『江島氏物語』 

歴史推理ブログ「筑後江島氏とその庶流」
    通史に無い歴史物語

Vol 48 大村藩の対外貿易と西類子 その2

2018年07月17日 | 江島氏

ボストン国立古美術館蔵


大村喜前の政策を見ると、喜前の父、大村純忠が行った政策の全否定のように思えます。
喜前は父親が進めてきた政策の真逆を行って、大村藩を立て直し、明治の代まで存続させる礎を築きます。

大村純忠は有馬晴純の次男で、大村純前の養嗣子となり家督を継ぎます。この頃大村氏は領地も5000石ほどしかなく、海外貿易による財政施策を行い勢力拡大を図ります。

まず、ポルトガル船の為に領内の横瀬浦を開放します。またイエズス会がポルトガル人に対して大きな影響力を持つことを知り、イエズス会宣教師などに対して住居を提供するなど、便宜をはかります。この結果横瀬浦は繁栄し、貿易による財力で戦国大名としての基礎を築きました。

また自らキリスト教に入信し、領民にキリスト教信仰を奨励するあまり、神社仏閣や墓所を破壊し、僧侶や神官、改宗を拒んだ領民等を殺害しました。これらの過激な弾圧は家臣や領民の反発を招きました。日本初の切支丹大名として天下に知られた大村氏は内部に様々な問題を抱えることになります。

このような状況の中で喜前は大村氏の家督を継ぎます。
文禄・慶長の役では若干19歳にして、兵1000名を率いて朝鮮に渡海し武功を建て、秀吉から豊臣姓を下賜されます。武人としても優れた人物であったのでしょう。しかし領主としての優れた才能が発揮されるのはその後です。

関ケ原の戦いの翌年の慶長6年、寺沢広高が大村・有馬氏の領地を家康に求めた為、国替えの危機が訪れます。喜前は幕閣に働きかけてこれを阻止し大村領が安堵されます。

慶長十年には秀忠二代将軍就任の為、伏見城に下向した家康、秀忠に祝賀の拝謁を行い、江戸へ下向する秀忠に嫡男純頼を同行させます。純頼は秀忠近習として2年を江戸で過ごした後帰国します。

喜前が洗礼を受けたのは父親純忠の意を受けてであり、自ら望んだものではなかったと思われます。身近に宣教師達と接する機会が多かっただけに、彼らの真の目的と弊害を早くから見抜いていたのかもしれません。史実が示すようにイエズス会であれ、他の宗派の宣教師にしろ、彼らの母国の植民地政策の先兵として日本に送り込まれた事は紛れもない事実です。

徳川幕府は貿易による利益を優先して、切支丹に対する規制は緩やかでしたが、喜前は慶長10年に大村からパードレを追放、ドミニコ会神父に退去命令を出すなどキリスト教勢力を排除します。
おそらく純頼を通じ、幕府の宣教師や切支丹に対する本音を察知して、素早く手を打っていったのではないでしょうか

また慶長11年には日蓮宗に改宗。慶長12年に御一門払いを行い、藩政改革を断行します。
一門払いとなった大村庶家は大村姓を名乗りながらも、純忠が養子であった為に喜前とは血縁が無かったり、切支丹を棄教しない者が含まれていたようです。
一門払いは下手をすれば武力による抵抗もあり、お家騒動、しいてはお家お取りつぶしになりかねない決断であった訳ですが、喜前は事前に幕府の承認を得ていたと言われ、その政治的手腕には敬服する次第です。

そしていよいよ慶長12年の徳川家康への西類子引見の段となります。
これには喜前自ら家康の元に伺候しますが、その主たる目的は一門払いの報告とお礼の言上であったと考えます。西類子を家康に引き合わせたのは、ルソン政府の日本への働きかけに対し、ルソンの情報を知りたがっている家康への何よりの手土産であったと思われます。

引見にあたり、類子は大変名誉な事だと喜び、衣服を整えて謁見に臨んだそうです。また家康も類子の事情通に感服し、大層喜んで着ていた羽織を類子に与えたと伝えられています。おそらく家康は「その方に褒美を取らす、何なりと申してみよ」と言ったのでしょう。類子はすかさず「ルソンへのご朱印状を頂戴つかまつりとう御座います」と言ったのではないでしょうか。

朱印状は日本政府公認の証であり、相手国は記載された船主に対し安全の保障と最大の便宜を図らなければなりません。また類子に対するルソン政府の信用度が格段にあがります。
類子はここぞとばかりに家康におねだりした事でしょう。

ここが家康の食えないところで、類子に朱印状の下賜を快諾し、同時に外交官としての役目を命じました。幕府が正式の使者をルソンに送るには莫大な費用が掛かりますが、類子なら喜んで自費で使者の役目を果たしてくれる訳です。さらに朱印船貿易での莫大な利益の一部が幕府の懐に転がり込むという次第です。喜前はこのやりとりを見て、苦笑いをしたのではないでしょうか。

キリスト教や宣教師を領地から排除しようと試みている喜前が、切支丹の類子と組んで、スペイン人支配下のルソンとの貿易を行うとは到底考えられません。類子は度々朱印状を下賜され貿易を行いますが、それは類子個人の商いであって、喜前(大村藩)との関係は希薄であったろうと推測しています。またキリスト教排斥を断行する喜前に対し、類子が何らかのわだかまりを持っていた事は否めないでしょう。

家康の死後日蓮宗に改宗し、名を宗真と改めた類子に対し、(喜前も家康と同じ年に亡くなります)大村市史は「大村氏は彼の財力に期待して御用商人として登用することになるが、類子は大村氏との間に距離をおくかのように堺に転住したようである」と記述しています。この距離感こそが、生前の喜前と類子の関係を如実に表しているのではないでしょうか。

喜前の従兄弟でもある日野江藩藩主、有馬晴信は自ら船主となって朱印船貿易を盛んに展開します。慶長14年(1609)、マカオで晴信の朱印船の乗組員がマカオ市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が発端になって、「ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件」、「岡本大八事件」と次々に事件を起こします。晴信は幕府の裁定によって甲斐の国に流され、切腹を申し付けられます。岡本大八、有馬晴信ともに切支丹であった事から幕府はキリスト教の禁教令を出して諸大名に棄教を迫ります。

喜前の藩政は、宣教師の弊害だけに限らず、海外貿易のリスクをも予見していたかのように思えてなりません。真に賢明な藩主であったようです。



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