『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 55 文禄の役・碧蹄館の戦いと江島氏 その2

2018年08月22日 | 江島氏



●柳川領軍役定に見る立花軍団の編成

明和7年(1770)に原本から書写されたものですが、米多比(ねたび)家に伝わる文書に「柳川領軍役定」があります。この文書によって文禄の役の立花宗茂軍の編成、装備の他、与力衆全員の人名が判ります。その内容の一部をご紹介します。

【立花宗茂の本隊】
昇(幟)3本、騎馬89騎、鉄砲140挺、弓37張、槍209本、徒歩ノ侍339人  合計824人

【壱番隊】
立花三左衛門(鎮久) 立花吉右衛門(成家)
昇(幟)7本、騎馬27騎、鉄砲80挺、弓10張、槍118本、徒歩ノ侍125人 ※合計なし

【弐番隊】
小野和泉(鎮幸)
昇(幟)7本、騎馬41騎、弓16張、槍155本、徒歩ノ侍300人 合計592人 ※鉄砲記載なし

【三番隊】
由布長三郎
昇(幟)5本、騎馬30騎、弓16張、槍83筋、徒歩ノ侍195人 合計367人

※四番隊の記載なし

●合計数 
昇72本、騎馬112騎、槍640本、鉄砲350挺、弓91張、徒歩ノ侍1242人、総人数2607人
※但人数三千との別記あり
【出典】「福岡県史 柳川藩初期 下巻」p118〰p122


立花軍団の全貌が見えてくる気がします。
これは浅野弾正少輔(長政)から立花宗茂と実弟の高橋直次宛の軍編成指示の書状のようです。

これに続く内容は、およそ30人程の立花氏の一門、重臣達のそれぞれに、数人から、最大52人までの侍を与力として配分してあり、その名前が全て列記されています。与力と言ってもその多くは家臣名で、それらに交じって筑後の国人達の名があります。

「江嶋彦右衛門」は蒲池城城主「小野和泉」(小野鎮幸5000石)の52人の与力の一人として記載されています。(p141)彦衛門は江上合戦(八院の戦い)でも小野和泉守鎮幸の与力として参戦していたことはVol 42 「 江上合戦・筑後江島氏最後の戦い」でご紹介しました。


●江嶋彦右衛門の陣立て(推定)

当時行われた太閤検地によって国ごとの国力の基準として石高制が採用され、立花宗茂は13万2000石を領する事となりました。朝鮮出兵の軍役においてもこの石高に応じた軍役が課せられました。家臣においても同様で家中ごとに知行高に応じた軍役の基準があり、それに応じた武器や人員を揃えて参陣しました。

今回の史料「立花文書」の中に「軍役書立」と云う文書が有り、知行高別の規定が書かれています。これを参考に江嶋彦右衛門一党の戦における編成を推測してみる事にしましょう。


三千石       78人 馬4匹  ※徒歩78人騎乗4人: 計82人
二千石       67人 馬4匹
千五百石      29人 馬3匹
千石        29人 馬2匹
七百石、八百石   22人 馬1匹
五百石、六百石   18人 馬1匹
三百石、四百石   15人 馬1匹
二百石、二百五十石   13人 馬1匹
百石、百五十石     10人 馬1匹

文書に記載はありませんがこれに弓、鉄砲、槍等が割り当てられます。

ちなみに太閤検地での江島氏本貫、江島村、四郎丸村の石高はと言いますと、これもこの資料にありました。 

【出典】「福岡県史 柳川藩初期 下巻」「筑後国知行目録」文禄4年 p202〰p206

★江嶋村 (二か所) 449石4斗5升、370 石2 斗1升   計819石6斗6升
★四郎丸村(二か所) 252石1斗1升、16石8斗4升    計268石9斗5升
                         合計1,088石6斗1升

※これは課税石高で総生産高とは異なります。

という事で立花氏が彦右衛門に旧領千石相当の軍役を課したとして、さらに他の記録も参考にしてみますと。

騎乗2  鉄砲2挺  槍3本  徒歩24  合計31人 と考えられます。

実際はどの様な扱いであったのでしょうか。

与力は「寄騎」とも書き、戦国期は一般的には侍大将や足軽大将を寄親としで、その指揮下の騎乗の武士を指します。主に小領主層や地侍が務めたようです。

しかし、立花藩の軍編成は家老や重臣クラスの武士の下に、藩士と国衆も混在して与力として組入れられています。また藩士も禄高により騎乗と徒歩に分けられています。ちなみに江島氏は騎乗を許されていました。


●四郎丸衆の事

四郎丸村の耕地面積は江島村とほぼ同じくらいなのですが、石高は僅か3分の1程度です。これは江島氏は領地が狭いゆえに、戦費や家臣の俸禄を廻船業で賄っていたという私の推論を裏付ける数字ではないかと思います。

四郎丸村の江島氏とその一党は操船に長けた船手衆で、戦時は水軍的な役目を、平時においては廻船衆として動く専門集団であり、農耕にはあまり関わり合っていなかったのでしょう。記録こそ有りませんが、四郎丸江島氏が立花氏の兵站輸送に一役かっていたと考えています。慶長期の新田開発や朱印船貿易を考えれば、かなりの資財を有しており、表高1000数百石程度をはるかに超える家臣数を有していたかもしれません。


そして、四郎丸衆の人数は彦右衛門を頭とする、陸戦部隊と同等の人数か、あるいはそれ以上の人数を抱えていたのではないでしょうか。徳川の時代になって、江島四郎左衛門が青木島の新田開発を行ったのも、これら四郎丸衆の家臣やその郎党が帰農するための新田開発、言い換えるならば失業対策ではなかったかと考えています。


Copyright (C) 2018 ejima-yakata All Rights Reserved