この絵は「帰らぬ子、待つ母」という絵で、箱根町・仙石原在住の 勝俣睦先生の作品です。
先生は、現在、旺玄会委員、国立公園箱根風景画展審査委員を務められ、数ある作品の
中では、平成8年の記念切手「仙石原湿原植物群落」が有名です。
当社との関わりは深く、芦ノ湖夏まつりウイーク期間中に行われる絵画コンクールは、創設
当初より25年間に亘りの審査員長をお勤めいただいています。
今年の絵画コンクールの審査会で、ご一緒させていただいて、この絵のお話を伺いました。
この度は機会を得て、以下の解説と共に、皆さまにご紹介します。
『皆さんへ
学生時代戦争体験の一人として、今の平和を大切にしなければと、
戦争の悲惨な出来事、私の体験を絵にして絵を通して「語り部」となるべく描いてみました。
平和を願って!! 勝俣睦 』
箱根九条の会 会報83号 「はばたき」 2013年 1月 18日発行から抜粋
箱根山にも「岸壁(がんぺき)の母」
寄稿 勝俣 睦氏(箱根町・仙石原)
私の兄、静治(長男)は昭和20年6月13日、太平洋戦争沖縄戦で戦死いたしました。
昭和20年夏、兄戦死の公報が届きました。「沖縄.八重山の戦闘で戦死」と、文書のみ、遺骨は
ありませんでした。私達兄弟は学徒動員令の中、それぞれ工場で勤労奉仕をしておりましたたため、
帰省した時知らされました。家族のみの家族葬をすました様でした。
当時の戦死者で葬儀が行われましたのは昭和13年中支(那)で戦死された鈴木さんの葬儀(村葬)
を記憶しております。夕方近くの村道に村人と共に仙石原小学校全校生が並んで「青年団の葬
送行進曲の楽隊を先頭に」遺骨を迎えた記憶があります。しかし戦争末期19~20年頃の多くの戦
死者は「村葬」は行われず、家庭葬の様な形で葬儀を行ったと思います。終戦前後は生きることが
精いっぱい、村人集まっての葬儀が出来なかったものと思います。やがて、終戦となり、「中国」
「シベリヤ」等から生還した方が何人かございました。
母は毎日、兄が突然帰って来るのではないかと待ち続けておりました。公報が間違いであるかも
知れない、半年も1年もあきらめず待ち続けていたのです。「岸壁の母」は箱根にも居ったのです。
いや、全国どれだけ多くの「岸壁の母」「家族」がいたことでしょうか。
仙石原旧保育園跡地にある「忠魂碑」を忘れてはなりません。
戦争は勝っても負けても多くの犠牲が伴い悲しいことです。
国と国、賢い心で平和を守ってください。
【岸壁の母とは】
第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放された多くの兵隊さんがいました。
終戦後、彼らを乗せた引揚船は続々と舞鶴に着きました。
引揚げは昭和33年まで続き、たとえ事前に発表される復員名簿に名前がなくても、
東京から遠く舞鶴まで通い、藁にもすがる思いで、生死不明のわが子の帰りを待ち
続けた母が大勢いたのです。
さて、そろそろお盆ですね。
帰省などして、縁者と集まる機会があれば、皆さんの周り戦争のお話を伺ってみてはいかが
ですか?
実は、皆さんの周りにも「岸壁の母」がいらっしゃるかもしれませんし、時代が違えば、私共
自身が大切な人を失ったり、岸壁の母になった可能性もあるのですよ。