25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

二月は希望の月

2015年02月20日 | 日記
 日の光が明るくなってくる。けれど吹く風は冷たい。フキノトウはまだでてこないが、梅の花もまだ咲かないが、その準備をすすめている。若い頃は二月という月が好きで、こころが澄み切って、希望が湧いてくるような感じがした。

 ところがどういうわけか、17、8年ぐらい前から二月は寒いだけだと思うゆになった。おそらく自分の心的な事情によるものだろうと思う。毎日生き延びるのに必死だっただからだろう。季節の移り変わりに気を寄せることが難しかったからなのかもしれない。

 今は若葉の季節が好きである。桜が散ったあと、照葉樹林の山々は新芽がでてきてモコモコと膨らみはじめる。特に紀州の楯ヶ崎あたりでみる風景は素晴らしいものがある。昨年をそのあたりを散歩した。名前のわからない照葉樹ばかりである。

 檜や杉だらけの山々を見て「素晴らしい。ここは自然がいっぱいですね」と風の楽団のメンバーがお愛想にか本気にか野天の会場で言っていた。「アホか」と思ったのだった。この人口植林を見て、そう思う感覚の方がおかしいだろうと思ったのだった。

 確かに急峻な山々では檜を人口植林することは檜にとっては腐葉土もできず、細菌も寄らず、間引きさえしてあげれば良質の檜ができるのかもしれない。しかし小さな山林の持ち主は手入れもせず、放っておくだけである。杉も檜も花粉症を呼び込むし、本当は大迷惑である。

 その檜と杉の山はだんだんと減ってきて元の照葉樹が生えてきた。
 梅、桜、躑躅と続き、躑躅の頃は若葉で溢れてくる。この若葉の香りはたけのこのような匂いがして、疲労物質をとるのには一番のエッセンスをもっているらしい。

 この若葉の季節が終わると僕の誕生日がやってくる。できればその日まであらゆることのケリをつけたい。人生は重たい。けれど最後はつじつまを合わせたい。無念と悲嘆で死にたくはない。恨みと後悔でしにたくもない。

 10年一生懸命やればまたなにかのプロになれる。ようやくこの辺でいいか、と思った頃に死が近づいてくるのかもしれない。
 また二月が来るのは楽しみだと思う時が来ることを期待している。