『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 57 江島長兵衛 原城に死す 

2018年08月30日 | 江島氏

天草四郎(益田時貞)


●「長崎夜話草・原城記事」

江戸中期の長崎出身の天文学者に「西川如見 (忠英)」という人物がいます。八代将軍徳川吉宗の求めに、洋学について講じた事もあります。
多くの著作を残していますがその一つに「長崎夜話草」があります。「長崎夜話草」は明治期に出版されたものがデジタルコレクション化されており、誰でも読むことが出来ます。

戦前の大ヒット曲「長崎物語」の主人公「ジャガタラお春」の逸話の元となった「ジャガタラ文(ぶみ)」の紹介記事で良く知られた書物です。

この本には様々な文献をもとに「島原の乱」の顛末を書いた「原城記事」という章があります。実はこの「原城記事の巻之十二」「諸将圍城」の段で、寛文14年(1637)12月20日の第一次総攻撃の記事中に「江島長兵衛」なる名前を偶然に発見してしまいました。

長兵衛はこの戦いにおいて陣没(戦死)したと記載されており、他の柳川藩士名と共に紹介されています。

また「原城記事巻之十七」「死傷名士」では12月20日の攻撃で、立花忠茂家人、士分の者、死者28人、傷者69人の死者の一人として再度紹介されています。 この日の戦闘だけで柳川藩だけで、卒伍の者、死者84人、傷者203人を合わせて死者112人、傷者272人の犠牲者を出しています。


●江島長兵衛は江島長兵衛幸重か

私が驚いたのは、この「江島長兵衛」という名前は、過去記事でも一度紹介したことのある人物と同名だったのです。Vol 43 「柳河藩享保八年藩士系図」に見る江島氏で江島繁之丞の祖父吉左衛門幸親の兄「幸重」の通り名が「長兵衛」なのです。
幸重は系図においても血脈が途絶えており、子孫を残していません。
しかし、系図では長兵衛の死に関しての記述はありません。

柳川藩士江島家は繁之丞の父、庄次郎の代に藩士になっており、祖父吉左衛門や大伯父長兵衛の代は藩士ではありません。では、藩士ではない長兵衛が柳川藩士として原城攻防戦に参戦したのかを検証してみる事にしました。


★長崎夜話草
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766709
★島原の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/島原の乱

原城記事の原文は漢文で書かれていますので、菊池寛の著作「島原の乱」の一部を掲載いたします。12月20日の総攻撃の立花軍の様子や前後の事情が比較的詳しく書かれています。まずはこちらからご覧ください。



板倉重昌


■「島原の乱」菊池寛より 
 
※●の項目は私が追加したもので原文中にはありません。

(前略)

【板倉重昌憤死之事】

江戸慕府へ九州動乱の急を、大阪城代が報じたのは寛永十四年十一月十日の事である。大老酒井忠勝、老中松平信綱、阿部忠秋、土井利勝等の重臣、将軍家光の御前で評定して、会津侯保科正之を征討使たらしめんと議した。

家光は東国の辺防を寛うすべからずと云って許さず、よって板倉内膳正重昌を正使とし、目付石谷十蔵貞清を副使と定めた。両使は直ちに家臣を率いて出府した。上使の命に従うこととなった熊本の細川光利、久留米侯世子有馬忠郷、柳川侯世子立花忠茂、佐賀侯弟鍋島元茂等も相次いで江戸を立ったのであった。
 

●一揆軍、原城に立て籠る

さて天草から島原へ軍を返した四郎時貞は、島原富岡の両城を攻めて抜けない中に、既に幕軍が近づいたので、此上は何処か要害を定めて持久を謀るより外は無い、と断じた。

口津村の甚右衛門は、嘗つて有馬氏の治政時代に在った古城の原を無二の割拠地として勧め、衆みな之に同じたから、いよいよ古城を修復して立籠る事になった。口津村の松倉藩の倉庫に有った米五千石、鳥銃二千、弓百は悉く原城に奪い去られた。上使が有江村に着陣した十二月八日には、原城は準備整って居たのである。
 
城の総大将は勿論天草四郎時貞であるが、その下に軍奉行として、元有馬家中の蘆塚忠兵衛年五十六歳、松島半之丞年四十、松倉家中医師有家久意年六十二、相津玄察年三十二、布津の太右衛門年六十五、参謀本部を構成し、益田好次、赤星主膳、有江休意、相津宗印以下十数名の浪士、評定衆となり、目付には森宗意、蜷川左京、其他、弓奉行、鉄砲奉行、使番等数十名の浪士之を承った。

加津佐、堂崎、三会、有馬、串山、布津、有家、深江、安徳、木場、千々岩、上津浦、大矢野、口野津、小浜等十数ヶ村の庄屋三十数名が物頭役として十軍に分った総勢二万七千、老若婦女を合せると三万を越す人数を指揮した。
 

●諸大名出陣

上意をもって集る官軍は、鍋島元茂の一万、松倉重次の二千五百、立花忠茂の五千、細川光利の一万三千、有馬忠郷の八千を始めとして諸将各々兵を出し、城中の兵数に数倍する大軍である。上使重昌は、鍋島勢を大江口浜手より北へ、松倉勢は北岡口浜の手辺に、有馬勢はその中間に、立花勢は松倉勢の後方近く夫々に布陣した。


●第一次総攻撃

十二月十九日寄手鬨の声を揚げると城中からも同じく声を合せて、少しも周章た気色も見えない。重昌、貞清、諸将を集めて明日城攻めすべく評議したが、有馬忠郷と立花忠茂は共に先鋒を争うのを重昌諭して忠茂を先鋒と定めた。


二十日の黎明、忠茂五千の兵をもって三の丸を攻撃した。家臣立花大蔵長槍を揮って城を攀じて、一番槍と叫びもあえず、弾丸三つまでも甲を貫いた。忠茂怒って自ら陣頭に立って戦うが、城中では予てよりの用意充分で、弓鉄砲の上に大石を投げ落すので、寄手の討たれる者忽ち算を乱した。

重昌之を見て、松倉重次に応援を命ずると、卑怯の重次は、勝てば功は忠茂に帰し、敗るれば罪我に帰すとして兵を出そうとしない。重昌は忠茂の孤軍奮闘するを危んで、退軍を命ずるが、土民軍に軽くあしらわれた怒りは収らず、なかなか服しようとはせず、軍使三度到って漸く帰陣した。

大江口の松山に白旗多く見えるのを目懸けた鍋島勢も、白旗は単なる擬兵であって、勝気に乗じて城へ懸ろうとすると、横矢に射すくめられて、手もなく退いて仕舞った。
 


籠城軍が堅守の戦法は、なかなか侮り難い上に、寄手の軍勢は戦意が薄い為に、戦局は、一向はかばかしくない。温泉颪の寒風に徒らに顫え乍ら、寛永十四年は暮れて行った。


其頃幕府は局面の展開を促す為、新に老中松平伊豆守信綱を上使に命じ既に江戸を発せしめたとの報がなされた。この報を受け取った板倉重昌は心秘かに期する処あって、寛永十五年元旦をもって、総攻撃をなすべく全軍に命じた。


●第二次総攻撃

元旦寅の下刻の刻限と定めて、総勢一度に鬨を挙げて攻め上げた。三の丸を打ち破る事は出来たが、城中の戦略は十二月の時と同じく、弾丸弓矢大石の類は雨の如くである。卯の上刻頃には、先鋒有馬勢が崩れたのを切っかけに、鍋島勢、松倉勢、みな追い落された。

立花勢は友軍の苦戦をよそに進軍しないから、貞清之を促すと、「諸軍の攻撃によって城は今に陥るであろうが、敵敗走の際に我軍之を追わんが為である。且つ旧臘我軍攻撃に際しては諸軍救授を為さなかったから、今日は見物させて戴く事にする」と云う挨拶である。

一旦退いた松倉勢も再び攻めようとはしないので、重昌馬を飛ばして、「今度の大事、松倉が平常の仕置き悪しきが故である。天下に恥じて殊死すべき処を、何たる態である」と、詰問したけれども動く気色もない。

板倉重昌、石谷貞清両人の胸中の苦悩は察するに余りある。重昌意を決して単身駆け抜けようとするのを石倉貞清止め諫めると、重昌、我等両人率先して進み、諸軍を奮起させるより途はないと嘆いた。


●板倉重昌討ち死に

進軍して諸軍を顧みるが誰も応じようとしない。従うはただ家臣だけである。重昌その日の出立は、紺縅鎧に、金の采配を腰に帯び、白き絹に半月の指物さし、当麻と名づける家重代の長槍を把って居た。城中の兵、眺め見て大将と認め、斬って出る者が多い。

小林久兵衛前駆奮撃して重昌を護るが、丸石落ち来って指物の旗を裂き竿を折った。屈せず猶進んだ重昌は、両手を塀に懸けて躍り込まんとした時、一丸その胸を貫いた。赤川源兵衛、小川又左衛門等左右を防いで居た家臣も同じく討死である。

久兵衛重昌の死体を負って帰ろうとしたが、これも丸に当って斃れて果てた。伊藤半之丞、武田七郎左衛門等数名の士が決死の力戦の後、竹束に重昌を乗せて営に帰るを得た。重昌年五十一であった。

(後略)

次回に続く

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