『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 51 江島藤六の和歌山開発と筑後江島氏の新田開発

2018年08月03日 | 紀州江島氏

雑賀孫一


今回は慶長から元和における筑後江島氏の動きを整理してみました。


■江島氏の筑後・新田開発

●【江島四郎左衛門の青木島開発】

慶長5年(1600)関ケ原の戦いの翌年、慶長6年(1601)田中吉政の柳川入部と同時に発布された新田開発令に呼応するかのように、「江島四郎左衛門」は青木鼻を埋め立て、青木島(現:久留米市城島町青木島)の新田開発に乗り出します。

元和3年(1617)には江頭正玄と鷲頭右京が当地を青木島村と称し、さらに新たな開発を計画しました。四郎左衛門は開発を続け、本願成就したので、天満宮を祀り神田を奉納したとあります。
この天満宮が現在も青木島にある村社天満宮です。

青木鼻は元々江島氏の船手衆(水軍)の湊があったと思われる場所です。ここを埋め立てたという事は、徳川の時代になり、船手衆が船で商売を行う廻船業に変化し、長崎や柳川の湊町に本拠を移したからではないかと推察しています。


●【江島麟圭と江島権兵衛又右衛門の柳川沖開発】

青木島開発が一段落したと思われる慶長12年(1607)には、元江島城城主、江島美濃こと「江島美濃守麟圭」が、続いて一族の「江島権兵衛又右衛門」が、柳川沖、塩塚川左岸の潟地を干拓しました。この地が「江島開」(えじまびらき)、「権兵衛開」の地名(現:柳川市大和町栄)として明治まで残りました。

江島吉左衛門が朱印船貿易を行ったのは、この柳川沖干拓真最中の慶長15年(1610)秋から慶長16年(1611)春遅くの事でした。

慶長19年(1614)には麟圭は当地に「常楽寺」を創建し「開善」と名を改め出家しました。
※真宗大谷派

●江島権兵衛又右衛門

江島権兵衛(ごんのひょうえ)又右衛門については、現:福岡県柳川市元町26にある「西光寺」浄土真宗大谷派のお寺の過去帳に又右エ門の母親の記載が残っています。
その内容は次の通りです。

寛文12年(1672)6月17日「妙春江島権兵衛殿開又右衛門母」没


【西光寺由来】※古地図に見る柳河町の歴史、西部編より
http://www.geocities.jp/bicdenki/yanagawamatinisihen.htm#saikou

日野家の末裔で肥後玉名郡城主の大津山河内守の舎弟を信濃守という。信濃守も同郡のある城主であったが、秀吉の九州征伐後に両家とも没落した。信濃守の嫡男は出家して、淨真と名のる。真勝寺の配下となり元和2年3月に本山より、西光寺の号を賜り出来町に創建する。のちに今の地に移り再建する。※真宗大谷派

「西光寺」の住職も元は肥後の国人領主でした。注目すべきは「西光寺」の場所です。寺の北にすぐ沖端川が流れており、対岸は新船津町、本船津町で江戸期は船津町と呼ばれました。
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【本船津町】  ※古地図に見る柳河町の歴史、西部編より                   
http://www.geocities.jp/bicdenki/yanagawamatinisihen.htm

この町は外町と同様、新船津町と共に、柳川城郭内の外、捨曲輪内にある町屋である。明證図会に「本船津町 井手橋外東西の通り 前の川は汐入りにて諸国の船ここに集まる」とある。

船津町は回船の津(船着場)の町で、前方は荷揚げの浜だったから片側だけの家並みであった。船津は上流の明王院隅河港や、対岸の材木町・蟹町の忙しさに触発されて開港された。

対岸の材木町が主として藩内や近隣諸藩と御城下との生鮮食料品を初め日用雑貨を扱ったのに対し、船津町は米や線香・蝋・菜種油などの藩内物産を長崎・博多・大阪などに移出し、相手先から藩内に生産されない必需品や船載物などの珍品を移入した。

以前は枝光村であったが官道肥州街道が通り、拓けて枝光村から分離して柳河町に加わった。享保年間以来明治3年まで船津町と言ったが、明治4年から本船津町となった。対岸の材木町と同じく恵美須神社を祀ってある。

(以下省略)

江島又右衛門の母の過去帳が西光寺にあるという事は、又右衛門が権兵衛開を干拓の後、現地に居住せず、船津町に居住していたのかもしれません。又右衛門は船津町を拠点として、江島吉左衛門等と共に長崎、博多、大坂との廻船業に携わっていた可能性も十分に考えられます。

江島氏の新田開発には不思議な事がいっぱいです。又右衛門しかり、また四郎左衛門しかり、当時の江島氏の長老であった麟圭といい、そして江島村本家の江島石見といい、本家筋と思われる人々は一人も帰農していないのです。その理由の考察は別の機会にご紹介したいと思います。


■江島藤六、紀州和歌山の城下町開発

麟圭の常楽寺創建から8年後、江島氏は筑後からはるか離れた和歌山の地で新地開発を行いました。
紀伊の「続風土記」によれば、元和8年(1622)に和歌山中野島村の江島藤六が和歌山藩の許しを得て、和歌山城下の和歌川(雑賀川)沿いの葦原であった地に、和歌山城の南にあった弁財天山の砂石を運んで土地を造成しました。そのため開発当初この地は築屋敷(つきやしき)とも藤六町とも言われました。

後にこの地で「新豊酒」が作られ新豊(しんぽう)の義をとって新富町(にいとみちょう)としました。新富が訛って新留と呼ばれ現在の和歌山市新留町(にんとめちょう)となりました。
新富町は後に南北新富町に分かれますが両町の総間数は122間余(約220m)であったそうです。

※註:新豊酒とは「新豊の酒の色は 鸚鵡盃(おうむはい)の中に清冷たり」 和漢朗詠集

【朗詠:新豊】
https://www.youtube.com/watch?v=f8R2weH1T6U

紀州和歌山は当初、浅野幸長(よしなが)、長晟(ながあきら)の二代に渡り、浅野家によって治められましたが、元和5年(1619)浅野家が広島に転封となって、徳川家康の十男、徳川頼宣が紀州徳川家初代藩主として入部します。元和8年は頼宣によって新たなる城下町作りが開始された頃にあたります。上方に居を移した初代江島吉左衛門一族が、廻船業を通じて和歌山に進出し、城下町建設に乗じて新地開発を行ったものであろうと考えています。


●伝承に残る和歌山開発

和歌山開発の事は我が家の伝承にもあり、「幾度か村人達が江島から和歌山に船で旅立った」と伝わっています。前回でもふれましたが、昭和の初め頃まで私の祖父は、藤六の子孫の方と手紙のやり取りをしていました。祖父は生前、叔父にはっきりと「和歌山の江島家は分家だ」と言っていたそうです。

藤六の新地開発にあたり江島村本家は経済的、人的支援をおこないました。藤六の依頼に答えて、江島村本家は干拓の技術に秀でた者や移住を希望する者の手配と送り出しを行ったようです。また新豊酒造りについては、筑後との関係を彷彿とさせて興味深いものがあります。

記録によれば江島四郎左衛門の子孫は青木島で造り酒屋を生業としていたようです。また江島村本家も酒造を行っていた形跡がみられます。新豊酒造りにあたり、筑後の杜氏の派遣も行ったのかもしれません。新たな町を興し産業の育成を図る、藤六の町作りの夢へ、惜しみない支援をおこなったのではないでしょうか。

藤六の和歌山開発の時代から300年もの間、文のやり取りが続いた事には驚きを感じます。藤六という人物は、江島村本家と余程近しい関係にあったように思われますが、江戸から明治の間にも筑後と和歌山の間には、何らかの子孫同士の人的交流が行われていたのではないでしょうか。そうでなければこれ程長くは続かなかったと思われます。

●藤六町の風景

文=和歌山市立博物館総括和歌学芸員 額田雅裕 画=西村中和 彩色=芝田浩子

上の絵は和歌川の東側、新町南部の約200年前の風景です。「もくづ川」(和歌川)には葦原がみえ、燃料となる薪や柴などを運ぶ舟が行き交っています。背景は、岩橋千塚の古墳が立地する山々です。

岡口門から東へ進み、大橋を渡って右に曲がると、西国第2番札所に至る「紀三井寺道」(近世熊野街道)になります。和歌川沿いの「藤六(とうろく)」町(現在の和歌山市新留丁)は、元和8年(1622)に中野島村(同市中之島)の江島藤六という人が、和歌山城南の弁財天山の土石によって埋め立て造成した新地で、築屋敷ともいいました。その南側には「一りつか」がみえます。一里塚は、初め「多門院」のある一里山町にありましたが、藤六町ができた後、ここへ移されました。(以下略)

●ニュース和歌山
城下町の風景2〜カラーでよむ『紀伊国名所図会』より転載
http://www.nwn.jp/feature/2015011402sirokumano/


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