仙台街探(まちたん)プラス

仙台のグルメ・カフェ・イベント・etc.街の話題をご紹介。プラス岩手、山形、福島の街ネタも。

仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉚ 85番辻標「伊勢堂下(いせどうした)/半子町(はんこまち)」周辺を街探

2024年11月08日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

街探”辻標”八十八か所巡り、「大崎八幡宮」周辺の第二弾、85番辻標「伊勢堂下(いせどうした)/半子町(はんこまち)」周辺を街探しました。幕末、仙台藩で唯一、新政府軍に抵抗して孤軍奮闘した細谷十太夫の菩提寺を訪ねることができました

細谷十太夫が着用し、からす組と呼ばれ復元された陣羽織が、東北歴史博物館に展示されているのを思い出し、後日、東北歴史博物館にやってきました。奥には、奥羽越列藩同盟の旗が展示されています

「半子町(はんこまち)」は、北八番丁と土橋通の北西に町割りされた旗本足軽屋敷です。

後に、足軽衆の中から大筒組に取り立てられるものもいて、町名の由来はこの大筒組が後髪を残す剃り方「半髪(はんこう)」に由来しています

通りには、円形の山門が特徴の寿徳寺があり、旧半子町のランドマーク的存在。

「伊勢堂下(いせどうした)」は、伊達政宗が伊勢神宮の両宮を分霊を勧請し、神明社をこの地に建立し、伊勢堂山と命名したことに由来しています

伊勢堂下の通りを下ると、竜雲院に突き当たります、名だたる人々が墓所としていて

特に、あの「海国兵談」を表した林子平、幕末、新政府軍を震撼させた「からす組」で有名な細谷十太夫の墓があります

お寺の左側にお堂ともに林子平のお墓があります

 

その手前に細谷十太夫の墓があり、幕末の激動期を乗り切り、明治維新後も北海道の開拓や日清戦争にも従軍、ここ龍雲院の住職となり、戦没者を弔いました。

幕末の動乱期に、百姓、町人、さらには渡世人などを糾合し、官軍に戦いを挑む十太夫の奮闘ぶりを作家大佛次郎著「細谷十太夫 からす組(上下)」(徳間文庫刊)でいきいきと甦ります。細谷十太夫をメインキャラクターにした映画、ドラマは確認できませんでしたが、これだけの人物はなかなかいません、是非映像化してほしいものです

龍雲院の側、和菓子の子平堂さんが頑張って営業中でした、子平まんじゅうをお土産に帰宅、ずっと気になっていた細谷十太夫の墓所を”街探”して発見しました

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉙ 仙台城下の西端「大崎八幡宮」周辺を街探

2024年10月01日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

今年の夏は暑かったですね・・・6月以来控えていた街探”辻標”八十八か所巡り、再開です。

大崎八幡宮の大鳥居の左隅に、目立ちませんが、60番辻標「八幡町(はちまんまち)/作並街道(さくなみかいどう)」が設置されています。

「八幡町(はちまんまち)」は、桃山時代の様式の国宝大崎八幡宮(慶長12年落成)の門前町、伊達政宗の仙台城下の町割りの西端に位置し、歴史ある町並みです、かつては市電が八幡宮前までのびていました

しばらくぶりに社殿に向かいます、手前の橋は、四谷用水の上にかけられています 

よく整備された参道で、外国人観光客もちらほら

七五三のお参りですね

数年前から舞台ができて、タイミングが合えば、神楽が奉納される場面に遭遇できるかも。

鶏が5羽放し飼いされていますが、実は、神社と鶏は深い関係にあり、神社の入り口に建つ門を”鳥居”というように、神様からのお使いでもあったということです

「作並街道(さくなみかいどう)」は、仙台城下の北目町から愛子、熊ヶ根、作並を通り、関山峠を越えて山形に至る道でした、峠は急峻で馬も通れず「嶺渡り」という難所でもありました

以前作並街道(関山街道)の歴史散策したときのブログは こちらです

大鳥居の前から牛越橋方面に下り降りる途中の来迎寺入口に、21番辻標「北五十人町(きたごじゅうにんまち)/滝前丁(たきまえちょう)」が設置されています

「北五十人町(きたごじゅうにんまち)」は、来迎寺前から東の角五郎表町につながる町で、古くは旗本足軽五十人衆が住んでいました、今は閑静は住宅街ですね

「滝前丁(たきまえちょう)」 かつて、八幡宮の西北にあった観音堂の大きなため池から、流れ落ちる滝のような川の流れが広瀬川にそそいでいました、滝のほとりにある町で、滝前丁(たきまえちょう)と称されました

作並街道を少し進むと、鶏橋が架けられています、ここが鶏沢の滝です。川のようですが、よく見ると、急峻な崖で広瀬川にそそぐあたりは、落差のあるちいさな滝のようです、機会があれば、広瀬川への注ぎ口を確認してみようかと思います

作並街道を進むとお馴染みの40番辻標「唸坂(うなりざか)/山上清水(さんじょうしみず)」が設置されています

「唸坂(うなりざか)」

仙台城二の丸造営のとき、国見峠付近から石材を牛にひかせてこの坂を下り川内まで運びました。この山上清水付近におりる急峻な坂を牛は唸りながら下り下りたという話。

「山上清水(さんじょうしみず)」

この辺は、崖からしみ出る清水がいたるところから湧き出て、名水”山上清水”が地名にもなりました。八幡宮門前の茶屋町でもあった理由がわかります。また山際には、四ツ谷堰の源となる水路があります。弘法大師がこの地を訪れ、錫杖を尽きたてたところ清水が湧き出たとする伝説も残っており、近くに弘法山、そして弘法大師堂が建てられています

弘法山、弘法大師堂など、以前周辺を歴史散策したブログは こちらです

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

 

 

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉘ 大きく変貌した仙台駅東口に藩政時代の記憶

2024年06月12日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

 仙台駅から北東へ歩いて15分ほど、鉄砲町和光公園内に、51番辻標「鉄砲町(てっぽうまち)/明神横丁(みょうじんよこちょう)」が設置されています。

「鉄砲町(てっぽうまち)」は、藩政時代、城下の東口に位置し、鉄砲足軽組が置かれたことに由来、二十人町の北側、小田原車町からかつて榴ヶ岡にあった釈迦堂下までを鉄砲町と呼んでいました、総勢百四十人近い足軽が居住し、それぞれ組ごとに屋敷割され、信仰する神社を中心に結束をはかっていました

東口の再開発で大きく変貌しましたが、ここ鉄砲町和光公園は、神社と共に地域に親しまれています

「明神横丁(みょうじんよこちょう)」は、鉄砲町と二十人町を南北に結んでいる横丁名で、グーグルマップにも表示されます、大坂の陣から凱旋した鉄砲町の足軽が町内の守り神とし勧進した和光明神がのちに和光神社と改められ、横丁に明神の名が残されました

公園の西端には、アンティーク雑貨カフェ 「TiTi(ティティ)」があります

「TiTi(ティティ)」を訪問した時のブログは こちらです

 

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

 

 

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉗  仙台藩を支えた城下の東端「原町」と四本の横丁

2024年03月15日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

国道45号線(仙塩街道)が榴ヶ岡公園北側で右にカーブする場所を起点にして、原町本通りが45号線と並行して宮城野区役所方面に向かって続いています。一方通行の約1.5km直線道路が商店街です。開いている店はだいぶ少ないですが、よく整備された道かと思います。商店街の入り口に道標があります。

頑張っている原町商店街のHPは  こちら

平日の昼過ぎ、少し閑散としていました。

入口から100mほど、左手に仙台三十三観音の十番札所「千手観音堂」があります。

境内の大銀杏に誘われて参拝しました。

商店街に入って400mほどの左手マンションの入り口に、

59番辻標「原町(はらのまち)/大源横丁(だいげんよこちょう)」が設置されています。

「原町」は、いにしえは、歌枕の”宮城野”の原野に臨む原町が原点でもあり、藩政時代には、財政を支える米蔵や材木蔵が置かれたり、仙台城下東の宿駅でもあったりと、歴史的にみても興味の尽きない重要なエリアです。

「大源横丁」は、明治38年に地元の慈善家で、呉服商の田右衛門の篤志に開通した道。今は公園になっている清水沼と原町をむすぶ生活路として重宝されました。名前から2文字とって命名されています。また、大町にあった大内屋の八代目で数多くの社会的貢献をされています。

実は、この原町本通りには、横丁が4本あります。1本がこの大源横丁で、三本は遠藤横丁、岩井横丁、佐々木横丁です。遠藤横丁は、旅館、岩井横丁は、酒屋、佐々木横丁は、質屋に由来します。いずれも宮城野原に向かう農道でした。

遠藤横丁には、標識らしきものは発見できませんでした。

商店街が続いています。

どういうご商売だったか、昭和の建物発見。

岩井横丁の標識があります。

佐々木横丁の標識発見。

きれいに整備された原町カッコウ公園です。因みに仙台市の鳥は「カッコウ」だそうです。

歴史ある町原町の代表格、それはこちらの1836年創業の「鳥山米穀店」ですね。17軒あった米穀商のひとつ、よく保存され、いまも営業されています。

商店街の東端に、「道しるべ石」が建っています。

 

仙台城下の東端で、東西南北への重要な道しるべだったんですね。

仙台市内がどんどん都市化され、藩政時代はもちろん、明治大正昭和の遺物が消されていく中、こちらの商店街には、歴史的遺物や寺社もあり、祭など通じて頑張ってほしいものです。

 

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

 

 

 

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仙台城下町”辻標”八十八か所巡り㉖ 「石切町」は青葉城石垣の石工の町、すずめ踊りのルーツ!?

2024年02月26日 | 仙台城下辻標八十八か所巡り

八幡一丁目交差点から北上し、カーブを右に曲がると石橋があり、このたもとに、

38番辻標「石切町(いしきりまち)/覚性院丁(かくしょういんちょう)」が設置されています。

「石切町」周辺は、1660年寛文年間には、石切御職人の住居エリアでした。また、八幡町に至るこの道は、城下と石巻や山形を結ぶ要路だったようです。石切御職人の子孫「小梨石材店」が往時を偲ばせます。

橋は、左手から右手に流れるへくり沢の上にかけられていました。

「覚性院丁」は、土橋通から石切橋までの間を呼んでいました。もともと覚性院は、東六番丁小学校の地にありましたが、東照宮造営にあたり、一時東照宮の仮宮とされ、この地に移されました。のち明治の初めに廃寺になりましたが、地域住民の方々は、春日神社の整備と共に地域の名称として誇りを持たれています。

石切橋の左手に「瀬田谷不動尊」がありますが、逸話・縁起らしきものが見当たりません。

そう言えば、春日神社のへくり沢散歩道案内板④に手がかりがありました。仙台城築城に貢献した石工たちがこの「瀬田谷不動尊」や「大崎八幡宮」で奉納した「ハネコ踊り」「仙台雀踊り」のルーツというのです。諸説いろいろあるのでしょうが、さもありなんですね。

参考資料・引用

「辻標」 仙台市文化財パンフレット第三十五集 編集発行 仙台市教育委員会文化財課

「仙台城下の町名由来と町割」定価1,500円(税別) 著者 古田義弘 発行所 本の森

 

 

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