箱根山・延年の会

皆様への箱根延年の紹介と、連絡用(会員専用)として使いますので、よろしくお願いしま~す。

ワークショップ開催! どうぞご参加ください

2013年09月02日 16時50分28秒 | 箱根延年の会から皆様へ

下記の日程で、ワークショップ(模擬稽古)を行います。

 

9月14日(土) 10:00~14:00 箱根神社武道場  

9月15日(日) 10:00~14:00 箱根神社武道場

※どちらも、12:00~12:30は昼食の休憩をいただきます。

 時間内であれば、何時でも参加は可能です。

 お持ちでしたら、足袋をお持ちください。

 稽古は御神前で行いますから、靴下も必ず履いてきてくださいね。

 

発声の稽古(大きな声を出したり)、唱歌(歌をうたったり)、

一緒に稽古をしませんか。

当日は、直接 箱根神社武道場へお越しください。

 

ご質問などございましたら、0460-83-7123(箱根神社)へご連絡ください。


日本人として 「忘れてはいけない四つの日」 ~終戦の日2~

2013年08月15日 09時35分55秒 | 箱根延年の会から皆様へ

今日は、終戦記念日ですね。


今から68年前の昭和20年8月14日、政府はポツダム宣言を受諾し、翌15日の正午、

昭和天皇による「玉音放送」によって日本が無条件降伏したことが国民に伝えられ、

これにより第二次世界大戦が終結しました。

この大戦による戦死者は約212万人、空襲による死者は約24万人(内務省発表)と

されています。

 

 

先の大戦の全戦没者に対し、国を挙げて追悼の誠をささげる全国戦没者追悼式は昭和27年を

はじめに行われていましたが、昭和57年4月13日の閣議決定「戦没者を追悼し平和を祈念

する日について」に基づき、現在のかたちで全国戦没者追悼式が行われています。

 

いらい、毎年8月15日には政府主催の下 日本武道館において 天皇皇后両陛下の御臨席を

仰いで、全国から約六千人の遺族が参列して全国戦没者追悼式が行われます。

 

さらに、この閣議決定では「式典の当日は官衙(が)等国立の施設には半旗を掲げ、地方公共

団体等に対しても同様の措置をとるよう勧奨するとともに 本式典中の一定時刻において

全国民が一斉に黙祷するよう勧奨する。」とありますから、みなさんも、12時のサイレンに合わせ、

戦没者を追悼、感謝を捧げ黙祷をしてくださいね。

 

今日は ご一緒に平和について考えてみませんか。 


大東亜戦争の開戦・終戦、そして今

2013年08月12日 23時09分28秒 | 箱根延年の会から皆様へ

終戦記念日が近づきましたね。

今日は、大東亜戦争の開戦、そして終結の詔書を載せます。

この当時は、日本が戦争を起こすときは天皇が開戦の詔勅を発し、講和あるいは終戦の詔勅で、

戦争が終結したことを知らせてきたのです。

簡潔に、日本がなぜ他国と戦争するのか、終結したのかが書かれています。

どんな優秀な口語訳でも、どうしても主観が入ると思うので、原文を載せます。

日本はなぜ戦争をしたのでしょうか?

「みことのり 縮刷版」を参考に旧かな遣いですが、振り仮名は付けました。

辞書を引きながら、ぜひご自分で考えてみてくださいね。

 

米國及び英國ニ對スル宣戦ノ詔書

天佑(てんいう)保有(ほいう)萬世一系(ばんせいいつけい)皇祚(くわうそ)(ふ)メル大日本帝國(だいにつぽんていこく)天皇(てんわう)(あきらか)忠誠(ちうせい)勇武(ゆうぶ)ナル(なんぢ)有衆(いうしゅう)(しめ)

(ちん)(ここ)米國(べいこく)(および)英國(えいこく)(たい)シテ(た丶かひ)(せん)(ちん)陸海將兵(りくかいしやうへい)全力(ぜんりよく)(ふるつ)交戰(かうせん)從事(じゆうじ)(ちん)百僚有司(ひゃくれういうし)勵(れいせい)職務(しよくむ)奉行(ほうこう)(ちん)衆庶(しゆうしよ)各々(おのおの)(そ)本分(ほんぶん)(つく)億兆(おくてう)一心(いつしん)國家(こくか)總力(そうりよく)(あ)ケテ征戰(せいせん)目的(もくてき)達成(たつせい)スルニ遺算(ゐさん)ナカラムコトヲ(き)セヨ

抑々(そもそも)東亞(とうあ)安定(あんてい)確保(かくほ)(もつ)世界(せかい)平和(へいわ)寄與(きよ)スルハ丕顕(ひけん)ナル皇祖考(くわうそかう)丕承(ひしょう)ナル皇考(くわうかう)作述(さくじゆつ)セル遠猷(ゑんいう)ニシテ(ちん)拳々(けんけん)(お)カサル(ところ)(しかう)シテ列國(れつこく)トノ交誼(かうぎ)(あつ)クシ萬邦共榮(ばんぱうきようえい)(たのしみ)(とも)ニスルハ(これ)(また)(ていこく)(つね)國交(こくかう)要義(えうぎ)(な)(ところ)ナリ(いま)不幸(ふかう)ニシテ米英両國(べいえいりょうこく)釁端(きんたん)(ひら)クニ(いた)(まこと)(や)ムヲ(え)サルモノアリ(あに)(ちん)(こ丶ろざし)ナラムヤ

中華民國政府、(さき)帝國(ていこく)眞意(しんい)(かい)セス(みだり)(こと)(かま)ヘテ東亞(とうあ)平和(へいわ)攪亂(かうらん)(つひ)帝國(ていこく)ヲシテ干戈(かんくわ)(と)ルニ(いた)ラシメ(ここ)四年(よねん)有餘(いうよ)(へ)タリ(さいはひ)國民政府(こくみんせいふ)更新(かうしん)スルアリ帝國(ていこく)(これ)善隣(ぜんりん)(よしみ)(むす)(あひ)提携(ていけい)スルニ(いた)レルモ重慶(ぢゆうけい)殘存(ざんぞん)スル政權(せいけん)米英(べいえい)庇蔭(ひいん)(たの)ミテ兄弟(けいてい)(なほ)(いま)(かき)相鬩(あひせめ)クヲ(あらた)メス米英両國(べいえいりようこく)殘存政權(ざんぞんせいけん)支援(しゑん)シテ東亞(とうあ)禍亂(くわらん)助長(じよちやう)平和(へいわ)美名(びめい)(かく)レテ東洋(とうやう)制覇(せいは)非望(ひばう)

(たくまし)ウセムトス(あまつさ)與國(よこく)(いざな)帝國(ていこく)周邊(しうへん)(おい)武備(ぶび)強(ぞうきょう)シテ我ニ挑戰(てうせん)(さら)帝國(ていこく)平和的(へいわてき)通商(つうしやう)(あ)ラユル妨害(ぼうがい)(あた)(つひ)經濟斷交(けいざいだんかう)(あへ)テシ帝國(ていこく)生存(せいそん)重大(ぢゆうだい)ナル脅威(けふゐ)(くは)(ちん)政府(せいふ)ヲシテ事態(じたい)平和(へいわ)(うち)囘復(くわいふく)セシメムトシ隠忍(いんにん)(ひさ)シキニ(わた)リタルモ(かれ)(がう)交讓(かうじやう)(せいしん)ナク(いたづら)時局(じきょく)解決(かいけつ)遷延(せんえん)セシメテ(こ)(かん)(かへ)ツテ々(ますます)經濟上(けいざいじやう)軍事上(ぐんじじやう)脅威(けふゐ)大(ぞうだい)(もつ)(われ)屈從(くつじゆう)セシメムトス(かく)(ごと)クニシテ推移(すゐい)セムカ東亞(とうあ)安定(あんてい)(くわん)スル帝國(ていこく)積年(せきねん)努力(どりょく)(ことごと)水泡(すゐはう)(き)帝國(ていこく)存立(そんりつ)(また)(まさ)危殆(きたい)(ひん)セリ(こと)(すで)(こ丶)(いた)帝國(ていこく)(いま)自存自衞(じそんじゑい)(ため)蹶然(けつぜん)(た)ツテ一切(いつさい)障礙(しやうがい)破碎(はさい)スルノ(ほか)ナキナリ皇祖皇宗(くわうそくわうそう)靈(しんれい)(かみ)(あ)(ちん)(なんじ)有衆(いうしゆう)忠誠勇武(ちゆうせいゆうぶ)信倚(しんい)祖宗(そそう)遺業(ゐげふ)恢弘(くわいこう)(すみやか)禍根(くわこん)芟除(さんぢよ)シテ東亞(とうあ)永遠(えいゑん)平和(へいわ)確立(かくりつ)(もつ)帝國(ていこく)光榮(くわうえい)保全(ほぜん)セムコトヲ(き)

  御 名 御 璽

   平成十六年十二月八日

  

大東亜戦争終結の詔書

  朕(ちん)深ク世界(せかい)ノ大勢(たいせい)ト帝國(ていこく)ノ現状(げんじやう)トニ鑑(かんが)ミ、非常(ひじやう)ノ措置(そち)ヲ以(もつ)テ時局(じきよく)ヲ収拾(しうしふ)セムト欲(ほつ)シ、茲(ここ)ニ忠良(りゆうりやう)ナル爾(なんじ)臣民(しんみん)ニ告(つ)ク。

朕(ちん)ハ帝國政府(ていこくせいふ)ヲシテ、米英(べいえい)支蘇(しそ)四國(しこく)ニ對(たい)シ、其(そ)ノ共同宣言(きょうどうせんげん)ヲ受諾(じゆだく)スル旨(むね)通告(つうこく)セシメタリ。

 抑々(そもそも)帝國臣民(ていこくしんみん)ノ康寧(かうねい)ヲ圖(はか)リ、萬邦共榮(ばんぱうきようえい)ノ樂(たのしみ)ヲ偕(とも)ニスルハ、皇祖皇宗(くわうそくわうそう)ノ遺範(ゐはん)ニシテ、朕(ちん)ノ拳々(けんけん)措(お)カサル所(ところ)、曩(さき)ニ米英(べいえい)二國(にこく)ニ宣戰(せんせん)スル所以(ゆゑん)モ亦(また)、實(じつ)ニ帝國(ていこく)ノ自存(じそん)ト東亞(とうあ)ノ安定(あんてい)トヲ庶幾(しょき)スルニ出(い)テ、他國(たこく)ノ主權(しゆけん)ヲ排(はい)シ領土(りやうど)ヲ侵(をか)スカ如(ごと)キハ、固(もと)ヨリ朕(ちん)カ志(こころざし)ニアラス。然(しか)ルニ交戰(かうせん)已(すで)ニ四歳(しさい)ヲ閲(けみ)シ、朕(ちん)カ陸海將兵(りくかいしやうへい)ノ勇戰(ゆうせん)、朕(ちん)カ百僚有司(ひやくれういうし)ノ勵(れいせい)、朕(ちん)カ一億衆庶(いちおくしゆうしょ)ノ奉公(ほうこう)、各々(おのおの)最善(さいぜん)ヲ盡(つく)セルニ拘(かかは)ラス、戰局(せんきよく)必(かなら)スシモ好轉(かうてん)セス、世界(せかい)ノ大勢(たいせい)亦(また)我(われ)ニ利(り)アラス、加之(しかのみならす)敵(てき)ハ新(あらた)ニ残虐(ざんぎやく)ナル爆彈(ばくだん)ヲ使用(しよう)シテ頻(しきり)ニ無辜(むこ)ヲ殺傷(さつしやう)シ、慘害(さんがい)ノ及(およ)フ所(ところ)真(しん)ニ測(はか)ルヘカラサルニ至(いた)ル。而(しか)モ尚(なほ)交戰(かうせん)ヲ繼續(けいぞく)セムカ、終(つひ)ニ我(わ)カ民族(みんぞく)ノ滅亡(めつぼう)ヲ招來(せうらい)スルノミナラス、延(ひい)テ人類(じんるゐ)ノ文明(ぶんめい)ヲモ破却(はきやく)スヘシ。斯(か)クノ如(ごと)クムハ、朕(ちん)何(なに)ヲ似(もつ)テカ億兆(おくてう)ノ赤子(せきし)ヲ保(ほ)シ皇祖皇宗(くわうそくわうそう)ノ霊(しんれい)ニ謝(しや)セムヤ。是(こ)レ朕(ちん)カ帝國政府(ていこくせいふ)ヲシテ共同(きょうどう)宣言(せんげん)ニ應(おう)セシムニ至(いた)レル所以(ゆゑん)ナリ。

朕(ちん)ハ、帝國(ていこく)ト共(とも)ニ終始(しゆうし)東亞(とうあ)ノ開放(かいはう)ニ協力(けふりょく)セル諸盟邦(しよめいはう)ニ對(たい)シ、遺憾(ゐかん)ノ意(い)ヲ表(へう)セサルヲ得(え)ス。帝國臣民(ていこくしんみん)ニシテ、戰陣(せんぢん)ニ死(し)シ、職域(しよくいき)ニ殉(じゆん)シ、非命(ひめい)ニ斃(たふ)レタル者(もの)及(および)其(そ)ノ遺族(ゐぞく)ニ想(おもひ)ヲ致(いた)セハ、五内(ごだい)爲(ため)ニ裂(さ)ク。且(かつ)戰傷(せんしやう)ヲ負(お)ヒ、災禍(さいくわ)ヲ蒙(かうむ)リ、家業(かげふ)ヲ失(うしな)ヒタル者(もの)ノ厚生(こうせい)ニ至(いた)リテハ、朕(ちん)ノ深(ふか)ク軫念(しんねん)スル所(ところ)ナリ。惟(おも)フニ今後(こんご)帝國(ていこく)ノ受(う)クヘキ苦難(くなん)ハ、固(もと)ヨリ尋常(じんじやう)ニアラス。爾(なんじ)臣民(しんみん)ノ衷情(ちゆうじゃう)モ朕(ちん)善(よ)ク之(これ)ヲ知(し)ル。然(しか)レトモ朕(ちん)ハ、時運(じうん)ノ趨(おもむ)ク所(ところ)、堪(た)へ難(がた)キヲ堪(た)へ忍(しの)ヒ難(がた)キヲ忍(しの)ヒ、以(もつ)テ萬世(ばんせい)ノ爲(ため)ニ太平(たいへい)ヲ開(ひら)カムト欲(ほつ)ス

朕(ちん)ハ茲(ここ)ニ國體(こくたい)ヲ護持(ごじ)シ得(え)テ、忠良(ちゆうりやう)ナル爾(なんじ)臣民(しんみん)ノ赤誠(せきせい)ニ信倚(しんい)シ、常(つね)ニ爾(なんじ)臣民(しんみん)ト共(とも)ニ在(あ)リ。若(も)シ夫(そ)レ情(じやう)ノ激(げき)スル所(ところ)濫(みだり)ニ事端(じたん)ヲ滋(しげ)クシ、或(あるひ)ハ同胞排擠(どうはうはいせい)互(たがひ)ニ時局(じきよく)ヲ亂(みだ)リ爲(ため)ニ大道(たいたう)ヲ誤(あやま)リ信義(しんぎ)ヲ世界(せかい)ニ失(うしな)フカ如(ごと)キハ、朕(ちん)最(もつと)モ之(これ)ヲ戒(いまし)ム。宜(よろ)シク擧國一家(きよこくいつか)、子孫(しそん)相傳(あひつた)へ確(かた)ク州(しんしう)ノ不滅(ふめつ)ヲ信(しん)シ、任(にん)重(おも)クシテ道(みち)遠(とほ)キヲ念(おも)ヒ、總力(そうりよく)ヲ將來(しやうらい)ノ建設(けんせつ)ニ傾(かたむ)ケ、道義(だうぎ)ヲ篤(あつ)クシ志操(しさう)ヲ鞏(かた)クシ、誓(ちかつ)テ國體(こくたい)ノ華(せいくわ)ヲ発揚(はつやう)シ世界(せかい)ノ進運(しんうん)ニ後(おく)レサラムコトヲ期(き)スヘシ。爾(なんじ)臣民(しんみん)、其(そ)レ克(よ)ク朕(ちん)カ意(い)ヲ體(たい)セヨ。

  御名御璽

 昭和二十年八月十四日

 


日本人として 「忘れてはいけない四つの日」 ~終戦記念日1~

2013年08月10日 17時00分19秒 | 箱根延年の会から皆様へ

この絵は「帰らぬ子、待つ母」という絵で、箱根町・仙石原在住の 勝俣睦先生の作品です。

先生は、現在、旺玄会委員、国立公園箱根風景画展審査委員を務められ、数ある作品の

中では、平成8年の記念切手「仙石原湿原植物群落」が有名です。
 
当社との関わりは深く、芦ノ湖夏まつりウイーク期間中に行われる絵画コンクールは、創設

当初より25年間に亘りの審査員長をお勤めいただいています。

 

今年の絵画コンクールの審査会で、ご一緒させていただいて、この絵のお話を伺いました。

 この度は機会を得て、以下の解説と共に、皆さまにご紹介します。

 

『皆さんへ

 学生時代戦争体験の一人として、今の平和を大切にしなければと、

 戦争の悲惨な出来事、私の体験を絵にして絵を通して「語り部」となるべく描いてみました。

 平和を願って!!   勝俣睦 』

 

           箱根九条の会 会報83号 「はばたき」 2013年 1月 18日発行から抜粋

箱根山にも「岸壁(がんぺき)の母」   

                                  寄稿 勝俣 睦氏(箱根町・仙石原)

私の兄、静治(長男)は昭和20年6月13日、太平洋戦争沖縄戦で戦死いたしました。

昭和20年夏、兄戦死の公報が届きました。「沖縄.八重山の戦闘で戦死」と、文書のみ、遺骨は

ありませんでした。私達兄弟は学徒動員令の中、それぞれ工場で勤労奉仕をしておりましたたため、

帰省した時知らされました。家族のみの家族葬をすました様でした。

 当時の戦死者で葬儀が行われましたのは昭和13年中支(那)で戦死された鈴木さんの葬儀(村葬)

を記憶しております。夕方近くの村道に村人と共に仙石原小学校全校生が並んで「青年団の葬

送行進曲の楽隊を先頭に」遺骨を迎えた記憶があります。しかし戦争末期19~20年頃の多くの戦

死者は「村葬」は行われず、家庭葬の様な形で葬儀を行ったと思います。終戦前後は生きることが

精いっぱい、村人集まっての葬儀が出来なかったものと思います。やがて、終戦となり、「中国」

「シベリヤ」等から生還した方が何人かございました。

 母は毎日、兄が突然帰って来るのではないかと待ち続けておりました。公報が間違いであるかも

知れない、半年も1年もあきらめず待ち続けていたのです。「岸壁の母」は箱根にも居ったのです。

いや、全国どれだけ多くの「岸壁の母」「家族」がいたことでしょうか。

 仙石原旧保育園跡地にある「忠魂碑」を忘れてはなりません。

 戦争は勝っても負けても多くの犠牲が伴い悲しいことです。

 国と国、賢い心で平和を守ってください。

 

【岸壁の母とは】

  第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放された多くの兵隊さんがいました。

  終戦後、彼らを乗せた引揚船は続々と舞鶴に着きました。

  引揚げは昭和33年まで続き、たとえ事前に発表される復員名簿に名前がなくても、

  東京から遠く舞鶴まで通い、藁にもすがる思いで、生死不明のわが子の帰りを待ち

  続けた母が大勢いたのです。

 

 

さて、そろそろお盆ですね。

帰省などして、縁者と集まる機会があれば、皆さんの周り戦争のお話を伺ってみてはいかが

ですか?  

実は、皆さんの周りにも「岸壁の母」がいらっしゃるかもしれませんし、時代が違えば、私共

自身が大切な人を失ったり、岸壁の母になった可能性もあるのですよ。 


日本人として 「忘れてはいけない四つの日」 ~長崎原爆の日~

2013年08月08日 21時07分15秒 | 箱根延年の会から皆様へ

今から68年前、広島に原爆が投下された3日後の8月9日、長崎市にも原爆が投下されました。

今年も8月9日(金)午前10時35分から、松山町平和公園の平和祈念像前において原爆犠牲者のご遺族をはじめ、市民多数の参加のもとに被爆68周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が行われ、原爆が投下された午前11時2分には長崎の鐘やサイレンを鳴らし、原爆死没者の冥福と恒久平和の実現を祈り、1分間の黙とうを行います。

この席上での長崎市長の平和宣言は、国連加盟の各国元首をはじめ、全国の地方公共団体などへ送るとともに、インターネットを通じ全世界に発信され、核兵器廃絶と世界恒久平和の確立を訴え続けています。

さて、この写真をご覧下さい。

「トランクの中の日本 ~米従軍カメラマンの非公式記録~」、小学館から刊行されている写真集

のなかの1枚です。

 撮影者であるジョー・オダネル氏は写真にこんな添え書きをしています。

『この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動の姿勢で、何の表情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。』

 さらに、この本の冒頭で「読者の方々へ」としてこんな文を載せています。

 『読者の方々へ

私ジョー・オダネルは、アメリカ海兵隊のカメラマンとして、1945年9月2日に佐世保に近い海岸に上陸した。空襲による被害状況を記録する命令を受け、23歳の軍曹だった私は、日本各地を歩くことになった。

私用のカメラも携え、日本の本土を佐世保、福岡から神戸まで、そしてもちろん広島、長崎も含めた50以上の市町村に足をのばした。カメラのレンズを通して、そのとき見た光景の数々が、のちに私の人生を変えてしまうことになろうとは知る由もなかった。

1946年3月、本国に帰還した私は、持ち帰ったネガをトランクに納め、二度と再び開くことはないだろうと思いながら蓋を閉じた。生きてゆくためにすべてを忘れてしまいたかったのだ。(中略)

 この本は私の物語である。私自身の言葉で、私の撮影した写真で、戦争直後の日本で出会った人々の有り様を、荒涼とした被爆地を、被爆者たちの苦しみを語っている。胸をつかれるような写真を見ていると、私は否応なく、辛かった1945年当時に引き戻されてしまう。そして、私のこの物語を読んでくださった読者の方々には、なぜひとりの男が、戦争直後の日本行脚を忘却の彼方に押しやることができず、ネガをトランクから取り出してまとめたか、その心情を理解していただけると思う。』

オダネルさんは、カメラを片手に広島、長崎をさまよい放射能を浴びたのが原因で健康を害して退職、入退院を

繰り返し、平成19年(2007年)、奇しくも長崎に原爆投下された8月9日に86歳で亡くなられました。

  この年、皇后陛下はお誕生日に際し「この1年国内外で起きたことで、特に印象に残ったことをお聞かせください」との質問に、この写真とカメラマンについて次のように述べられています。

『今年(平成19年)8月の新聞に,原爆投下後の広島・長崎を撮影した米国の元従軍カメラマンの死亡記事と並び,作品の一つ,「焼き場に立つ少年」と題し、死んだ弟を背負い、しっかりと直立姿勢をとって立つ幼い少年の写真が掲載されており,その姿が今も目に残っています。同じ地球上で今なお戦乱の続く地域の平和の回復を願うと共に,世界各地に生活する邦人の安全を祈らずにはいられません。』

私も、明日はこの兄弟をはじめとする原爆犠牲者の皆さまに黙祷を捧げ、恒久平和の実現を祈りたい。

そして、機会があれば、皆さまにもぜひこの写真集をご覧いただきたい。


皆さんも一緒に

2013年08月06日 19時20分50秒 | 箱根延年の会から皆様へ

 

 

さて、神社では本日の後宴祭(こうえんさい)をもって、すべての夏まつりをおさめました。

夕方、ザザっと雨が降ったと思ったら、空に大きな虹が!

 

中国では、虹を蛇や竜の一種と見なす風習があるそうで、明確に龍虹と呼んだり、

「広東鍋の取っ手の龍」を意味する鑊耳龍と呼ぶ地域もあるそうです。

 

さらに、虹が、二重になっているのをご覧になれますか。 

二重の虹は、下の濃い虹が『虹』、雄の竜 = 主虹で、上の薄い虹が『蜺』、

雌の竜 = 副虹を指すんですって。

雨上がり、なんだかとても清々しくて、とても幸せな気持ちになりました。

皆さんにも、幸・福をおすそ分けします。


日本人として 「忘れてはいけない四つの日」 ~広島原爆の日~

2013年08月05日 22時06分26秒 | 箱根延年の会から皆様へ

明日は、8月6日。

太平洋戦争も末期の昭和20年(1945)、今から68年前、広島に原爆が投下され

ました。

明日、原爆死没者の霊を慰め、世界の恒久平和を祈念するため、平和記念公園の

原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)前において、原爆死没者の遺族をはじめ、

市民多数の参加のもとに平和記念式典が挙行されます。式典の中で広島市長に

よって行われる平和宣言は、世界各国に送られ、核兵器の廃絶と世界恒久平和の

実現を訴えます。

また、原爆が投下された8時15分には平和の鐘やサイレンを鳴らして、式典会場、

家庭、職場で原爆死没者に哀悼の意を表し、あわせて恒久平和の実現を祈り、

1分間の黙とうが行われます。

 

 昭和20年8月6日に米国が事前警告なく広島に原爆を投下し、一般市民を大量殺害

したことに対し、その僅か4日後の8月10日、日本政府はスイスを通じて米国政府に

「抗議文」を出して、原爆投下を「国際法および人道の根本原則を無視」したものだと、

厳しく批判していたのですね。

 

   米機の新型爆彈による攻撃に對する抗議文


 本月六日米國航空機は廣島市の市街地區に對し新型爆彈を投下し瞬時にして

多數の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり


 廣島市は何ら特殊の軍事的防備乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市に

して同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非ず、

 本件爆撃に關する聲明において米國大統領「トルーマン」はわれらは船渠工場

および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆彈は落下傘を付して投下せられ

空中において炸裂し極めて廣き範圍に破壊的效力を及ぼすものなるを以つてこれに

よる攻撃の效果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能な

こと明瞭にして右の如き本件爆彈の性能については米國側においてもすでに

承知してをるところなり、

 また実際の被害状況に徴するも被害地域は廣範圍にわたり右地域内にあるものは

交戰者、非交戰者の別なく、また男女老幼を問はず、すべて爆風および輻射熱により

無差別に殺傷せられその被害範圍の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の

傷害状況より見るも未だ見ざる惨虐なるものと言ふべきなり

 聊々交戰者は害敵手段の選擇につき無制限の権利を有するものに非ざること

及び不必要の苦痛を與ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは

戰時國際法の根本原則にして、それぞれ陸戰の法規慣例に關する條約附属書、

陸戰の法規慣例に關する規則第二十二條、及び第二十三條(ホ)号に明定せら

るるところなり、

 米國政府は今次世界の戰乱勃発以來再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的

戰争方法の使用は文明社會の與論により不法とせられをれりとし、相手國側において、

まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨聲明したるが、米國が

今回使用したる本件爆彈は、その性能の無差別かつ惨虐性において從來かかる性能を

有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり

 米國は國際法および人道の根本原則を無視して、すでに廣範圍にわたり帝國の

諸都市に對して無差別爆撃を実施し來り多數の老幼婦女子を殺傷し神社佛閣

學校病院一般民家などを倒壊または焼失せしめたり、

 而していまや新奇にして、かつ從來のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性

惨虐性を有する本件爆彈を使用せるは人類文化に對する新たなる罪惡なり

 帝國政府はこゝに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において

米國政府を糾彈すると共に即時かゝる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを

厳重に要求す

 

 


日本人として 「忘れてはいけない四つの日」 ~沖縄戦終結の日~

2013年06月13日 21時47分56秒 | 箱根延年の会から皆様へ

当社の授与所でも授与をしている「皇室(こうしつ)」という本の、第58号(平成25年春号)の

特集は、『天皇・皇后両陛下沖縄県ご訪問特集「慰霊の旅」』です。

 

今日は、その中のコラムを抜粋でご紹介します。

『昭和56年8月7日に行われた記者会見で、当時、皇太子殿下でいらっしゃった

 陛下は「日本人として忘れてはならない4つの日がある」とおっしゃった。

 その4つの日とは、

 8月6日の「広島原爆の日」

 8月9日の「長崎原爆の日」

 8月15日の「終戦記念日」

 そして6月23日の「沖縄戦終結の日」である。

 両陛下はこれら4つの日を特別な日とお考えになり、戦没者の慰霊のために終日、

 お慎みになられる。

 (中略)

 そして9度目のご訪問を果たされた後の平成24年のお誕生日会見では

 「沖縄は、いろいろな問題で苦労が多いことと察しています。その苦労があるだけに

 日本全体の人が、皆で沖縄の人々の苦労をしている面を考えていくということが大事

 ではないかと思っています。地上戦であれだけ大勢の人々がなくなったことはほかの

 地域ではないわけです。そのことなども、段々時がたつと忘れられていくということが

 心配されます。やはり、これまでの戦争で沖縄の人々の被った災難というものは、

 日本人全体で分かち合うということが大切ではないかと思っています」と述べられている。』

 

 今年も、「慰霊の日」である 平成25年6月23日(日)午前11時50分から午後0時40分 

 平和祈念公園(沖縄県糸満市摩文仁実施場所)で 平成25年沖縄全戦没者追悼式が開催

 されます。

 当会も、6月23日は、稽古の予定です。

稽古の中で、先ずは黙とうをささげ、課外授業としてこのコラムを取り上げたいと思います。


万巻上人の奥津城

2013年06月10日 15時49分42秒 | 箱根延年の会から皆様へ

 

お稽古の合間に、境内を散策して、万巻さんの奥津城(お墓)へお参りに行きました。

万巻上人については、箱根延年のなかでも紹介されていますが、 『箱根神社大系 下巻』に

箱根に伝わる伝説が掲載されていますので、紹介します。

 

「万巻上人の墓」

万巻上人は、今から凡そ千二百年前、養老年中鹿島神社の社人の家に生れ、名を京仁と

云っていたが、僧侶になってから、一日に一万巻の経典を読んだと云うので、万巻上人と

云われていた。この徳行高き上人が、天平勝宝年中箱根山へ来て修行していた。

或夜霊夢の告を得た。

變な姿をした三人が来て云うのには、「吾々は昔からこの山にゐて衆生を済度してゐる神だが、

お前はこの山にゐて修行しなさい」と云ったかと思うと、形が變って文殊、観音、弥勒となって

「池水清浄浮月影 汝意清潔来三体 三身同共住此山 結縁有情同利益」と唱え言を云った。

万巻上人が夢から覚めて信心を深め、三人のお姿を一社に崇めて、三社権現としてお仕え

したという。

この万巻上人は、弘仁7年に天子様のお召しがあったので、京都へ行く途中、三河の國で

病気でなくなられた。

お弟子が泣くなく遺骸を持って来て権現の裏山に葬った。

昭和6年まではそのお墓の邊は丈餘の篠竹が繁茂していた。

村人は秋から春へかけて、竹きりに山に入るのが主な仕事であった。

権現山は村に近いし、南向きの山で日当たりがよく、よい竹が出るし、手近に採れるので多くの

人がはいるのだった。

然し万巻上人のお墓近くへ寄っても病気になる、第一お墓を見たら、その晩から熱病になる、

と云って近寄る人がなかった。

昭和五年の豆相(ずそう)の大震災に万巻さんのお墓が倒れたので、宮司がお祭りして修復し、

その近くの竹を全部刈り取って、お詣りのできるようにした。

熱病をやむ事は昔話にはなったが、今でも近くを通る村人は必ず拝礼行くのである。

 

万巻上人の奥津城は、北参道を登った先にあります。

皆様もお参りの際には、ぜひこちらもお参りください。

 


箱根の宝 ~その2~

2013年06月05日 09時15分01秒 | 箱根延年の会から皆様へ

もうひとつ、会員の女の子の課外発表の作品を紹介します。

                 箱根の森小学校6年 A.Aさん(当時)

箱根の子供が、神社の由緒そしてその土地の歴史に興味を持つのは、

とてもいいことですね