「ファチマの聖母 2」 から、聖ジャシンタについて引用します。
ジャシンタ(1917年10月-1920年2月20日)
ジャシンタは兄のフランシスコとはかなり違った性格と気質を持っていました。兄と妹はファチマの聖母のメッセージの二つの面をそれぞれ生きる相補的な使命を摂理によって与えられたかのようでした。
フレール・ミッシェルはそのことについて次のようなことを言っています。瞑想的な魂を持っていたフランシスコはとりわけ神と聖母の悲しさに惹かれ、イエズスとマリアの苦しみに同情し、祈りによってイエズスとマリアの御心を慰めることを強く望んでいました。ジャシンタもまた優しい、愛情に溢れた心の持ち主でしたが、彼女は多くの霊魂が地獄の火の中に陥るのを見て心を痛め、できるかぎり彼らの罪の償いをし、マリアの汚れなき御心から彼らの回心の恵みを得たいと思いました。
聖母が1917年8月13日に告げられたメッセージの「祈りなさい。たくさん祈りなさい。そして罪人たちのために犠牲を捧げなさい。多くの魂が、彼らのために犠牲を捧げたり、祈ったりしてくれる人を持っていないからです」という言葉は彼女の心を捉え、彼女は聖母のこのメッセージを身をもって生きます。彼女の望みはできるかぎり多くの霊魂の救いであり、罪人の回心でした。そしてその罪人の回心のために祈りと犠牲を捧げました。
ジャシンタは6回の聖母御出現が終わった後にも、1920年2月に亡くなるまでの間、絶えず聖母の御出現を受ける恵みを神から戴いていました。1917年10月13日以降、ファチマの教区司祭フェレイラ師がその手記を完成させた1918年8月6日までのわずか10ヶ月くらいの間にも、聖母が少なくともジャシンタに3回御出現になった、とフェレイラ師はその手記の中に書いています。
シスター・ルシアの手記にはこれらのジャシンタへの聖母の御出現については何も述べていません。ルシアはその手記の中で、ジャシンタには独特の預言的な幻視があったことに触れています。それは1917年7月13日の秘密のなかで告知された出来事に関する幻視です。おそらく1917年7月13日からジャシンタがインフルエンザで病床につくまでの1918年10月の間のいつかにあった出来事です。
三人でシエスタ(お昼寝)を終えた後、ジャシンタがルシアを呼んで次のような光景が見えないかどうか訊ねます。ルシアには見えませんでした。教皇が大きな家にいて、手で顔を覆い、テーブルのところに跪いています。教皇は泣いていました。家の外には多くの人がおり、ある人々は石を投げ、他の人々は教皇を呪い、きたない言葉を使っていました。ジャシンタはこう言います。可哀想な教皇、わたしたちは教皇のためにたくさん祈らなければなりません、と。
別の日に彼らがラパ・ド・カベソという洞窟に行ったとき、ジャシンタは次のような幻視を経験しています。道に人々が溢れ、彼らは食べ物がなくて飢えて泣き叫んでいます。教皇がある教会の中で聖母マリアの汚れなき御心の前で祈っています。多くの人々が教皇と一緒に祈っています。
これらの幻視は7月13日の聖母の預言、教皇の迫害や戦争の勃発に関係しています。これらのジャシンタの幻視は聖母がこの純真で感受性の鋭い小さな魂に聖母の御心を打ち明けられたものだ、とルシアは思いました。聖母のメッセージは私的・個人的性格のものではなく、全世界に向けられた公的な性格のものでした。聖母はジャシンタに未来を明らかにされ、教皇が迫害され、嘲けられ、見捨てられる様を見せられました。ジャシンタは教皇のためにどれほど祈らなければならないかを理解しました。
1918年10月の終わりにジャシンタがインフルエンザにかかったとき彼女はそれが苦しみの始まりであることを自覚していました。彼女はすでに「十字架を通して光へ、死を通して生へ」(Per crucem ad lucem. Per mortem ad vitam)至るべきことを天使からそして聖母から教えられていました。1916年夏にアルネイロの井戸のそばで三人の子どもたちは天使から「主が与え給う苦しみを従順に受け入れ、堪え忍びなさい」と言われていました。
また1917年5月13日には聖母から「あなたがたは、神に背く罪の償いと罪人たちの回心への嘆願の行いとして、喜んであなたがた自身を神に捧げ、神があなたがたにお与えになるすべての苦しみを耐えますか」と訊かれて、ルシアは皆を代表して、「はい、喜んで」と答えています。聖母はそのときこう言われました。「それでは、あなたがたは多く苦しむことになるでしょう。しかし、神の恩寵があなたがたの慰めとなるでしょう。」この時以来、ジャシンタはどれほど多くの祈りと犠牲をアルネイロの井戸のそばで捧げたことでしょう!
ジャシンタが病状がすこしよくなったときにルシアに次のように打ち明けたことがあります。彼女と兄のフランシスコに聖母が御出現になり、「フランシスコをまもなく天国に連れてゆきます」と言われましたが、ジャシンタに「罪人をもっとたくさん回心させることを望んでいますか」と訊ねられました。ジャシンタが「はい」と答えると、聖母はたくさん苦しむために病院に行くことになる、癒されるためにではなく、主の愛のため、また罪人のためにもっと苦しむために二つの病院に行くことになる、とジャシンタに告げられました。
ジャシンタは苦しむことが多ければ多いほど、それだけ多くの霊魂を地獄の火から救うことができるということを理解していました。このようにして、ジャシンタは家族やルシアから遠く離れた病院で孤独のうちにその短い生涯を終えることになります。
ジャシンタは1918年10月の終わり以降、気分のいい数日間を除いてベッドから離れることができませんでした。気管支肺炎の後に肋膜炎が彼女に大きな苦しみを与えました。彼女は自分の苦しみについて決して愚痴を言わないようにしていました。それは一つには母親であるオリンピアに対する繊細な配慮からであり、一つにはこのおまけの犠牲を捧げるためでした。ジャシンタは母親に言わない苦しみをルシアには告げていますが、こうつけ加えています。「わたしはわが主のため、マリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いのため、教皇のためそして罪人の回心のために苦しみたいの」。
ジャシンタは誰の目から見ても愛すべき、感受性に富んだ、愛情深い心の持ち主でした。天使と聖母の御出現以来、ルシアやフランシスコとは特別な霊的関係で結ばれ、彼らとの友情は病気になって以来の彼女の最も甘美な慰めでした。ジャシンタはこの幸せの最後の源をも犠牲として捧げるために断念しようと努めていました。
1919年4月4日にフランシスコが亡くなる少し前に、ジャシンタはルシアのいる前でフランシスコにこう頼んでいます。「わたしの愛のすべてを主と聖母に捧げます。罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために主と聖母がお望みになるだけ、わたしは苦しみます、とお二人に伝えてちょうだい。」
フランシスコとの別れはジャシンタの心を引き裂きましたが、その悲しみ、苦しみを犠牲として捧げました。前にも述べましたように、病床に釘付けにされて、彼女は愛する兄の葬儀にも参加できませんでした。
1919年7月に医師の勧めで、ジャシンタはヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの聖アウグスティヌス病院に入院することになりました。このようにして聖母の預言は実現されるのです。ジャシンタは自分が癒されるためでなく、苦しむために入院するのだということを知っていました。
7月1日から8月31日までの2ヶ月間の入院生活はジャシンタには大きな苦しみを与えましたが、とりわけ彼女の苦しみを大きくしたのは孤独でした。フランシスコを失って、残るルシアにジャシンタは会いたくてたまりませんでした。アルジュストレルの村からヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムまでは15キロメールほどの距離があり、行くのは大変でした。それでも、母親のオリンピアはルシアを連れて2度ジャシンタの見舞いに行っています。このときにも、ジャシンタはルシアに大きな苦しみを罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために捧げると伝えています。
8月末に治療の結果もはかばかしくなく、またマルト家の家計も許さなくなったので、ジャシンタは退院して家に帰ります。ジャシンタは横腹の傷が化膿し、傷口がふさがりませんでした。彼女はいつも熱があり、身体は骸骨のように痩せていました。
ルシアは2年前に3人で訪れたカベソの丘へ行って、アイリスやシャクナゲの花を摘んでジャシンタの病床に持って行きます。ジャシンタは「わたしはもう二度とあそこに、そしてヴァリニョスやコヴァ・ダ・イリアにも行けないわ」と言って涙を流します。ルシアは「それが何よ。あなたは天国に行って主イエズスや聖母に会えるじゃないの」と言ってジャシンタを慰めます。ジャシンタにはもう残された時間はあまりありません。そのわずかの期間にはもっと辛い日々が待っていました。
ジャシンタがルシアに語ったところによれば、1919年12月に聖母がジャシンタに御出現になり次のように言われたとのことです。ジャシンタはリスボンの病院にもう一度入院することになる、ルシアとはもう会えない、両親や兄弟とも会えない、たった一人病院で死ぬと。しかし、聖母はそのとき、御自分がジャシンタを天国に連れにくるから、怖がらなくてもよいとジャシンタに言われました。この聖母の預言は思いがけない仕方で実現されます。
ジャシンタの両親はヴィラ・ノヴァの病院での治療が思わしくなかったので、娘を別の病院に入院させることは無益だと考えていました。1920年1月半ば頃にリスボンの有名な医師であるリスボア博士がファチマを訪れ、フォルミガオ神父とサンタレムの神学校教授に会い、ジャシンタの治療について協力を求めました。この医師と教授の説得を受け、両親はフォルミガオ神父にも相談して、ジャシンタを首都リスボンの病院に送る決心をしました。
ファチマを永遠に去ることが決まって、ジャシンタは母親に願って最後の機会にコヴァ・ダ・イリアへ連れて行って貰いました。もちろんジャシンタは自分で歩けませんので、ロバの背に乗せられてそこへ行きました。カレイラ池についたとき、ジャシンタはロバから下りて、一人でロザリオの祈りを唱えました。彼女はチャペルに供えるために花を摘みました。チャペルでは跪いて祈りました。そして母親のオリンピアに聖母が御出現になったときの様子を語って聞かせるのでした。
ついにファチマを去る日が来ました。ジャシンタはルシアと抱き合って最後のお別れをしました。「わたしのためにたくさん祈ってね。わたしが天国に行ったらあなたのためにたくさん祈るわ。秘密を絶対漏らさないでね。イエズス様とマリアの汚れなき御心をたくさん愛してくださいね。そして罪人たちのためにたくさん犠牲を捧げてくださいね」
そう言って彼女は泣きました。母親と長兄のアントニオが付き添って行くことになりました。リスボンまで汽車に乗っての旅でした。
リスボンで彼女たちを病院に入るまでの間引き受けてくれるはずであった人が、ジャシンタのあまりにも惨めな状態を見て、引き受けることを拒みました。ジャシンタは傷口が化膿していて、いやなにおいを発していたこともありました。
何軒も家を廻って断られたあげく、最後に一軒の家に受け入れて貰い、一週間ほどそこにいて、オリンピアとアントニオはファチマへ帰りました。ジャシンタは最終的に「奇蹟の聖母」と呼ばれる孤児院に受け入れられました。
その施設の創設者マザー・ゴディーニョは最年少の幻視者の一人を自分のところに受け入れられたことをたいへん喜び、自分に与えられた名誉を誇らしく思いました。ジャシンタはその施設でミサに与り、御聖体を拝領するという思いがけない恵みを受けたことを喜びました。
リスボア博士はジャシンタを入院させて、手術をしようと思っていましたが、思いがけず母親のオリンピアの強い反対に出会いました。しかし、オリンピアも最終的には同意して、1920年2月2日にジャシンタは「奇蹟の聖母」孤児院を出て、ドナ・エステファニア病院小児病棟に入院します。
彼女は自分の最期が近いことを知っていましたが、それとは関係なしに事は進みます。彼女は孤児院にいたときのような、御聖体を礼拝したり、拝領したりできなくなりました。そのことはまさに彼女にとって一つの大きな犠牲でした。マルト家では他の子どもたちが病気にかかり、オリンピアはジャシンタを置いて帰郷しなければならなくなりました。
2月5日、ジャシンタは一人きりになりました。マザー・ゴディーニョや他の女性たちが毎日、見舞いには来てくれましたが、母親に代わることはできませんでした。このようにして、聖母の預言は実現されました。ジャシンタはこの大病院の中でたった一人で死んで行かなければなりません。
ジャシンタの手術を担当したのはカストロ・フェレイレ博士でした。「化膿した肋膜炎。左第7および第8肋骨骨炎」という診断でした。手術は2月10日に行われました。2本の肋骨が切除されました。毎日の傷の手当は耐えられないほどの苦痛を与えました。ジャシンタは聖母の御名を繰り返していました。
父親が一度見舞いに来ましたが、長く滞在できず、苦痛と孤独に悩まされているジャシンタを残して直ぐに帰りました。死の3日前、ジャシンタはマザー・ゴディーニョにこう打ち明けています。「マザー、わたしはもう痛みがありません。聖母がまた御出現になって、もうすぐわたしを連れていく、わたしはもう苦しまないでしょう、とおっしゃいました」。
リスボア博士が術後の経過のよいことを父親のマルト氏とアルヴェアゼレ男爵に手紙を書きましたが、ジャシンタは彼女の死の日時を知っていました。リスボア博士の報告によれば、2月20日金曜日の夕方6時頃、ジャシンタは気分が悪くなったから終油の秘蹟を受けたいと言いましたので、教区司祭のペレイラ・ドス・レイス博士が呼ばれました。夜8時頃に彼はジャシンタの告悔を聞きました。
ジャシンタは臨終の聖体拝領をさせてほしいと頼みましたが、レイス神父は彼女が元気そうに見えたので、その願いに同意せず、明朝御聖体を持って来てあげると言いました。ジャシンタは繰り返し、まもなく死ぬから臨終の聖体拝領をさせてほしいと願いました。結局その夜彼女は亡くなり、御聖体は拝領しないままでした。
このようにして、聖母の預言がすべて実現しました。ジャシンタはその最期に両親や友人も誰一人そばに付き添わずにたった一人で亡くなりました。彼女があれほどに望んでいたホスチアの中に現存されるイエズスをいただくという至高の慰めからも遠ざけられて最大の犠牲を捧げたのでした。
ジャシンタ(1917年10月-1920年2月20日)
ジャシンタは兄のフランシスコとはかなり違った性格と気質を持っていました。兄と妹はファチマの聖母のメッセージの二つの面をそれぞれ生きる相補的な使命を摂理によって与えられたかのようでした。
フレール・ミッシェルはそのことについて次のようなことを言っています。瞑想的な魂を持っていたフランシスコはとりわけ神と聖母の悲しさに惹かれ、イエズスとマリアの苦しみに同情し、祈りによってイエズスとマリアの御心を慰めることを強く望んでいました。ジャシンタもまた優しい、愛情に溢れた心の持ち主でしたが、彼女は多くの霊魂が地獄の火の中に陥るのを見て心を痛め、できるかぎり彼らの罪の償いをし、マリアの汚れなき御心から彼らの回心の恵みを得たいと思いました。
聖母が1917年8月13日に告げられたメッセージの「祈りなさい。たくさん祈りなさい。そして罪人たちのために犠牲を捧げなさい。多くの魂が、彼らのために犠牲を捧げたり、祈ったりしてくれる人を持っていないからです」という言葉は彼女の心を捉え、彼女は聖母のこのメッセージを身をもって生きます。彼女の望みはできるかぎり多くの霊魂の救いであり、罪人の回心でした。そしてその罪人の回心のために祈りと犠牲を捧げました。
ジャシンタは6回の聖母御出現が終わった後にも、1920年2月に亡くなるまでの間、絶えず聖母の御出現を受ける恵みを神から戴いていました。1917年10月13日以降、ファチマの教区司祭フェレイラ師がその手記を完成させた1918年8月6日までのわずか10ヶ月くらいの間にも、聖母が少なくともジャシンタに3回御出現になった、とフェレイラ師はその手記の中に書いています。
シスター・ルシアの手記にはこれらのジャシンタへの聖母の御出現については何も述べていません。ルシアはその手記の中で、ジャシンタには独特の預言的な幻視があったことに触れています。それは1917年7月13日の秘密のなかで告知された出来事に関する幻視です。おそらく1917年7月13日からジャシンタがインフルエンザで病床につくまでの1918年10月の間のいつかにあった出来事です。
三人でシエスタ(お昼寝)を終えた後、ジャシンタがルシアを呼んで次のような光景が見えないかどうか訊ねます。ルシアには見えませんでした。教皇が大きな家にいて、手で顔を覆い、テーブルのところに跪いています。教皇は泣いていました。家の外には多くの人がおり、ある人々は石を投げ、他の人々は教皇を呪い、きたない言葉を使っていました。ジャシンタはこう言います。可哀想な教皇、わたしたちは教皇のためにたくさん祈らなければなりません、と。
別の日に彼らがラパ・ド・カベソという洞窟に行ったとき、ジャシンタは次のような幻視を経験しています。道に人々が溢れ、彼らは食べ物がなくて飢えて泣き叫んでいます。教皇がある教会の中で聖母マリアの汚れなき御心の前で祈っています。多くの人々が教皇と一緒に祈っています。
これらの幻視は7月13日の聖母の預言、教皇の迫害や戦争の勃発に関係しています。これらのジャシンタの幻視は聖母がこの純真で感受性の鋭い小さな魂に聖母の御心を打ち明けられたものだ、とルシアは思いました。聖母のメッセージは私的・個人的性格のものではなく、全世界に向けられた公的な性格のものでした。聖母はジャシンタに未来を明らかにされ、教皇が迫害され、嘲けられ、見捨てられる様を見せられました。ジャシンタは教皇のためにどれほど祈らなければならないかを理解しました。
1918年10月の終わりにジャシンタがインフルエンザにかかったとき彼女はそれが苦しみの始まりであることを自覚していました。彼女はすでに「十字架を通して光へ、死を通して生へ」(Per crucem ad lucem. Per mortem ad vitam)至るべきことを天使からそして聖母から教えられていました。1916年夏にアルネイロの井戸のそばで三人の子どもたちは天使から「主が与え給う苦しみを従順に受け入れ、堪え忍びなさい」と言われていました。
また1917年5月13日には聖母から「あなたがたは、神に背く罪の償いと罪人たちの回心への嘆願の行いとして、喜んであなたがた自身を神に捧げ、神があなたがたにお与えになるすべての苦しみを耐えますか」と訊かれて、ルシアは皆を代表して、「はい、喜んで」と答えています。聖母はそのときこう言われました。「それでは、あなたがたは多く苦しむことになるでしょう。しかし、神の恩寵があなたがたの慰めとなるでしょう。」この時以来、ジャシンタはどれほど多くの祈りと犠牲をアルネイロの井戸のそばで捧げたことでしょう!
ジャシンタが病状がすこしよくなったときにルシアに次のように打ち明けたことがあります。彼女と兄のフランシスコに聖母が御出現になり、「フランシスコをまもなく天国に連れてゆきます」と言われましたが、ジャシンタに「罪人をもっとたくさん回心させることを望んでいますか」と訊ねられました。ジャシンタが「はい」と答えると、聖母はたくさん苦しむために病院に行くことになる、癒されるためにではなく、主の愛のため、また罪人のためにもっと苦しむために二つの病院に行くことになる、とジャシンタに告げられました。
ジャシンタは苦しむことが多ければ多いほど、それだけ多くの霊魂を地獄の火から救うことができるということを理解していました。このようにして、ジャシンタは家族やルシアから遠く離れた病院で孤独のうちにその短い生涯を終えることになります。
ジャシンタは1918年10月の終わり以降、気分のいい数日間を除いてベッドから離れることができませんでした。気管支肺炎の後に肋膜炎が彼女に大きな苦しみを与えました。彼女は自分の苦しみについて決して愚痴を言わないようにしていました。それは一つには母親であるオリンピアに対する繊細な配慮からであり、一つにはこのおまけの犠牲を捧げるためでした。ジャシンタは母親に言わない苦しみをルシアには告げていますが、こうつけ加えています。「わたしはわが主のため、マリアの汚れなき御心に対して犯された罪の償いのため、教皇のためそして罪人の回心のために苦しみたいの」。
ジャシンタは誰の目から見ても愛すべき、感受性に富んだ、愛情深い心の持ち主でした。天使と聖母の御出現以来、ルシアやフランシスコとは特別な霊的関係で結ばれ、彼らとの友情は病気になって以来の彼女の最も甘美な慰めでした。ジャシンタはこの幸せの最後の源をも犠牲として捧げるために断念しようと努めていました。
1919年4月4日にフランシスコが亡くなる少し前に、ジャシンタはルシアのいる前でフランシスコにこう頼んでいます。「わたしの愛のすべてを主と聖母に捧げます。罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために主と聖母がお望みになるだけ、わたしは苦しみます、とお二人に伝えてちょうだい。」
フランシスコとの別れはジャシンタの心を引き裂きましたが、その悲しみ、苦しみを犠牲として捧げました。前にも述べましたように、病床に釘付けにされて、彼女は愛する兄の葬儀にも参加できませんでした。
1919年7月に医師の勧めで、ジャシンタはヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムの聖アウグスティヌス病院に入院することになりました。このようにして聖母の預言は実現されるのです。ジャシンタは自分が癒されるためでなく、苦しむために入院するのだということを知っていました。
7月1日から8月31日までの2ヶ月間の入院生活はジャシンタには大きな苦しみを与えましたが、とりわけ彼女の苦しみを大きくしたのは孤独でした。フランシスコを失って、残るルシアにジャシンタは会いたくてたまりませんでした。アルジュストレルの村からヴィラ・ノヴァ・デ・オウレムまでは15キロメールほどの距離があり、行くのは大変でした。それでも、母親のオリンピアはルシアを連れて2度ジャシンタの見舞いに行っています。このときにも、ジャシンタはルシアに大きな苦しみを罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために捧げると伝えています。
8月末に治療の結果もはかばかしくなく、またマルト家の家計も許さなくなったので、ジャシンタは退院して家に帰ります。ジャシンタは横腹の傷が化膿し、傷口がふさがりませんでした。彼女はいつも熱があり、身体は骸骨のように痩せていました。
ルシアは2年前に3人で訪れたカベソの丘へ行って、アイリスやシャクナゲの花を摘んでジャシンタの病床に持って行きます。ジャシンタは「わたしはもう二度とあそこに、そしてヴァリニョスやコヴァ・ダ・イリアにも行けないわ」と言って涙を流します。ルシアは「それが何よ。あなたは天国に行って主イエズスや聖母に会えるじゃないの」と言ってジャシンタを慰めます。ジャシンタにはもう残された時間はあまりありません。そのわずかの期間にはもっと辛い日々が待っていました。
ジャシンタがルシアに語ったところによれば、1919年12月に聖母がジャシンタに御出現になり次のように言われたとのことです。ジャシンタはリスボンの病院にもう一度入院することになる、ルシアとはもう会えない、両親や兄弟とも会えない、たった一人病院で死ぬと。しかし、聖母はそのとき、御自分がジャシンタを天国に連れにくるから、怖がらなくてもよいとジャシンタに言われました。この聖母の預言は思いがけない仕方で実現されます。
ジャシンタの両親はヴィラ・ノヴァの病院での治療が思わしくなかったので、娘を別の病院に入院させることは無益だと考えていました。1920年1月半ば頃にリスボンの有名な医師であるリスボア博士がファチマを訪れ、フォルミガオ神父とサンタレムの神学校教授に会い、ジャシンタの治療について協力を求めました。この医師と教授の説得を受け、両親はフォルミガオ神父にも相談して、ジャシンタを首都リスボンの病院に送る決心をしました。
ファチマを永遠に去ることが決まって、ジャシンタは母親に願って最後の機会にコヴァ・ダ・イリアへ連れて行って貰いました。もちろんジャシンタは自分で歩けませんので、ロバの背に乗せられてそこへ行きました。カレイラ池についたとき、ジャシンタはロバから下りて、一人でロザリオの祈りを唱えました。彼女はチャペルに供えるために花を摘みました。チャペルでは跪いて祈りました。そして母親のオリンピアに聖母が御出現になったときの様子を語って聞かせるのでした。
ついにファチマを去る日が来ました。ジャシンタはルシアと抱き合って最後のお別れをしました。「わたしのためにたくさん祈ってね。わたしが天国に行ったらあなたのためにたくさん祈るわ。秘密を絶対漏らさないでね。イエズス様とマリアの汚れなき御心をたくさん愛してくださいね。そして罪人たちのためにたくさん犠牲を捧げてくださいね」
そう言って彼女は泣きました。母親と長兄のアントニオが付き添って行くことになりました。リスボンまで汽車に乗っての旅でした。
リスボンで彼女たちを病院に入るまでの間引き受けてくれるはずであった人が、ジャシンタのあまりにも惨めな状態を見て、引き受けることを拒みました。ジャシンタは傷口が化膿していて、いやなにおいを発していたこともありました。
何軒も家を廻って断られたあげく、最後に一軒の家に受け入れて貰い、一週間ほどそこにいて、オリンピアとアントニオはファチマへ帰りました。ジャシンタは最終的に「奇蹟の聖母」と呼ばれる孤児院に受け入れられました。
その施設の創設者マザー・ゴディーニョは最年少の幻視者の一人を自分のところに受け入れられたことをたいへん喜び、自分に与えられた名誉を誇らしく思いました。ジャシンタはその施設でミサに与り、御聖体を拝領するという思いがけない恵みを受けたことを喜びました。
リスボア博士はジャシンタを入院させて、手術をしようと思っていましたが、思いがけず母親のオリンピアの強い反対に出会いました。しかし、オリンピアも最終的には同意して、1920年2月2日にジャシンタは「奇蹟の聖母」孤児院を出て、ドナ・エステファニア病院小児病棟に入院します。
彼女は自分の最期が近いことを知っていましたが、それとは関係なしに事は進みます。彼女は孤児院にいたときのような、御聖体を礼拝したり、拝領したりできなくなりました。そのことはまさに彼女にとって一つの大きな犠牲でした。マルト家では他の子どもたちが病気にかかり、オリンピアはジャシンタを置いて帰郷しなければならなくなりました。
2月5日、ジャシンタは一人きりになりました。マザー・ゴディーニョや他の女性たちが毎日、見舞いには来てくれましたが、母親に代わることはできませんでした。このようにして、聖母の預言は実現されました。ジャシンタはこの大病院の中でたった一人で死んで行かなければなりません。
ジャシンタの手術を担当したのはカストロ・フェレイレ博士でした。「化膿した肋膜炎。左第7および第8肋骨骨炎」という診断でした。手術は2月10日に行われました。2本の肋骨が切除されました。毎日の傷の手当は耐えられないほどの苦痛を与えました。ジャシンタは聖母の御名を繰り返していました。
父親が一度見舞いに来ましたが、長く滞在できず、苦痛と孤独に悩まされているジャシンタを残して直ぐに帰りました。死の3日前、ジャシンタはマザー・ゴディーニョにこう打ち明けています。「マザー、わたしはもう痛みがありません。聖母がまた御出現になって、もうすぐわたしを連れていく、わたしはもう苦しまないでしょう、とおっしゃいました」。
リスボア博士が術後の経過のよいことを父親のマルト氏とアルヴェアゼレ男爵に手紙を書きましたが、ジャシンタは彼女の死の日時を知っていました。リスボア博士の報告によれば、2月20日金曜日の夕方6時頃、ジャシンタは気分が悪くなったから終油の秘蹟を受けたいと言いましたので、教区司祭のペレイラ・ドス・レイス博士が呼ばれました。夜8時頃に彼はジャシンタの告悔を聞きました。
ジャシンタは臨終の聖体拝領をさせてほしいと頼みましたが、レイス神父は彼女が元気そうに見えたので、その願いに同意せず、明朝御聖体を持って来てあげると言いました。ジャシンタは繰り返し、まもなく死ぬから臨終の聖体拝領をさせてほしいと願いました。結局その夜彼女は亡くなり、御聖体は拝領しないままでした。
このようにして、聖母の預言がすべて実現しました。ジャシンタはその最期に両親や友人も誰一人そばに付き添わずにたった一人で亡くなりました。彼女があれほどに望んでいたホスチアの中に現存されるイエズスをいただくという至高の慰めからも遠ざけられて最大の犠牲を捧げたのでした。