画像は、昨日に三省堂書店名古屋高島屋店にて久しぶりにも購入した鉄道関連グッズです。画像がやや暗いですが、撮影場所がそうなので、ご了承を。
JR東海はなぜか保安上の理由から、これまで前面展望映像の提供には消極的でしたが、昨今の新型コロナ禍で利用客減少を踏まえて、どうやら、その方針を転換したらしい。
今は亡きキハ85系ことワイドビュー車両はお世辞にも環境に優しいとは必ずしも言えませんでしたが、非電化車両ながらも電車並みの高速性能を有して、高山本線や紀勢東線の電化を回避させ、経費の節減に貢献してくれましたね。
しかしながら、経由する伊勢鉄道線や、また近隣の亀山〜松阪については、今のディーゼルカーではやはり高速性能にやや問題ありか。せめてこの区間だけは315系や313系を自走させるべく、今後も電化を検討したほうが良いのかも。
千葉県内での1960〜70年代の国鉄線。当時の外房線は房総東線、内房線は房総西線でした。気動車王国なものの、客車列車や貨物列車はまだまだ蒸気機関車も多数健在。名古屋地区でもよく見られた逆台形の煙突帽子を被ったC57、C58も目立ちましたね。中でもC57-105、C58-4、183、305が懐かしい。確か新小岩機関区配属でした。
中でも私自身が1969年9月29日に乗ったお名残の325客レ。千葉を12時20分発様の南酒々井経由銚子行き普通列車で牽引はC58-305、中1当時の私自身を乗せた客車はオハ35-70でしたね。そして、その翌々日にはDE10牽引に交代し、総武本線も完全無煙化。しかしながら、全線電化達成は75年3月頃だったと思います。
さらに、当時の私自身が日常的によくお世話になった電車は、何と言ってもカナリア色の101系でした。近隣の京成線も含めて非冷房でしたが。うん。
夏場はもう暑くて、名鉄冷房車の5500系や7000系が妙に恋しくなりましたね。
営団地下鉄東西線は、ようやく東陽町〜西船橋が開業し、5000系とか国鉄の301系とも初めて出逢った時分でしたよ。
さて、これら房総各線は久留里線や木原線以外、75年3月頃には全面的に電化を達成。キハ58系やキハ35系から一斉に165系や183系、113系、73系などに交代しました。電化に伴い廃線となった房総東線での土気旧線も懐かしいですね。大網駅からは逆編成での運行だったかな。
しかしながら、今の関西本線同様で電気機関車は北鹿島や蘇我以遠には一切入らず、佐倉機関区には新たにDD51(主に500番代)を配備しました。
これは関西本線が塩浜貨物線非電化を理由にしているのと同じく、越中島貨物線や大網短絡線が非電化なのが理由だったとか。電気機関車は時折、常磐線からEF80が佐倉辺りまで顔を出していただけでしたね。なぜか成田線木下経由ではなく、いちいち錦糸町辺りから総武本線に入り込んでいたらしい。
でも1997年頃に発売されたの名鉄パノラマスーパー豊橋~新岐阜間の前面展望映像ソフトには飯田線との共用区間も収録されてるので、何で21世紀に入ってから規制されたのかが謎です。
佐倉機関区のDD51は激しい成田闘争に晒されて、僚機が2両焼き討ちにあって廃車になってますね。
ビコムとしては、初のJR東海前面展望ソフト製品になります。
千葉市内には1969年3月から1971年3月まで住んでいました。成田闘争が激しくなった時かな。千葉県内の国鉄線完全無煙化が済んだばかりの頃です。
横須賀・総武快速線はまだ建設中。113系1000番代と101系、キハ58系などが新宿〜秋葉原〜木更津もしくは成田を快速で往来していましたよ。
五井駅前で小湊鉄道グッズを購入致しました。
その後、津田沼の東横INNで1泊しました。
翌日は、神奈川県海老名市の、ロマンスカー博物館へ行きました
海老名駅前の東横INNでまた、1泊致しました。
その後、相模原市のポポンデッタで、
クリアファイルを購入致しました。その後、京王線調布を経由して、淡路町から丸ノ内線に乗り換えて東京駅へ行きました。その後、
新幹線で
帰名
致しましたので
御座います。