「Vol 33 九州の江島さんと家紋」で、家紋を九曜紋とし、出自を豊前の名族とされる肥後の江島(えしま)氏をご紹介しました。それに関連して、肥後の江島氏で判明した事を今回はご紹介したいと思います。
肥後の江島氏のルーツを調べ始めたのは「特別な理由」があったのですが、その理由はネタばれとなるので今回は申しません。ともあれ、試行錯誤、紆余曲折の末ようやく、肥後の江島氏が財津氏の庶流である事が分り、そこでたどりついたのが文化6年、財津永澄が撰した『財津氏系譜』でした。しかも千葉県立図書館に復刻版がある事が分り、居住地の図書館から同書を取り寄せました。
そして『西国武士団関係史料集 1(財津氏系譜)』のP171「財津主殿亮永名江嶋氏系譜巻之十二」に次のような記述がありました。
●財津流江嶋氏の始まり
「財津永名」の子「永充」の時、「豊前国宇佐郡江嶋村に居り、因って氏を江嶋と号す」とありました。
さらに、その子「永武」が財津総左衛門永高の家に寄食(居候)している時に、豊前小倉藩二代藩主細川忠利に仕え50石を賜った。細川家が肥後に国替えとなった後、肥後国阿蘇郡坂梨関の関吏になったとあります。
永武は万治2年(1659)12月に亡くなり、阿蘇郡中原村の寺に葬られたようです。
※坂梨関→現阿蘇市一の宮町。坂梨村にあった関所
●阿蘇組財津一党
「新熊本市史」によると阿蘇組財津一党は豊前で取り立てられ、一族八家が知行150石を拝領して宇佐郡に在宅していた。肥後入国に際して阿蘇郡に知行を貰った。阿蘇組には財津氏六家・江島氏二家が入っていたとあります。
●財津氏のルーツ
財津氏の出自については日田氏の庶家であり、日田氏の祖は諸説あるようです。
「武家家伝 財津氏」より転載
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hi_zaitu.html
(転載開始)
財津氏は大蔵氏流日田氏の一族という。日田氏は中世における豊後国日田郡の武士階層を代表する存在で、日田郡司職に就いていた。出自は大蔵氏に求めているが、実際のところは明確ではない。一説に、天武天皇の曾孫で豊後介の任にあった中井王の末裔とするもの、あるいは宇佐氏の後裔とする説などが伝えられている。
日田氏が伝説の域を脱して確実に歴史上に登場するのは大蔵永季のときである。以後、日田氏は永享4年(1432)に滅亡した二十一代七郎丸(永包)まで日田の支配者であり続けた。
南北朝時代、今川了俊に属して活躍した詮永(あきなが)が水島の戦いに戦死、ついで、嫡男の永雅も出征先で病を得て筑前馬渡で客死した。結果、詮永の弟の永息が日田氏の家督を継いだが、永息も戦死してしまった。
永息の嫡男永清はわずか二歳の幼児であったことから、傍系の永秀(永純)が家督を継承した。ところが、永秀の子七郎丸の代に家督を巡る内訌が生じ、大蔵姓日田氏は断絶という結果となったのである。その後、日田氏は大友氏から入った永世(親満)が郡司職を継ぎ、日田氏は大友系として続くことになった。
一方、永息の子永清は長じると日田郡北部の夜開郷財津に城を築き、財津氏の初代になった。以後、財津氏は日田大蔵一族の中核となって、戦国時代を生き抜くことになる。そして、永清が日田氏の嫡流であったという意識から、日田氏の本流は財津氏であるとの思いが強かったという。
(転載終了)
大友流日田氏も1548年に滅亡します。以降日田は、大友義鑑が選出した旧豊後大蔵氏一族の郡老8名が政治を執り行いました。この郡老の一家が財津氏でした。
●日田から宇佐へ、そして阿蘇へ
1593年、豊後国を治めていた大友義統が文禄慶長の役において敵前逃亡の責めを負って改易され、財津氏は主家と領地を失います。日田郡は蔵入地(豊臣家直轄地)となり、以後幕府直轄領となるまで領主が転々と変わりました。
細川藩の肥後への国替えは寛永9年(1632)ですから、約40年の間に主家を失った財津氏の一族が日田から宇佐郡江嶋村に居を移し、江嶋姓を名乗ったという訳です。
なお江嶋村には帰農した宇佐姓江嶋(えじま)氏がいましたから、区別するために江嶋(えしま)と読み替え、しの字に濁点を付けなかったのではないでしょうか。
過去記事「Vol 33 九州各県・江島さんの氏族と家紋」で、九曜紋を家紋とする江島家が「えしま」とした理由が解明出来たように思えます。
そして、細川藩に仕官し、藩の国替えと共に江嶋氏も阿蘇へと居を移し、肥後の江島(えしま)氏となったようです。
●鬼の末裔 宇佐姓大蔵流日田氏財津家
驚くなかれ現在の財津家御当主は90代目だそうで、89代目の「財津吉和 氏」が先祖代々伝わる財津家系譜をブログで紹介されています。いやはやすごい事です。但しブログ記事は直系のみの紹介です。
★「鬼の末裔~“宇佐姓大蔵流日田氏財津家”~系図 財津吉和」
https://blogs.yahoo.co.jp/zai_brg/46972720.html
またブログ記事によれば前出の「財津総左衛門永高」について次のように書かれています。
(転載開始)
財津一族は流浪の身となり、大部分は帰農したが、「財津永高」は細川氏に仕え、『お庭番~藩主直属の秘密警察~の責任者』として、代々、千石取りの重臣として、幕末維新まで続いた。
(転載終了)
財津吉和氏によれば、財津氏の本家日田氏のルーツは宇佐氏であったようで、「財津永充」が落ち着き先として豊前宇佐郡江嶋村に住んだのも納得できます。ということで細川家に仕えた江島氏は「宇佐姓大蔵・日田・財津流江島氏」という事になりますが、便宜上当ブログでは「肥後・財津流江島氏」と紹介させて頂きます。
また「都道府県別姓氏家紋大事典」に江島(えしま)氏の出自が「豊前の名族」とあったのは以上の様な事を踏まえてという事だったのでしょうか。むしろ「豊後の名族」としたほうが適切ではないかと思うのですが・・・
■宇佐姓江島氏も肥後・財津流江島氏も、共に名前の由来は、豊前国宇佐郡の江島別府、江島村の地名にあったという訳です
【参考史料】
★新熊本県史
★『西国武士団関係史料集 1(財津氏系譜)』芥川竜男、福川一徳編校訂、文献出版
※文化6年、財津永澄が撰した『財津氏系譜』(和綴本)を復刻したもの
Copyright (C) 2018 ejima-yakata All Rights Reserved