私の研究日記(映画編)

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『懺悔』(Theater)

2009-03-09 01:55:24 | さ行

監督:テンギズ・アブラゼ
脚本:ナナ・ジャネリゼ、テンギズ・アブラゼ、レゾ・クベセラワ
撮影:ミヘイル・アグラノビチ
音楽:ナナ・ジャネリゼ
出演:アフタンディル・マハラゼ、ゼイナブ・ボツバゼ、ケテバン・アブラゼ、エディシェル・ギオルゴビアニ
製作:1984年
製作国:旧ソ連
時間:153分


 岩波ホールにて観賞(2009年2月12日)。




 あらすじ。「かつて市長として権力を振るっていた男ヴァルラム(アフタンディル・マハラゼ)が死んだ。葬式の後、埋葬された遺体が掘り起こされる事件が三度も続けて起こる。警察が墓を張り込む中、ヴァルラムの孫のトルニケが放った銃弾がやって来た犯人の肩を打ち抜く。犯人はケテヴァン(ゼイナブ・ボツバゼ)という女性だった。彼女は法廷で自分の行為は罪ではないと主張。そしてヴァルラムが彼女の両親を「粛清」し、人生を大きく狂わした張本人であることを訴える」(『映画生活』からの引用)。


 登場人物の誰に焦点を合わせれば良いのか分からない・・・。登場人物の心理を描写するシンボリックな映像が唐突過ぎて混乱する・・・。など、慣れるまでは戸惑うことばかり。物語の展開になかなか乗ることができなかった。個人的には難解な映画の部類に入れたい(笑)。でも、筋を掴んでからは、登場人物に容易に感情移入できたし、シンボリックな映像も楽しむことができた。何より、歴史的な教訓についてあれこれと考えさせられ、また、この作品が生まれた当時の歴史的な変化を感じる作品だった。


 


 物語の大部分は、ケテヴァンの回想に沿って展開していく。そこで描かれるのは、ヴァルラム市政で行われた粛清の嵐。高校の世界史の授業で習ったスターリンの大粛清、あるいは『ワイルド・スワン』(ユン チアン)や『大地の子』(山崎豊子)に描かれていた中国の文化大革命を彷彿とさせる。


 あらすじで述べたように、そうした粛清の嵐の犠牲者の中には、ケテヴァンの両親も含まれている。幼い頃のケテヴァンが、父のメッセージが記された材木を見つけるため、母とともに材木置場中を探して回る様子は、思わず胸が締め付けられてしまう。可哀そうな場面だった。そうした悲哀はもちろんとして、作品全体を通して痛切に感じたのは、言われなき咎によって重い罪を着せられ、しかも、それが為政者のエゴによって行われているという不条理。そして、それを平気で行えるヴァルラムや、そんな彼を「偉大な人物」と崇拝する人々の狂気である。

 こうして作品の中に描き出された不条理と狂気。この作品が大粛清を経験した旧ソ連で生まれたということを考えると、いかにも意味ありげである。長い人類の歴史を辿れば、作品で描かれたような悲劇は、いくらでも見出すことができる。そうした悲劇がたびたび繰り返されてきたということは、この先も繰り越される可能性があると考えるのが当然だろう。法廷でケテヴァンは訴えている。「私の目的は彼に対する復讐ではありません。ヴァルラムは私にとって忘れ得ぬ不幸と苦悩の源泉なのです」と。スターリン時代の粛清で亡くなった人は70万人以上。そんな旧ソ連で作られた映画なだけに、作品に描かれていた不条理や狂気は、過去の悲劇を忘れてはいけないという、切実なメッセージだったのではないだろうか。


 上述の通り、この映画の製作年は1984年だが、グルジアの首都トビリシでようやく公開されたのは1986年。完成してから2年後のことだった(モスクワでの公開は、その翌年の1987年)。内容が内容だけに、公開までに時間がかかったのは当然だと思うが、無事公開までこぎつけることができたのは、ゴルバチョフのペレストロイカと無関係ではないだろう。1985年にゴルバチョフが書記長に就任して以来、政治犯が釈放されたり、テレビや新聞が政府を批判出来るようになった。この作品が生まれ公開されたのも、ようやく解き放たれた政治的自由があったればこそだったろう。この映画が「ペレストロイカの象徴」とされるのも納得である。






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