goo blog サービス終了のお知らせ 

未来の読書ノート

読んだ本のメモ。あくまでもメモでその本を肯定したとは限らない。そんなノート。

徳富健次郎著 『謀叛論』 (岩波文庫)

2009-09-22 | 哲学
 諸君、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。

 人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるるごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。

 古人はいうた、いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓となると。 ㌻23

 繰り返して日う、諸君、我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀叛しなければならぬ、自己に対して、また周囲に対して。 ㌻24

 未来記=「謀叛」ということばの響きが悪いように感じるが、ここでいう着眼点はまさにそのとおり。「暴力」を肯定することはできないが、著者が幸徳秋水らの行動(ほとんどがでっち上げだが)に、こういう形で応えたことの意義は大きい。

『季論21』第5号 高田純「マルクス・私の一冊」

2009-08-10 | 哲学
 しかし、マルクスによれば、人間は一方的に自然を支配するのではない。人間が自然に対して能動的、創造的な働きかけを行うことができるのは、自然全体に従うことによってである。『資本論』では、人間の生産は自然の全体の物質循環あるいは「物質代謝」に従うことによって可能となり、この循環を撹乱するならば、生産は持続不可能になるといわれる(第一三章)が、このような理解は『経済学・哲学草稿』における「自然主義=人間主義」という思想の具体化であるといえる。 ㌻108

 未来記=「人間が自然に対して能動的、創造的な働きかけを行うことができるのは、自然全体に従うことによってである」ということはとても重要。

永井潔著 『戦後文化運動・一つの軌跡』

2009-08-02 | 哲学
 若い頃のマルクスの文章の一節に、「真理は私一個のものではなく、万人のものである。真理が私を持つのであって、私が真理を持つのではない」という言葉がある。マルクス主義という体系があるとすれば、それは全く開かれた体系であり、実質的には、真理と自由への無限の接近を求める一切の活動の総括を意味しているだろうと思う。 ㌻334

益川敏英著『科学にときめく』

2009-07-19 | 哲学
 パラダイム論が現われる数十年も前に、唯物弁証法に基礎を置いたもっと精微な理論を我々は知っていた。それは、武谷・坂田による学問の発展の法則「三段階論・自然の階層性の哲学」である。学問の発展は現象論、実体論、本質論の三つのフェーズからなると三段階論は主張する。 ㌻147

 未来記=ここには、三段階論に対する益川氏の認識が説明されているが、省略。自然科学と弁証法が切り離せない。益川氏も「自然自体が弁証法的構造しているためと考えられる」と記し、「学問の方法論は科学の発展の法則を、そこに現われる現象を客観的に捉えそれを意識的に適用しようとする学であってみれば、それは唯物弁証法自身といっても言い過ぎではないであろう」と言っている。
 「そこに現われる現象を客観的に捉えそれを意識的に適用しようとする学」ということが大切で、これを逆にすれば観念論に陥り、自然現象を正確に把握することはできない。そして、社会現象もしかり。

尾関周二著『環境思想と人間学の革新』

2009-07-12 | 哲学
 「労働はすべての富の源泉ではない。自然もまた労働と同じ程度に、使用価値の源泉である・・・そして、労働そのものも一つの自然力すなわち人間労働力の発現にすぎない」(マルクス「ドイツ労働者綱領評注」)
 つまり、マルクスによれば、交換価値を構成するものはもっぱら労働(抽象的人間労働)といえるが、使用価値を構成するものは、労働とともに自然もかかわっているのである。さらにいえば、労働そのものも「自然力」の発現にすぎないということによって、マルクス自然と労働(価値創造)の二元化を批判しているのである。 ㌻251~252

尾関周二著『環境思想と人間学の革新』

2009-07-10 | 哲学
 私は以前に、マルクスの労働概念の特徴を、「対象化」として労働概念と「人間と自然の物質代謝」の媒介としての労働概念の統一として指摘した。 ㌻71

 特にこの点にかかわっては、すでにマルクスが当時のドイツのマルクス主義的政党の綱領が、労働のみを富の源泉としていたのを強く批判して、「労働はすべての富の源泉ではない。自然もまた労働と同じ程度に、使用価値の源泉である」(「ドイツ労働者綱領評注」)といったことを思い起こすべきであろう。 ㌻72