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仙台街探(まちたん)プラス

仙台のグルメ・カフェ・イベント・etc.街の話題をご紹介。プラス岩手、山形、福島の街ネタも。

仙台城下町”辻標”八十八か所巡り⑰ 北目町通りと東三番丁。

2023年11月19日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

北目町通りと東三番丁の二つの辻標をご紹介。

18番辻標「北目町(きためまち)/北目町通(きためまちどおり)」は、

トラストタワーの南西角向かいコンビニ跡前のポスト脇にあります。

簡単にいうと、「村上屋餅店」の目の前です。

「北目町」は、柳町から上染師町に至るまでを北目町といいました。

柳町の大日如来から五橋中までの通りの名称です。

開府前からの古い町で、勢至観音様を守護仏とした二十三夜堂があります。

「北目町通」は、トラストタワーから東二番丁通を越え、

横一線に河北新報社、JR東日本、北目町ガード下をくぐり、東九番丁の報恩寺に至る通りです。

北目町「村上屋餅店」には、市内はもちろん、遠方からもお客様が絶えません。仙台の新名所ですね。

2番辻標「東三番丁(ひがしさんばんちょう)/鉄砲横丁(てっぽうよこちょう)」は、

中央警察署東側、五橋公園の角に設置されています。雨水対策の工事中です。

「東三番丁」は、宮城県庁前から清水小路、五橋まで通じていました。

明治期に宮城学院、河北新報社ができました。かつては弁護士、医者の多い屋敷町で、

戦後は、闇市時代から続く仙台朝市が市民の台所ですね。

「鉄砲横丁」は、五橋公園前から西に延びて東二番丁を横切り、

北目町を西に進んで東北大学の敷地に至る通り。

かつて北目町南角に鍛冶屋があったことが名前の由縁とされています。

道は、東に延長され、清水小路東華学校前(現在のJT仙台ビル付近)に通じていました。

 

五橋公園は、仙台駅から歩いて7~8分、駅前の喧騒がうそのような静けさです。

結構広いので、子供連れの家族も安心ですね。

昼時には、ランチ持参のサラリーマンもちらほら。

いろいろなグループの集合場所にもなっていますね。

※東華学校は、明治19年、同志社の新島襄により設立されています。6年で閉校になりますが、

存続続ければ、教育界はもちろん、東北地方全体への人材輩出など大きな影響を与えたでしょうね。

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

 

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り⑯ 南材木町・河原町周辺⑵ 城下町の風情を探して。

2023年11月13日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

南材木町・河原町周辺には、5つの辻標が設置されていますが、ほど近い3か所をご紹介。

57番辻標「南染師町(みなみそめしまち)/南石切町(みなみいしきりまち)」は、

穀町から南に進み、七郷堀を渡り左手に進み、「愛染明王堂」の向かい側の

マンションの一角に設置されています。七郷堀は、この日は、”空堀”状態でした。

「南染師町」は、伊達氏に従って仙台に移り当初は、越路に住んでいた

染師職人が瑞鳳殿造営にあたりここに移されました。七郷堀を利用して

需要の多い木綿染めを扱っていました。

「愛染明王堂」は、京都から分祀され、染師たちから厚く信仰されていました。

堀沿いは、染め物屋の跡地にはマンションが立ち並んでますが、

数軒が頑張っておられます。趣きのある建物と共に、歴史を感じさせます。

「南石切町」は、城下を南に拡張する際、石材需要に対応するため、

石垣衆を配置しました。石工の本場、近江より来た人々で

伊達家ゆかりの墓所、社寺の鳥居や灯籠の製作に従事しました。

町の南端は、南材小学校まで伸びていました。

80番辻標「新弓ノ町(しんゆみのまち)/八軒小路(はちけんこうじ)」は、

八軒中学校の正門脇にあります。「新弓ノ町」は、延宝六年(1676)に

当時の奉行職の布施和泉により新たに組織された御弓組が居住した町。

町内にある八幡神社は、京都の石清水八幡宮の分霊とされています。

「八軒小路」は、南材木町の東から行人塚の北に当たる地域の呼称。

中央に東北本線が通り、東には文化町の住宅街があります。

かつては、北側に人家が八軒程度の寂しい畑地でした。

37番辻標「河原町(かわらまち)/河原町横丁(かわらまちよこちょう)」は、

河原町商店街を進み、旧仙南堂薬店の先から右に曲がる角に設置されてます。

奥州街道は、穀町方面から伸びて、河原町に入り、辻標から右手に曲がり、

長町渡し方面に向かいます。※寛文年間まで橋がありませんでした。

見にくいですが、右手に旧仙南堂薬店の建物があります。

「河原町」は、広瀬川の氾濫で形成された河原地帯です。

渡し場をはさんで城下と在郷の境に位置し、やがて商人や農民が定着、

橋ができると長町宿と共に発展しました。

「河原町横丁」は、河原町から政宗が晩年を過ごした若林城を結ぶ道の西端としてできた横丁です。

河原町商店街の入り口に、和菓子店がありました。

大福からずんだなどいろいろと手頃な値段で取り揃えています。

機会があったら是非、立ち寄りたい場所ですね。

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

 

 

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り⑮「霊屋下/瑞鳳寺前丁」天龍閣跡地に結婚式場?

2023年11月06日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

47番辻標「霊屋下(おたまやした)/瑞鳳寺前丁(ずいほうじまえちょう)」は、

ご存じ伊達政宗の霊廟「瑞鳳殿」の入り口に設置されています。

「霊屋下」は、霊屋丁ともいい、仙台開府当初は、広瀬川の流水を利用する

染師が住んでいましたが、霊屋(瑞鳳殿)造営で南染師町に移され、

御小人衆が警衛のため配置されました。

「瑞鳳寺前丁」は、政宗公追遠のため、寛永13年(1636年)に

創建された瑞鳳寺の門前町です。一帯が経ヶ峰で政宗の瑞鳳殿はじめ

感仙殿、善応殿ほか二代の藩主の墓所があります。

坂を上りきる途中に瑞鳳寺があります。

瑞鳳寺の向かい側の奥に、かつて旅館「ラドン温泉旅館天龍閣」がありましたが、

コロナ禍による経営難のため2021年11月末に閉館しました。

広瀬川の清流を眼下に伊達政宗公が眠る瑞鳳殿の杉木立に囲まれた旅館。

「天龍閣」という旅館名は、独眼竜政宗にあやかって付けられたといいます。

「天龍閣」はどうなっているのか気になっていたところ、すでに解体され、

新しい建物の工事中でした。

建築主の「ノバレーゼ」は、本社が東京銀座にあり、 婚礼プロデュース部門・

婚礼衣裳部門・レストラン部門などの総合ブライダル企業です。

仮称とある「青龍荘」の名称は、青葉城、そして”独眼竜”伊達政宗に機縁するのかもしれません。

歴史ある風光明媚な場所に、結婚式場そしてレストランが誕生?

完成が来年6月末、オープンはちょうど一年後の今頃。楽しみですね。

瑞鳳殿の近くに、ありそうでなかった結婚式場とレストランができれば、

抜群のロケーションですので、さらに人気スポットになりそうですね。

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

 

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り⑭ 南材木町・河原町周辺⑴ 城下町の風情が残る町並み

2023年11月05日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

南材木町・河原町周辺には、5つの辻標が設置されていますが、ほど近い2つをご紹介。

53番辻標「南材木町(みなみざいもくまち)/竹屋横丁(たけやよこちょう)」は、

仙台市の「杜の都景観重要建造物等」に指定されている若林区南材木町の

「旧針惣(はりそう)旅館」の脇に設置されています。

「南材木町」は、寛永年間に城下を南に拡張するときに

用材供給のために割り出されたエリア。のちに煙草の専売権も与えられ

商人町として栄えました。戦災を免れたため、城下町の面影を今に伝えています。

「旧針惣(はりそう)旅館」は、明治中期につくられた蔵と昭和初期に建てられた

和洋折衷様式建物として貴重な存在です。来春には、古民家のたたずまいを

生かしたレストランや宿泊施設にリノベーションされるということです。

「竹屋横丁」は、南材木町から南石切町を結ぶ横丁でかつて竹屋が

あったことにちなんでいます。江戸時代、竹は、弓矢、旗竿、建築資材、

日用雑器に多く使われたので特別な保護育成がなされました。

旧針惣旅館の母屋もリノベ中ですね。

正面左側にゴミ集積ダンプも用意され準備万端、来春が楽しみです。

すぐ向かいの「小林薬品」も”現役”で頑張っています。

そば処「武田屋」も地域に根差し評判もいいですね。近々寄ってみます。

63番辻標「舟丁(ふなちょう)/堰場(どうば)」は、

宮沢橋のたもと、高柳内科の玄関右脇に設置されています。

ここから穀町の左端までが「舟丁」でした。お舟衆(船乗り)が居住するエリアだったことが由来。

水運を利用した交通の要地、広瀬・名取の河口の閖上から米や材木などが運ばました。

当時、対岸の長町方面とは橋がかけられていないので、根岸と結ぶ宮沢渡しとして利用されました。

「堰場」とは、いまでいうダムでしょうか。広瀬川の流れを堰き止めて用水と水運に

利用した六郷堀と七郷堀に囲まれたところなのでこの名ができたということです。

舟丁の通りをたどっていくと、先日アップした仙台駄菓子「石橋屋」跡になります。

すっかり更地になっていました。枝垂れ桜は、紅葉しているようで、根本はしっかりしているようです。

今後の計画については、表示はありませんでした。

かつて細い路地だった「舟丁」ですが、いまやこの路地に沿うように、

都市計画道路 宮沢根白石線が開通しました。”新宮沢橋”が完成すると、

仙台駅東側の車の流れも大きく変わります。

個別の案件ですが、この道路沿いでは、少し前に、箪笥と一体となった門間箪笥店本店母屋も解体されました。

明治・大正・昭和初期の建築物は、個人と共に地域の財産でもあります。大事にしたいものです。

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り⑬ 東北大学片平キャンパス付近に三つの辻標。

2023年10月24日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

東北大学片平キャンパス付近に三つの辻標があります。

75番「桜小路(さくらこうじ)/七軒丁(しちけんちょう)」は、 仙台城下町”辻標”八十八か所巡り⑪ 

でご紹介しました。

48番「弾正横丁(だんじょうよこちょう)/道場小路(どうじょうこうじ)」は、まさしく東北大学北門前にあります。

東北大学正門付近には、かつて岩出山館主伊達弾正の屋敷があり、東西に抜ける道が、「弾正横丁」と呼ばれました。明治初年に廃道、のちに旧制二高の敷地になりましたが、校内にその当時の名残は見受けられません。

一方で「道場小路」ですが、ここも藩政時代は、柳町と弾正横丁を結ぶ南北の道でした。東一番丁教会の裏手に南北の道があったそうですが、戦災復興事業で廃道になりました。

藩政時代前期に、「松林左馬之助」という剣豪が道場を開いていたのでこの町名が生まれたという伝説めいた話があります。

近くの「大日如来」の関係者有志のみなさんでしょうか、記念塔が寄贈されています、地域のみなさんとの強い絆を感じます。

すこし前ですが、東北大学北門食堂は、建て替えられ、おしゃれなレストランになりました。一帯は、大学の建物や、マンションが建設され、大きく変わろうとしています。

72番「太夫小路(たゆうこうじ)/袋町(ふくろまち)」は、東北大学の伝統「金属材料研究所」の右手にあります。

金属材料研究所から北にのびる通りが「太夫小路」です。寛永年間、伊達政宗の小姓で仙台の金春太夫と呼ばれた金春流御乱舞櫻井八右衛門や観世流長命家などの屋敷があったのでそう呼ばれました。

「袋町」は、柳町西端から片平丁に通じる通りの名称。かつては、弓の稽古場として三十三間堂があったので、明治初めのころまで、三十三間堂横丁とも称されたようです。

屋敷割から2本の道が行きどまりになっていたので、「袋町」の名があると言われています。

 

世界的に有名な金属材料研究所の本部がここにあります。

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

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