箱根山・延年の会

皆様への箱根延年の紹介と、連絡用(会員専用)として使いますので、よろしくお願いしま~す。

箱根山・延年の会と曽我兄弟

2010年05月23日 19時09分30秒 | 箱根延年の会から皆様へ
5月28日は、箱根神社の末社である曽我神社の例祭です。
先日の稽古では、曽我神社にお参りをしました。

例祭日である5月28日は、父親の仇討ちを箱根権現(神社)に祈願した兄弟にとって
心願が成就した日でもあり、また悲しくも兄22歳、弟20歳という若さで亡くなった
2人の命日でもあります。

この兄弟のお話は、「曽我物語」に詳しいので、一度、ぜひ読んでみてください。
兄は曽我十郎、幼名は一万(いちまん)、弟は曽我五郎、幼名は筥王(はこおう)と
いいます。
筥王は亡くなった父が当社を崇敬していたこともあり、一時期、箱根権現(神社)の
別当寺(べっとうじ)に稚児として預けられました。

「曽我物語」によると、筥王が修行を始めたのは1185年11月中旬頃。
1190年の9月頃に、兄と約束した仇討ちのため出家を嫌い、(失踪同然に)下山して
います。

さて、ちょうど筥王が当社のお稚児さんであった頃、当社では盛んに延年芸能が行わ
れていたようです。
これが、私共が現在稽古をしている「箱根延年」の原形で、当時、これを奉仕した
のが箱根山の児童=舞童(まいのわらわ)です。

「吾妻鏡」によると、鶴岡八幡宮が創建された頃、当山の舞童の舞楽が密接に関与し、
同宮の祭礼に際し奉納されていたようです。

『吾妻鏡』文治5年(1189)
2月21日の条
箱根の児童、召によって去夜参著す。これ来月3日、鶴岡の舞楽を勤仕せんがためなり。
童形八人、増寿、箱熊、寿王、閉房、楠鶴、陀羅尼、弥勒、伊豆石丸等なり。別当坊に
おいて、今日より調楽を始む。山城介これを奉行す。

8月15日の条
今日鶴岡の放生会なり。去月朔日にこれを行はるといへども、式日たるによって、故に
もってその儀あり。箱根山の児童八人参上し、舞楽あり。馬長・流鏑馬例のごとし云々。

鎌倉幕府を開いた頼朝は「二所詣」で当社へ参詣の折に、「延年」を拝観していたこと
でしょう。
敬神の念の厚い頼朝は、この素晴らしい箱根の童舞を鶴岡八幡宮に奉納するために、
10日前から一行を鎌倉に招いて稽古させ、更には当宮の別当・供僧等の門弟ならびに
御家人の子息への伝習をも意図していたことがうかがえます。

ところで、当山で稚児となった筥王は、箱根の神々に仇討ちの成就を昼夜なく祈って
いたようです。
霊験あって、1187年1月、ニ所詣する源頼朝に随行した工藤祐経(父の敵=くどう
すけつね)と対面しますが、赤木の柄短刀(あかぎのつかのたんとう)を渡され、
諭されています。

このように「吾妻鏡」と、「曽我物語」でみると、その祐経がいる鎌倉へむかう稚児
仲間を、筥王も見送ったと思われるのですが、筥王はその時どんな気持ちだったで
しょうね。

箱根神社の歴史だけをみても、まだまだ、勉強することはたくさんあります。

間違えても

2010年05月09日 14時22分14秒 | 箱根延年の会から皆様へ
最近の稽古で、気をつけていることがあります。
それは、間違えても流れを止めないこと。

「しまった」という顔をしたり、
「ごめんなさい」と周りに謝ったり
「あ、間違えちゃった」と笑わない
「間違えたでしょ!」とそちらを見ない

これが意外と難しく、そして、子供より大人ができません。

「こだわりすぎなさんなよ。 かたよりすぎなさんなよ。
 とらわれすぎなさんなよ。
 とらわれないということにすら、とらわれすぎなさんなよ。」

薬師寺の高田高胤師の言葉ですが、まさにこの通り。

自分の失敗(過去)にくよくよとこだわりすぎても、
また人の間違いに気をとられても、今に集中できていない。
また失敗にびくびくして、小さくまとまるのもよくない。

「とらわれない」「こだわらない」「かたよらない」
本当に難しいです。