箱根山・延年の会

皆様への箱根延年の紹介と、連絡用(会員専用)として使いますので、よろしくお願いしま~す。

日本人として 「忘れてはいけない四つの日」 ~長崎原爆の日~

2013年08月08日 21時07分15秒 | 箱根延年の会から皆様へ

今から68年前、広島に原爆が投下された3日後の8月9日、長崎市にも原爆が投下されました。

今年も8月9日(金)午前10時35分から、松山町平和公園の平和祈念像前において原爆犠牲者のご遺族をはじめ、市民多数の参加のもとに被爆68周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が行われ、原爆が投下された午前11時2分には長崎の鐘やサイレンを鳴らし、原爆死没者の冥福と恒久平和の実現を祈り、1分間の黙とうを行います。

この席上での長崎市長の平和宣言は、国連加盟の各国元首をはじめ、全国の地方公共団体などへ送るとともに、インターネットを通じ全世界に発信され、核兵器廃絶と世界恒久平和の確立を訴え続けています。

さて、この写真をご覧下さい。

「トランクの中の日本 ~米従軍カメラマンの非公式記録~」、小学館から刊行されている写真集

のなかの1枚です。

 撮影者であるジョー・オダネル氏は写真にこんな添え書きをしています。

『この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の表情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。』

 さらに、この本の冒頭で「読者の方々へ」としてこんな文を載せています。

 『読者の方々へ

私ジョー・オダネルは、アメリカ海兵隊のカメラマンとして、1945年9月2日に佐世保に近い海岸に上陸した。空襲による被害状況を記録する命令を受け、23歳の軍曹だった私は、日本各地を歩くことになった。

私用のカメラも携え、日本の本土を佐世保、福岡から神戸まで、そしてもちろん広島、長崎も含めた50以上の市町村に足をのばした。カメラのレンズを通して、そのとき見た光景の数々が、のちに私の人生を変えてしまうことになろうとは知る由もなかった。

1946年3月、本国に帰還した私は、持ち帰ったネガをトランクに納め、二度と再び開くことはないだろうと思いながら蓋を閉じた。生きてゆくためにすべてを忘れてしまいたかったのだ。(中略)

 この本は私の物語である。私自身の言葉で、私の撮影した写真で、戦争直後の日本で出会った人々の有り様を、荒涼とした被爆地を、被爆者たちの苦しみを語っている。胸をつかれるような写真を見ていると、私は否応なく、辛かった1945年当時に引き戻されてしまう。そして、私のこの物語を読んでくださった読者の方々には、なぜひとりの男が、戦争直後の日本行脚を忘却の彼方に押しやることができず、ネガをトランクから取り出してまとめたか、その心情を理解していただけると思う。』

オダネルさんは、カメラを片手に広島、長崎をさまよい放射能を浴びたのが原因で健康を害して退職、入退院を

繰り返し、平成19年(2007年)、奇しくも長崎に原爆投下された8月9日に86歳で亡くなられました。

  この年、皇后陛下はお誕生日に際し「この1年国内外で起きたことで、特に印象に残ったことをお聞かせください」との質問に、この写真とカメラマンについて次のように述べられています。

『今年(平成19年)8月の新聞に,原爆投下後の広島・長崎を撮影した米国の元従軍カメラマンの死亡記事と並び,作品の一つ,「焼き場に立つ少年」と題し、死んだ弟を背負い、しっかりと直立姿勢をとって立つ幼い少年の写真が掲載されており,その姿が今も目に残っています。同じ地球上で今なお戦乱の続く地域の平和の回復を願うと共に,世界各地に生活する邦人の安全を祈らずにはいられません。』

私も、明日はこの兄弟をはじめとする原爆犠牲者の皆さまに黙祷を捧げ、恒久平和の実現を祈りたい。

そして、機会があれば、皆さまにもぜひこの写真集をご覧いただきたい。


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