25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ぐずぐずする

2015年02月21日 | 日記
 ピアノを習おうか、とこの頃時々思う。はたして右手指5本を左手指が5本が別々に動くようになるものだろうか、と想像もつかない。子供もできるようになるのだから、段階を踏んでいけばできるようにはなるはずに違いない。けれど、神経はまだそんなことが自由に操られるようになっているのだろうか。神経は老化しているのではない、と思ったりする。知り合いにピアノ教師がいたら聞きたいのだけれど、、いや電話帳か人に尋ねて、どこに教室があるのか聞きさえすればよいのはわかている。思うだけで実行に移せない。
 
 思いたったらすぐする性格なのだから、ここまでぐずぐずするのは、不向きなのではないかとも思えてくる。
 けれど、リストの「巡礼の年」ぐらいのもの下手なりにできるのではないか。頭の中ではモーツアルトのピアノ協奏曲などを弾いている自分の姿があったりして、う~ん、ありえるのかもしれない、と妄想も膨らむ。

 ぐずぐずするときがある。就活では全くぐずぐずしていて、結局なにも就職活動をしなかった。仕事上尾鷲から東京に出たほうがよいと思ったがこれもぐずぐずした。鯛釣りをしてみたいと思うのだが、これもぐずぐずしている。
 さっさとするのは「興味ある」「好奇心」があり、自分で想像がついて、自分の範囲で知識を広げることができることの限られるような気がする。僕は「習った」という経験がない。授業中というのは苦痛で苦痛でしかたがなく、時間が経つ秒数を勘定さえしていた。
わがままきままで結局は中途半端。文だけは20歳の頃から毎日書いてきた。それだけが慰みでもあった。文というのは相手に何かを伝えるツールでもあるが、自己慰安としての、誰にも伝えないというものもある。それだけはやってきた。そのためには本も読んできた。人間は必要であれば自ずから勉強するものだ。ぐずぐずするのは「十分な必要自分の中で吹き出てこないからだ、と考えることをすすめる。

 僕は自分から運命の扉を開いたことがない。向こう側から扉が開いてくる。そこに入っていくとその世界には膨大な情報はあるのだが、矛盾も充ちている。その矛盾を解決していく。するとまだまだ、解決できないとわかり、調べる、考える。そんな風に生きてきた。権威あるものが正しいなどとは言えない。英語教育を研究する権威者はいっぱいいるが初期英語教育は変わらない。体育教師はいっぱいいるのに、日本人の歩き方や姿勢は世界で一番悪い。エステサロンはいっぱいあるのに、エステ通いしている人の方が検査をすると肌が悪い。すでに保水性をもつコンクリートの製造が可能で、それを砂漠に使えば、農地化も可能であるのに、日本に砂漠はないからその技術はひろがらない。

 ひとつの世界に入っていくと不思議だらけである、それには興味をもつ。そしてその世界で10年の歳月を使ってしまう。

 ピアノも湧き上がってくるのを待つか、と思うのと、一度入ってしまったら、「もっと早く、もっとうまく演奏ができるようにするための練習本はないものだろうか」と考えてしまうに違いない。すると残りの人生は少ないので、ためらうのだろうか。困ったものだと思う。