ひとかたまりの想念Z

A conscious solid idea

ヤッター?

2008-01-20 08:31:03 | アニメ・コミック・ゲーム

ヤッターマンの新作をみた。
ドロンボー一味のキャストが全くといっていいほど劣化しておらず、すばらしかった。
ドラえもん等でずっと現場にいたのが大きいのだろう。
「墓場鬼太郎」の野沢雅子といい、懐古主義者のエゴでオリジナルのベテラン声優をむりやり起用したのではないのだろう。
今の時代の「ゲゲゲの鬼太郎」はとっくにヒーロー路線に変更しているのだけど、「墓場~」の鬼太郎は野沢雅子しかなかった。
ヤッターマンの話だった。
メカのヤッターワンもアレンジされていたけど、気にならなかった。
ヤッターマン達も若い声優にチェンジされていたけど、気にならなかった。
ナレーションが富山敬から山寺宏一にチェンジされていたけど、これも(ゲーム版)ヤマトの古代進の頃からの引継ぎな感じで問題なし。
問題はあの「主題歌」だ。誰でも知ってる名曲、ヤッターマンの歌。
なぜ、山本正之ではないのか?
百歩譲って、他の歌手のカバーでも良いとしよう。
なぜ

音屋吉右衛門

なのか?
中身は世良公則と野村義男である。イミが判らない。
世間での評判はどうか?ググって見た。。。。賛否両論だった。
こういう場合「否」の意味がつよいか?
山本正之氏から、のメッセージがネット公開されていた
内容的にネガティブだったため、公開期間はかなり短かった模様。
詳細はWEB魚拓に残っているので、読んでみて欲しい。
ヤッターマンほどの有名なコンテンツになると、アニメであろうともこのような事が起こるらしい。
業界ゴロは昔からいるのだから、アニメ業界だけが抱える問題ではなかろう。
結局、1~2クールの短いスパンで作品を消耗し、売り逃げするような商売方法が元凶なのだろう。
製作サイド、とりわけプロデューサーに原作作品に対する敬意が失われつつある。
リスペクトという言葉がネガティブな意味で使われる事が多いのだから当然かもしれんが、エロゲー原作ごときに敬意を払う必要は露ほども無いにしても、長期連載のコミックや、長編小説シリーズを題材にしたときの作家に対するリスペクトをもっと大事にして欲しいと思った。







栞と紙魚子

2008-01-15 22:08:31 | アニメ・コミック・ゲーム

かつて、ホラーコミックのブームがあった。
そして赤白ストライプなヒトが一世を風靡した。
そのちょっと後のころだったと思う、「妖怪ハンター」&諸星大二郎とのの出会いは。
まだまだガキだったオレは諸星作品の面白い部分に鈍感だったが
大人向けに描かれたマンガであるという事に気が付く程度には賢しかったので
あまり「妖怪ハンター」について語る事はなかった。
すぐにガンダムブームが来て、人気マンガ家とは言えない諸星大二郎の事はいつのまにか忘れていた。
時は流れて、とある古本屋で妖怪ハンターの続編に出会った。再燃した。
元来のオカルトマンガ好きだったオレはたちまち諸星大二郎がマイブームになり
部数も少なく、大手書店にもなかなか入荷しない飢餓感も手伝って
ヒトには勧めないオススメ本として、ゆっくり着実にコレクションしていった。
さらに時は流れ、あまり映像化に恵まれない諸星作品であるが
2005年の映画「奇談」に続いて(体感的には連続しているようだ!)今年「栞と紙魚子シリーズ」がTVドラマ化された。
ありえない。奇跡である。なんで今、諸星大二郎なの?むしろ氏の大ファンであるオレが聞きたい。なんで?
リンク先を参照すれば、諸星氏の原作とは似ても似つかないかわいらしい「栞と紙魚子」がみれるはずだ。
ファンとしては正直、痛し痒しな気分ではあるのだが・・・。


正月にガンダム

2008-01-04 23:08:40 | アニメ・コミック・ゲーム

短い正月を満喫する為にTV版ファーストガンダムをみてました。
あけおめ(笑)
今日は「ジオンの脅威」、「再会,母よ・・・」、「時間よ止まれ」、「ククルス・ドアンの島」と続けてみたのだが、懐かしいという感慨は少ないかわりに、現在放送されているアニメがいかに駄目なのかを再認識した。
若いガンオタが我々の世代を指して言うような「30年前の1stを未だに神聖視するジジオタ」という妄言に多少なりとも「一理ある」と思ってたけど、そうではないかもしれない。
つまり「一理もない」のであって、若いオタク共は自分の文芸的カタワ振りを猛烈に反省するべきであって、文芸的にクソなアニメを量産し続けるアニメ業界も反省すべきだという事だ。
文芸的部分で狂ったアニメを例にあげるに枚挙にいとまないが、殆どのアニメオリジナル作品と、エロゲー原作作品が当てはまるだろう。
コミックや小説が原作のアニメ作品に文芸的瑕疵が少ないのは、そも原作者のおかげではなかろうかとさえ思う。

TV版の1stガンダムは映像部分を今日の目でみると、どう贔屓眼でみても厳しいのだが、ごく当たり前の文芸的構成がごく当たり前のレベルに達しているので、面白くみれる。とくに「優れ」ているのではない、普通のレベルだという事。
劇場版でカットされたエピソードとして良く名作扱いされる「時間よ止まれ」、「ククルス・ドアンの島」も実はたいした話ではない。
「時間よ~」はこうだ、アムロ自身が爆弾を外し終わり、ジオンの兵士が民間人に化けてパイロットの顔を見に来る結末で、アムロは「地球に住んでる人はいいな」と思い、ミライとブライトはその民間人こそジオンの兵だと見抜く。
爆弾を外すのがアムロ一人でなかったら?最後にジオン兵が見物にこなかったら?
きっとずいぶんとつまらない話になっていた筈だ。
「ククルス~」の場合も、最後にアムロがガンダムでドアンのザクを海中に沈めるシーンで「彼は良いことをしたんだよ」とドアンが子供達に語るシーンが無かったらどうか?
我々はすでに結末を知っているので、そのラストシーンの改竄ひとつで駄作になる事を知っているが、もし放送されたのがその駄作の方だったらどうか?
文芸的にメクラの若いアニメファンはちゃんとそこに文芸的瑕疵を見つける事ができるか?
おそらく出来ない。
ガンダムSEEDのような作品がヒットしうる背景にはそういう、オタクの文盲化があるのだと思う。

宇宙戦艦ヤマトが、地球に帰還した時、地球人が自力で放射能を除去する装置を完成させていたらどうか。さすがに文盲なるアニオタでも気が付くか?
いや、多分気が付かないだろう。
いろいろな事情があって、ついに期日に間に合わなかったヤマトが満身創痍でたどりついても、最後に逆転的なハッピーエンドが用意されていれば、良かったメデタシで終わるかもしれん。

じつはこれはアニメ業界に限った事ではなく、TVドラマや日本の映画界も同質の問題を抱えていると思う。
つまり、視聴者がバカすぎて、ヒットする作品が文芸的に優秀ではないという問題だ。
まったくもって嘆かわしい事だが、所詮はジジオタの独り言なのかもしれないね・・・。