短い正月を満喫する為にTV版ファーストガンダムをみてました。
あけおめ(笑)
今日は「ジオンの脅威」、「再会,母よ・・・」、「時間よ止まれ」、「ククルス・ドアンの島」と続けてみたのだが、懐かしいという感慨は少ないかわりに、現在放送されているアニメがいかに駄目なのかを再認識した。
若いガンオタが我々の世代を指して言うような「30年前の1stを未だに神聖視するジジオタ」という妄言に多少なりとも「一理ある」と思ってたけど、そうではないかもしれない。
つまり「一理もない」のであって、若いオタク共は自分の文芸的カタワ振りを猛烈に反省するべきであって、文芸的にクソなアニメを量産し続けるアニメ業界も反省すべきだという事だ。
文芸的部分で狂ったアニメを例にあげるに枚挙にいとまないが、殆どのアニメオリジナル作品と、エロゲー原作作品が当てはまるだろう。
コミックや小説が原作のアニメ作品に文芸的瑕疵が少ないのは、そも原作者のおかげではなかろうかとさえ思う。
TV版の1stガンダムは映像部分を今日の目でみると、どう贔屓眼でみても厳しいのだが、ごく当たり前の文芸的構成がごく当たり前のレベルに達しているので、面白くみれる。とくに「優れ」ているのではない、普通のレベルだという事。
劇場版でカットされたエピソードとして良く名作扱いされる「時間よ止まれ」、「ククルス・ドアンの島」も実はたいした話ではない。
「時間よ~」はこうだ、アムロ自身が爆弾を外し終わり、ジオンの兵士が民間人に化けてパイロットの顔を見に来る結末で、アムロは「地球に住んでる人はいいな」と思い、ミライとブライトはその民間人こそジオンの兵だと見抜く。
爆弾を外すのがアムロ一人でなかったら?最後にジオン兵が見物にこなかったら?
きっとずいぶんとつまらない話になっていた筈だ。
「ククルス~」の場合も、最後にアムロがガンダムでドアンのザクを海中に沈めるシーンで「彼は良いことをしたんだよ」とドアンが子供達に語るシーンが無かったらどうか?
我々はすでに結末を知っているので、そのラストシーンの改竄ひとつで駄作になる事を知っているが、もし放送されたのがその駄作の方だったらどうか?
文芸的にメクラの若いアニメファンはちゃんとそこに文芸的瑕疵を見つける事ができるか?
おそらく出来ない。
ガンダムSEEDのような作品がヒットしうる背景にはそういう、オタクの文盲化があるのだと思う。
宇宙戦艦ヤマトが、地球に帰還した時、地球人が自力で放射能を除去する装置を完成させていたらどうか。さすがに文盲なるアニオタでも気が付くか?
いや、多分気が付かないだろう。
いろいろな事情があって、ついに期日に間に合わなかったヤマトが満身創痍でたどりついても、最後に逆転的なハッピーエンドが用意されていれば、良かったメデタシで終わるかもしれん。
じつはこれはアニメ業界に限った事ではなく、TVドラマや日本の映画界も同質の問題を抱えていると思う。
つまり、視聴者がバカすぎて、ヒットする作品が文芸的に優秀ではないという問題だ。
まったくもって嘆かわしい事だが、所詮はジジオタの独り言なのかもしれないね・・・。