25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

矛盾の危機感

2015年02月12日 | 社会・経済・政治
 大金持ち、金持ちの貯金が出せなくなりみな貧乏になる時期があった。財閥も解体された。地主の農地も小作農に分け与えられた。戦後の日本のアメリカ進駐軍時代のことである。超インフレになったからお金の価値は下落した。
 日本の十年後はどうなっているか。バラ色をいう政治家もいる。超格差が広がっているという政治家もいる。
 日本銀行がいつまで金融緩和策、しかも異次元の緩和策を終えるのか、そこに大きな関心が寄せられている。長期国債の金利があがってきたら要注意だ。国債購入は銀行が人々の貯金を使って購入するが、今日銀が買い取ってくれるので、腰は引けているものの、安倍政権は強気でいる。
 しかしどう考えても、借金を返せる目途もなく、ひたすらに延ばしていくだけである。100年で返せばいいや、ぐらいに思っているのかもしれない。このことはつまり100年、これまで政府がやってきたことを、これからの100年も続けるため、今生まれてくる赤ん坊にも借金があることになる。借金の利息だけでもたいへんなもので、そのために十分な政府資金をしかるべきところに配分できなくなる。
 老人は選挙にいくから老人の主張が結構とおる。若いものは選挙にいかないからなにかと若者の主張は聞き入れてもらえない。
 今年もまた赤字国債を発行する。これで約1060円ぐらいになる。国民全部の貯金で1500兆円だから、毎年40兆円の国債をだし続けるならば、1500兆円まで、あと11年である。

 資本主義は安い労働力を植民地政策で延命し、植民地と輸出入をし、富を得てきた。そしてやがて石油エネルギーの時代となった。安価な石油と安価な労働力は中国にもどこにもまだ最近まであった。ところが石油は何倍にも上がっても振興国も数多く出てきた。高い資源に悩まされる振興国はこれ以上発展できるかどうかはエネルギー政策にもよよってくる。中国は今後300基の原子力発電所を沿岸部につくると発表した。
 日本は輸出をする市場がだんだん減ってきている。資本主義は利潤をまた資本として利潤を稼いでいくシステムだから、ほぼ限界にきている。設備投資をしても減価償却に時間がかかり、設備がより多くの金を生み出さない。これは起業家であるなら誰でも知っていることだ。

 安穏としているように見える政治家。自分たちの利益保護に精をだす経団連。相変わらずの土木事業。もう社会インフラは整っているはずの日本。同盟国に入っておりながら、積極的平和主義だ、人道支援だと言い張る矛盾の自民党。矛盾の日本人。それが現実主義だと大人ぶる政治家や評論家たち。

 僕にはいよいよと思う危機感がある。
 

富司純子(藤純子)

2015年02月12日 | 映画
 6回目、デビッド・リーン監督の「ドクトル ジバゴ」を見た。僕にとってのこれまでで一番の映画だ。脚本も映像も音楽も素晴らしいが、特に ララ役の「ジュリークリスティー」が魅力的である。撮影当時の彼女はいくつかしらないが、映画では17歳から30代を演じていた。メイキングフィルムでの彼女へのインタビューはげっそりするほどひどかったが、映画の中のジュリークリスティーは傑出している。デビッド・リーン監督のなせる技なのだろう。女優が素顔とどれほど違うか、インテビューで驚いたのだった。素顔のジュリークリスティーはどうやら個人主義まっしぐらのようで、タバコを吸いながらインテビューに応じていた。質問者も下手だが、答える彼女もごく普通の平凡な女であった。
 
 ところが映画ではすごいのである。少女であり、情熱的であり、知性的であり、抑制的でもある。世渡り上手の中年男に弄ばれ、革命を志す恋人を結婚するが、ついにはロシアとドイツの戦争で離れ離れになってしまう。夫を探しながら従軍看護を行うラーラはジバゴと医療従事を伴にする。そこで運命がまた変わる。

 映画はロシア革命の時代を背景にしているが、革命を全面に押し出すことなく、医師であり詩人であるジバゴとラーラに焦点をあてている。実際にジバゴとラーラが出会うのは映画の後半からである。しかし映画作りはうまく彼らは同じ電車に乗り、同じパーティーの席ですれちがっている。この恋愛大河ドラマはラーラ役のジュリークリスティーがいてこそである。

 と思いながら、僕は翌日、藤純子(富司純子)の「緋牡丹博徒」を見たのだった。富司純子は今でこそ藤沢周平の「山桜」やいくつかの映画で歳相応の素敵な女性を演じている。それだけに、彼女が東映のヤクザ映画で青春時代を過ごしてしまったことに残念だと思う。 彼女にラーラの役のようなものは日本映画になかったのだと思うとやけに気の毒に思う。それは若い頃の高倉健にしても同じであるが、彼の場合は、山田洋次に転機を与えられた幸運があった。藤純子はNHKの大河ドラマで静御前などもしたが、彼女のもつ青春時代の才能を発揮させる映画製作人がいなかったのだと思う。

 藤純子が富司純子になる前に、大恋愛ドラマをやってほしかった。緋牡丹博徒はそれなりにいいが、彼女の才能はそんな博徒の女ではないはずだ。僕はラーラに藤純子を重ね合わせる。ああ、惜しくてならない。
 「旅情」「戦場を架ける橋」「アラビアのロレンス」そして「ドクトル ジバゴ」さらに「インドへの道」「ライアンの娘」、特に「ライアンの娘」は詩情豊かで映像美も素晴らしかった。藤純子にそんな役がまわってきていたら、彼女はどんな風だったろうと思う。今は彼女は老年の役をやっている。「あ・うん」で主婦役をしたのを見たが見事だった。ああ、惜しい、と何度も思う。
 富司純子さん、どう思う?