、言わず語りに教えてくれているようである。』