私の研究日記(映画編)

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『路上のソリスト』(Theater)

2009-10-05 00:39:04 | ら行
監督:ジョー・ライト
製作:ゲイリー・フォスター、ラス・クラスノフ
撮影:シーマス・マクガービー
美術:サラ・グリーンウッド
音楽:ダリオ・マリアネッリ
出演:ジェイミー・フォックス、ロバート・ダウニー・Jr.、キャサリン・キーナー、トム・ホランダー、リサ・ゲイ・ハミルトン
製作:2009年(アメリカ)
時間:1時間57分

 シネプレックス幕張にて鑑賞(2009年8月23日)。

 あらすじ。「ロペスはある日、べートーヴェンの銅像のある公園で2本しか弦のないヴァイオリンを弾くホームレス、ナサニエル・エアーズに出会う。彼の演奏する音楽の美しい響きにひかれコラムのネタに取材をはじめる。まもなく彼は、ナサニエルが将来を嘱望されたチェロ奏者で、ジュリアード音楽院の学生だった事を知る。なぜ才能ある音楽家が、LAの路上生活者になったのか?そして、家も家族もない彼が、なぜ音楽だけは捨てずに生きてきたのか? やがて、ロペスはナサニエルの感動の物語を発見するのだった」(『映画生活』からの引用)。

 社会派映画を作ったつもりはない、というのが監督ジョー・ライトの弁だが、この発言には若干無理があると思う。

 物語の舞台はロサンゼルス。あらすじにあるように、ナサニエルはこの町のホームレスである。彼を通じて垣間見られるロサンゼルスの貧困の様相は、他の映画作品やテレビドラマからは、とても想像がつかない。むしろ思い出すのは『ツォツィ』や『スラムドッグ$ミリオネア』のような途上国のスラムである。



 というこの作品を見ていて、「はっ!」とさせられるのが、ホームレスの中に混じる障害を持った人々。ナサニエルもその内の一人である。身障者の雇用がなかなか進まない日本では、家族の経済的支援が支えになっているからだと思うが、障害を持つことは必ずしも貧困を意味しない。障害が貧困に直結しやすいアメリカ社会の一側面を捉えた作品といえるだろう。

 また、作中、興奮したナサニエルがロペスを組み伏せ、自分はロペスをMrと敬称で呼ぶのに、ロペスは自分のことをただナサニエルとしか呼んでくれない、と非難する場面がある。温厚だった彼の豹変にアッと驚き、緊張する場面だ。と同時に、同情されたり哀れみの目で見られることはあっても、決して対等の立場では扱ってはもらえない身体障害者や貧者の尊厳について考えさせられる場面でもある。スティグマ※の傾向が強いアメリカならではの問題であり、少なからず日本にも当てはまる問題なのではないだろうか。

 『路上のソリスト』というタイトルから、去年見た『奇跡のシンフォニー』のようなドラマチックな展開を期待してしまったが、決して楽しみながら鑑賞できるという作品ではない。見る前の印象と違ってズシリと重みのある作品だった。むしろ、監督ジョー・ライトの言葉とは裏腹に、見応えのある社会派作品といえるだろう。

 ホームページは、すばらしい音楽を堪能することができるのでお勧めである。

※スティグマというのは、ナサニエルのような身障者や貧者に対し、例えば「社会的弱者」というようなレッテルを貼ること。福祉国家に関する研究書などを読むと必ず出てくる言葉である。アメリカ(や日本)のようにGDPに占める社会保障費の少ない国ほど、社会保障支出(あるいはチャリティも)は健常者と同様の生活を営むことができない人々に集中するので、この傾向が強くなるという。確かに、日本の「生活保護」などその典型的な例といえるだろう。スウェーデンのような北欧諸国では、手厚い公的な福祉サービスを受けることは当然であり、スティグマは生じにくいのだそうだ。