箱根山・延年の会

皆様への箱根延年の紹介と、連絡用(会員専用)として使いますので、よろしくお願いしま~す。

日本人として 「忘れてはいけない四つの日」 ~終戦記念日1~

2013年08月10日 17時00分19秒 | 箱根延年の会から皆様へ

この絵は「帰らぬ子、待つ母」という絵で、箱根町・仙石原在住の 勝俣睦先生の作品です。

先生は、現在、旺玄会委員、国立公園箱根風景画展審査委員を務められ、数ある作品の

中では、平成8年の記念切手「仙石原湿原植物群落」が有名です。
 
当社との関わりは深く、芦ノ湖夏まつりウイーク期間中に行われる絵画コンクールは、創設

当初より25年間に亘りの審査員長をお勤めいただいています。

 

今年の絵画コンクールの審査会で、ご一緒させていただいて、この絵のお話を伺いました。

 この度は機会を得て、以下の解説と共に、皆さまにご紹介します。

 

『皆さんへ

 学生時代戦争体験の一人として、今の平和を大切にしなければと、

 戦争の悲惨な出来事、私の体験を絵にして絵を通して「語り部」となるべく描いてみました。

 平和を願って!!   勝俣睦 』

 

           箱根九条の会 会報83号 「はばたき」 2013年 1月 18日発行から抜粋

箱根山にも「岸壁(がんぺき)の母」   

                                  寄稿 勝俣 睦氏(箱根町・仙石原)

私の兄、静治(長男)は昭和20年6月13日、太平洋戦争沖縄戦で戦死いたしました。

昭和20年夏、兄戦死の公報が届きました。「沖縄.八重山の戦闘で戦死」と、文書のみ、遺骨は

ありませんでした。私達兄弟は学徒動員令の中、それぞれ工場で勤労奉仕をしておりましたたため、

帰省した時知らされました。家族のみの家族葬をすました様でした。

 当時の戦死者で葬儀が行われましたのは昭和13年中支(那)で戦死された鈴木さんの葬儀(村葬)

を記憶しております。夕方近くの村道に村人と共に仙石原小学校全校生が並んで「青年団の葬

送行進曲の楽隊を先頭に」遺骨を迎えた記憶があります。しかし戦争末期19~20年頃の多くの戦

死者は「村葬」は行われず、家庭葬の様な形で葬儀を行ったと思います。終戦前後は生きることが

精いっぱい、村人集まっての葬儀が出来なかったものと思います。やがて、終戦となり、「中国」

「シベリヤ」等から生還した方が何人かございました。

 母は毎日、兄が突然帰って来るのではないかと待ち続けておりました。公報が間違いであるかも

知れない、半年も1年もあきらめず待ち続けていたのです。「岸壁の母」は箱根にも居ったのです。

いや、全国どれだけ多くの「岸壁の母」「家族」がいたことでしょうか。

 仙石原旧保育園跡地にある「忠魂碑」を忘れてはなりません。

 戦争は勝っても負けても多くの犠牲が伴い悲しいことです。

 国と国、賢い心で平和を守ってください。

 

【岸壁の母とは】

  第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放された多くの兵隊さんがいました。

  終戦後、彼らを乗せた引揚船は続々と舞鶴に着きました。

  引揚げは昭和33年まで続き、たとえ事前に発表される復員名簿に名前がなくても、

  東京から遠く舞鶴まで通い、藁にもすがる思いで、生死不明のわが子の帰りを待ち

  続けた母が大勢いたのです。

 

 

さて、そろそろお盆ですね。

帰省などして、縁者と集まる機会があれば、皆さんの周り戦争のお話を伺ってみてはいかが

ですか?  

実は、皆さんの周りにも「岸壁の母」がいらっしゃるかもしれませんし、時代が違えば、私共

自身が大切な人を失ったり、岸壁の母になった可能性もあるのですよ。 


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