●江上合戦の死傷者
過去記事「Vol 42 江上合戦・筑後江島氏最後の戦い」において、筑後江島氏が立花軍の与力として参戦した事を白峰旬氏の研究論文を参考にして、ご紹介しました。「福岡県史 柳川藩初期 上下巻」に、その1次史料である「安東五郎右衛門尉合戦注文写」と「小野和泉守合戦注文写」が掲載されています。
「安東五郎右衛門尉合戦注文写」では、論文で触れられていなかった、戦死者之衆の中に二人の江嶋姓の武士名を発見しました。やはり戦いで命を落とした一族がいたのですね。被疵衆とともに名前を列記します。
【戦死者之衆】
江嶋市郎
江嶋又太郎
【被疵衆】
江嶋善兵衛
江嶋孫六
江嶋善九郎
※家臣名、中間名は特定できず
「小野和泉守合戦注文写」では
【被疵衆】
江嶋彦右衛門尉(鉄砲疵)
※多数の死傷者名はあるが他に江嶋姓は見当たらない。
また家臣名、中間名は特定できない。
このように史料を読み返してみると安東五郎右衛門の与力として参戦した江島氏の主体は主家を失った元蒲池家家臣の江島氏ではなく、江島村の江島宗家ではないかと思えるようになりました。
江嶋彦右衛門の小野和泉守との関係は、記録で見る限り、文禄・慶長の役から関ケ原の大津城攻め、江上合戦に至る迄終始一貫して、与力として行動を共にして来たことが伺えます。
彦右衛門が和泉守の手の者となった経緯は不明ですが、和泉守が蒲池城主となった事が一番の要因でしょう。また小野和泉守は立花道雪に仕える前は大友氏の直参でした。同様に江島氏も大友氏の直参でしたから、古くから見知った関係であったかもしれません。
江島氏が立花宗茂の家臣に正式に取り立てられる為には、武功をあげる事が必要条件であり、立花氏の家臣団の中でも勇猛随一の人物として、数々の戦功をあげた小野和泉守の手の者として行動することは、最も早道であったと推察できます。彦右衛門が江島氏存続のキーパーソンとして小野和泉守を選んだとしても何の不思議はありません。
●江島村の知行主は誰
では江島氏と安東氏の接点はどこにあったのでしょうか。その答えも「福岡県史 柳川藩初期」にありました。私が直感的に感じていた理由は、安東氏が江島村の主たる知行主ではなかったかと言う理由です。
「久留米藩寛文十年社方開基」にある江島村の坂本神社を再興した人物に「十時摂津(連貞)」とありましたが、十時連貞と江嶋氏との密な関係を感じさせる記事は全く見当たらないのです。
「久留米藩寛文十年社方開基」の信憑性には疑問を感じていましたので、江島村の知行主が判る史料をさがして見ますと・・・
★下巻のp401〰p402「立花親成(宗茂)知行宛行状写」に文禄5年の日付で、三潴郡内、江嶋村501石余、高津村180石余、山門郡塩塚村17石余、合計700石とあります。そして宛名は「安東摂津介」です。
★「安東摂津介」の他の知行記録を調べてみますと、p396に天正15年8月、三潴郡8か所、山門郡3ヶ所 合計19町4反とあります。但し三潴郡の知行地の中には江島村は含まれていません。
★続いてp401に文禄2年8月、朝鮮役の功により13町を加増され、計50町3反28歩とあります。宛名は「安東津介」とありますが、津介は摂津介と同一人物と見られています。またこれには知行地名の記載はありません。
★文禄4年に行われた太閤検地では、江島村の総石高は819石6斗6升とされており、翌5年には安東摂津介は江嶋村に501石余を知行していた事になります。
立花宗茂は領国支配において家臣への分轄知行を行い、家臣の力が一定地域に集中する事を防いでいました。江嶋村残りの318石は誰が知行していたのかは不明ですが、安東摂津介が主たる知行主と見て間違いないでしょう。以上の史料から読み解くと、江島村と安東氏との関係は文禄期から始まったであろうと思われます。
●安東五郎右衛門と安東摂津介の関係
安東摂津之介と江島氏が与力した安東五郎右衛門との関係を見てみましょう。
安東五郎右衛門こと「安東範久」は安東家栄の弟になります。
安東摂津介(津介)こと「安東幸貞」は安東家栄の四弟で、二人は兄弟です。しかも五郎右衛門に男子がなかったのか、摂津之介は五郎右衛門の養子になっています。二人は実の兄弟であり、義理の親子という関係なのです。
安東五郎右衛門は道雪、宗茂と仕えた譜代の家臣であり、家中でも指折りの豪の者として知られる武将でした。当然ながら摂津之介は五郎衛門と良く行動を共にしていたようです。
●江島村・坂本大明神の本当の再興主は?
「久留米藩寛文十年社方開基」では天正13年「立花左近」様の家臣「十時摂津守」殿が再興したとありますが、この再興の年には疑問があると、過去記事「Vol 14 氏神と江島氏その7 寛文十年社方開基の虚実」で述べました。
またその後の調べでも、十時氏と江島氏の接点を発見することは出来ませんでした。私は坂本神社が再建されたのは立花氏が最初に筑後の領主であった時代と見ておりますが、現在の時点で再興した人物は「十時摂津守連貞」ではなく、「安東摂津介幸貞」であったと確信するに至りました。
久留米藩寛文十年社方開基編纂時に江島村の社人が提出した覚え書きには立花藩、摂津様と書いてあったのではないかと思います。武士ではない村人が知行主を呼ぶ時は名字やフルネームで呼ぶことはあまり考えられません。村人に聞き取りが行われたとしても元知行主を摂津様あるいは摂津之介様と呼んだはずです。「安東摂津介」は「十時摂津守」ほど著名でなかった事は今も昔も変わらなかったことでしょう。
歴史を調べるにあたって、史料に誤記があると簡単に言い切ってはいけないことも重々承知はしておりますが、少なくともこの社方開基の江島村周辺の記述には誤記や意図的な書き換えが行われており、かなりいい加減に作成されたものと認識しております。
この名前の記載に関しては、地元の情報に疎い新参者の久留米藩の役人が犯した単なる凡ミスであったのかもしれません。
●江上合戦、二つの江島氏
以上の様な事から、江上合戦において、江島氏は一族を二つに分け、江島宗家当主、江島彦右衛門一族は従来通り小野和泉守の与力として参戦。もう一方の一族は江島村の知行主である安東五郎右衛門と安東摂津之介親子の与力として参戦したのではないでしょうか。
立花支配下における、旧国人領主の扱いや知行地については、別の機会に考察する事といたします。
この時期、江島氏は廻船業的な活動で収入、蓄財があり、知行が無くとも家臣や郎党をかなり抱えていたのではないかと述べてきました。蒲池家や龍造寺配下であった江島庶流が主家を無くし、江島村の江島宗家を頼って来る事は十分考えられます。また中氏のように主家を失った者を家臣に加えていましたから、一族郎党を二手にわけることは容易であったと考えられます。
残念ながら、史料には死傷者名しか記載されていませんので、彦右衛門配下の一族名やもう一つの江島与力軍団の頭領名までは確認できません。
●江島氏、安東氏、小野氏の関係
蛇足ですが、安東摂津介の諱は「幸貞」です。資料で見る限り安東一族で「諱」に「幸」の文字を使用していたのは摂津介だけです。
また「江島氏は家譜が存在しない為「諱」を確認することが困難ですが、江戸期に柳川藩士として江島家再興を果たした一族(彦右衛門との血縁も濃いと考えられる)四代の「諱」の通字は「幸」なのです。
摂津介と和泉守、彦右衛門と和泉守、共に両者の関係は主従関係ではありませんが、尊敬する者から「偏諱」を貰うという事はあったのかもしれません。
安東摂津介は小野和泉守鎮幸との関係が深かったのかもしれません。そして江島氏が安東氏の与力となったのは、案外小野和泉守の働きかけがあったのかもしれませんね。
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