この世界で生きてゆくために

ありふれた毎日を繰り返し、時は過ぎていってしまう。
でも、どんな小さい事でも、優しい瞳で世界を見つめたい

防げる「殺人」事件

2006年09月04日 21時56分53秒 | 社会、政治、経済
久しぶりにエクサ先生の本題である「社会、政治、経済」のカテゴリーから。

熊本で子ども3人が亡くなった交通事故の原因は、加害者の公務員が飲酒運転をしていた為でした。加害者が公務員であったため、マスコミも多く取り上げましたし、一部週刊誌では公務員の飲酒通勤が取り上げられています。車通勤しているにも関わらず仕事が終わった後、同僚と酒を飲み車を運転して帰る。許されざる行為です。

私は以前から飲酒運転は「殺人」だと批判してきました。車はとても便利な道具ですが、一つ間違えれば凶器に急変します。だから「運転免許」が必要なんです。免許とは免れ許されると言う漢字。つまり自動車学校へ通い交通法規を勉強して実技の教習を受け試験にパスしたから許される「行為」なのです。
それを一度免許を取得したら自動車学校で口を酸っぱくするほど言われた「飲んだら乗るな、乗るなら飲むな」を蔑(ないがし)ろにする。
凶器を振り回して人ごみを歩くのは通り魔の犯行です。なのに飲酒運転をする犯罪者は罪悪感が少なすぎます。
やはり刑法と道路交通法を改正し、法解釈から見ても飲酒運転は「未必の故意」による「殺人」だと定義すべきです。熊本県の交通死亡事故容疑者は改正された道路交通法では最高刑が20年しか課せられません。3人のかわいい子どもの命を、自分の勝手な欲望を満たす為に奪ったのに20年は軽すぎます。もし性犯罪で3人の子どもを殺したなら、間違いなく死刑が求刑されるでしょう。
今回も断っておきますが、私は死刑を容認する立場ではありません。ただ犯罪の抑止力として死刑が求刑される事を受け止めているだけです。本来なら無期懲役を廃止し、本当の意味で終身刑(生涯刑務所から死ぬまで出られない)か無上限の有期刑、たとえば3人「殺した」今回の容疑者は懲役300年とかを求刑出来れば、飲酒運転という「凶悪犯罪」の抑止力になると思うのです。

飲酒運転は、間違いなく凶悪犯罪です。1トンを超える鉄の塊を時速何十キロで走行させた運動エネルギーを相手構わず制御できずに人を「殺す」のですから、どう考えても通り魔以外の何者でもありません。被害者には何の落ち度も無く、また加害者は酒さえ飲まなければ通り魔にならないのですから。

飲酒運転をする犯罪者は再犯率が高いです。中には飲酒運転で事故を起こし免許が取り消されているにも関わらず、酒を飲み無免許で再び事故を起こし、人を「殺す」凶悪犯罪者がいるのです。その凶悪性と再犯性から見て、飲酒運転と性犯罪は非常に良く似ています。
しかし、性犯罪で「殺人」を犯す場合と、飲酒運転で「過失致死」を起こす場合では、同じ命を奪うのに法的な解釈に違いがあり、被害者感情として無理があります。

長くなりましたが、道路交通法が改正され、飲酒運転が厳罰化されました。それでも減らない飲酒による「殺人」事件。死亡事故ではありません。酒を飲んで楽をしたいと言う欲望を満たす為の凶悪な「殺人事件」を私は許せません。

飲んだら乗るな、乗るなら飲むな!
肝に銘じましょう。